序章
どうしてこうなったのだろう?
生まれ故郷である遠く離れたスペインのマドリードの風景を懐かしみながら、繁華街の隅の路地裏を少女はひた走る。生温い初夏の風が吹き抜け、息は上がり湿気で前髪が額に張り付く。
どこで変わってしまったのだろう?
ここは日本の中央主要都市、那々桐。見知った顔など一つも無い。先程より続けた疾走も疲労が限界を迎え、少女は壁に手を付き項垂れた。蒼い瞳を伏せ、地面に付きそうなほど長い金色の髪がサラリと揺れる。
「こんな時だと言うに、キミは当たり前のように私たちを優しく照らしてくれるんだね·····」
壁にもたれながら崩れるように地面に腰を下ろした少女は、苦笑しつつ夜空を見上げる。そこには、雲に阻まれながらも尚圧倒的な存在感を見せ付けるかのような荘厳な満月が空に鎮座している。大小様々な星々が彩る漆黒の舞台の中、それでも主役は自分だと言わんばかりの月。こうして見るとなんと美しい物か。自分が今置かれている状況とのギャップに、何とも言えない悲しい気持ちが込み上げてくる。
何故こうなった?何が原因なのだ?ここ数日、何を考えても浮かぶ思考は結局これに尽きる。後悔、絶望、焦燥、悲観――。どれもこれも自分が望む物とは程遠い感情。
「キミはいったいどうしたいんだ·····ウルファス――」
届かぬと知りながらも、少女は月に向かって問い掛けるように言葉を放つ。
「決まっているじゃないか」
頭上から男の声がした。馴染み深い透き通るような優しい声色。だが、その裏側には明確な〝 悪意〟があった。少女は思わずハッとなって声のした建物の屋上へと視線を向ける。
「久し振りだね、ルクーシュ」
「ウルファス·····!」
風が少しだけ強まり、雲が流れ、満月が顔を覗かせる。
見慣れた顔に聞き慣れた声、しかしそれ故に心がザワつく。身体がそれに反応し反射的に跳ねるように立ち上がり、キッと睨み付ける。今一番会いたくない男·····否、会うわけにはいかない男。それがこのウルファス・ヴァーミンガムと言う男だった。
「鬼ごっこは楽しかったかい、ルクーシュ?」
ウルファスは肩にかかる金髪を手で払いながら、まるで子供と話す時のような口調で尋ねる。
「馬鹿なッ·····もう追い付いたと言うのか!?ウルファス、本当にどうしたのだ!昔のキミはこんなことをするような男ではなかったはず!いや、こんなことを考えようともしなかったはずだ!いったい何があったと言うのだ!?」
「ハハハ、それは買い被り過ぎだよルクーシュ。俺の目的は最初から最後までこれだけ。何も変わっちゃいない。全ては世界の支配者となる為さ。君も分かってるだろう?誰がこの世界の頂点に相応しいか、誰が支配者たるかを!」
「戯れ言をッ·····!そうはさせない!させてなるものか!世界はこんなにも素晴らしい!美しいのだ!絶対にさせないぞ·····〝 月を落とす〟なんてッ!!」
一触即発。交差する二人の視線は火花を散らすほど激しくぶつかり合った。
「戯れ言はどっちかな?渡してもらうよ、ソレも」
ウルファスの視線の先にある物に心当たりがあった。これだけは奪われてはいけない。ルクーシュは、首から下げた十字架のネックレスを握り締める。
「借りし名は混濁――罪人は罰に溺れ、その魂を縛る。《スレイブロウ》」
ウルファスの詠唱。スペインの魔術において属性は水。一瞬反応が遅れたが、地面から吹き出す水を察知してルクーシュも詠唱を始める。
「借りし名は蒼穹――目覚め、解き放ち、旅人は疾風と踊る!《ウイーグラー》!」
ルクーシュの詠唱と共に吹き荒れる突風は水を弾き飛ばすと、辺り一面の物を容赦無くき巻き上げた。砂埃に目を庇ったウルファスだったが、次に目を開ける頃にはそこにはもうルクーシュの姿は無かった。
「逃げたか。俺の術を掻い潜りあまつさえ逃走さえ企てるとはさすがはスペインきってのエリート魔術師と言ったところかな」
ウルファスは前髪を搔き揚げながら不敵な笑みを浮かべる。その言葉、表情からは不気味なまでの余裕と冷静さが窺えた。
「くれぐれもコレを使う相手が君にならないことを祈っているよ。俺としても、幼馴染みの命に手を掛けるような事態は望む所ではないからね」
頭上に翳した手で空に魔法陣を描き、そこから取り出したのは一振りの大剣。身の丈ほどはあろうかと言うそれは、月光を受けて鈍い銀の輝きを放っている。
「さぁ、鬼ごっこ第2ラウンドの始まりだ」
邪悪に歪ませた表情で天を仰ぐウルファス、月もまたそれに応えるように怪しく輝くばかりであった。