帰らずもみじ(柔らかくはない)
そろそろ帰らなくてはならない。夕暮れ時、彼は町外れの神社で賽銭箱の隣に座っていた。
一九四四年、十月二七日。
頭上を戦闘機が飛んでいる。空襲警報がきこえないということは、敵機ではないのかもしれない。飛行機雲が、伸びていく。
彼は昼に届いた赤紙のことを考えていた。
彼が戦場に行けば、家で一番の稼ぎ手がいなくなってしまうことになる。
徴兵対象とはいえ、まだ十七歳の少年を臨時招集するほどに戦局はかたむいているのか。都合のいいことしか言わないラジオに疑問がなかったわけではない。それでも空襲と食糧不足さえのりきれば勝てると思っていた。
年のはじめ。父が白い箱になって帰ってきたときも、母のようには悲しめなかった。骨壷から骨ではなく小さな石が出てきたとき、父は死んだというよりも消えてしまったと感じた。戦地は遺体の回収どころではなく、かわりに絶命した付近の石を送ってきたらしい。
少年は、戦場というものについては考えていなかった。それでも、遠くのことだと思い込もうとしていた殺し合いをやらなくてはならない。いよいよ背筋が冷えてきた。
「お兄ちゃん」
顔を上げると、鳥居のしたに妹が立っている。
「探したよ。帰ろ」
妹は少年の手を握ろうとした。彼は振り払う。そう遠くない未来、銃を取り人を殺すだろう自分の手がひどく汚いものに感じられた。思わず顔も引きつってしまう。
妹が不思議そうにこちらを見ていた。彼はあわてて目線をそらす。
赤い何かを視界の端にとらえた。もみじの葉だった。鮮紅色よりは暗赤色に近く、しかし燃えているような美しさがある。
拾い上げた後、子供のようなことをしたと彼は思った。しかし捨ててしまうのも惜しい気がする。
隣では相変わらず妹がこちらを見ていた。口はぽかんとあき、なんとも間の抜けた表情だ。顔は泥だらけで、擦り傷まである。
「また戦争ごっこか」
「そう。他はみんな男なのに今日はわたしが将校様だったの。すごいでしょ。総員前進、止まれ、撃て」
「どうやれば指揮役がこんな泥だらけになるんだ。嫁入り前なんだ。危ないことはするな」
「お母さんとおんなじこと言う。男はみんなやってるのに」
ふと、このもみじを妹にやろうかと考えた。少しはおとなしくなるかもしれない。
「やるよ」
「なにこれ。ちょっと地味よ。まあ、きれいだけど。もっと明るいのはないの」
「無茶言うな。落ち葉なんてのはみんな年寄りだ」
「なにそれ。変なの」
「とりあえず持っててみな。お前でも少しは別嬪さんになるかもしれない」
「少しって何よ」
二人は鳥居をくぐり、石段をくだる。
「お前、空襲がきたときは任せたぞ。母さんとじいさんを避難させてくれ」
「お兄ちゃんってさ細かいよね、なんか。大丈夫でしょ。いまのところそんなに酷くないし」
「油断」
「はいはい。防空壕でしょ。ちゃんとできますよ」
「はいは一回」
「細かい」
どこからか煮物のにおいがする。子供たちが棒切れを振り回して遊んでいた。みんな生きている、と思った。戦前も今も戦後も。そういう意味で東京は変わらないのかもしれない。
死を確信して、生に感激するのはなにも作り話ではなかったわけだ。
途中で自分自身がおかしくなってきた。なにも彼は死ぬと決まったわけではない。いつ死ぬか分からないのは今もかわらなかった。
「やっぱり地味かも」
妹がもみじを差し出してくる。それを突風がさらっていった。
「ああ、どっか行っちゃった。ねえ、探そ」
「なんだ。気に入らなかったんじゃないのか」
すると妹は急に俯いた。
「だって。お兄ちゃんは大丈夫だよね。もみじみたいに……お父さんのときみたいに、いなくなったりしないよね」
「珍しいな。急にしおらしくなって。帰ってくるよ、ちゃんと」
これでは別嬪さんではなく別品さんだ。彼は苦笑する。
「はやく帰るか。飯がまってる」
真っ赤な夕日が、二人を飲み込もうとしていた。