車窓のむこうに(固め・長め)
列車は暗闇のなかを走っていた。閉めきられた窓には、厚いカーテンがかかっている。
水島は、ぼんやりとあたりを見まわした。
兵舎に向かう途中。この車両では自分が一番若いかもしれない。そう遠くない将来、戦場に放りだされるかもしれないというのが何処か他人事のように感じられた。
誰かが今どの辺りだと問い、また別の声が広島だという。
広島ならば、だいぶ故郷からはなれていた。水島は手元に配られた地図を見る。そこで、目を丸くした。場所はちょうど今いる辺り。海域に不自然な空白がある。そこだけ削り取られたように、何も描かれていない。
不気味に思って地図を凝視した。右下の端に、小さく「参謀本部陸地測量部」とある。ますますわけがわからない。
水島は静かに立ち上がり、周りを確認した。上官は最前列で前を向いて座っている。横を見ると、隣の奴はのんきなことに眠っていた。
静かに腰を下ろし、おそるおそるカーテンをめくる。
真っ暗な海。黒い波が寂しく目に映った。そこに、いくつもの島が浮いている。
あわてて地図を見た。空白の近くに瀬戸内海があり、そこには無数の島が描かれている。
もう空白のあたりは通り過ぎたのかもしれない。
ほっとした。一方で釈然としない。
水島はもう一度外を見る。
島がひとつ、ふたつ……。
数えるのも馬鹿らしいくらいだ。明らかに地図のほうが少ない。位置関係もなんだかおかしいように思われる。
そんなことがあり得るだろうか。陸地測量部がつくった地図に。
水島はしばらく腕組みをして目を閉じた。
考えられることは二つ。
まずは単なる測量の間違い。
しかし、この可能性は低い。この戦時中に自国の正確な形もわかってないとは考えられなかった。戦わされる立場からも、否定したい。
実は国も気付いていないところに島がありました、そこに敵軍艦隊が潜んでました、何も知らない兵士輸送船は間抜けにも撃沈されてしまいました……なんて冗談じゃない。
と、すれば。残るは、国があえて島の存在を隠している可能性。
ただ、その仮説が意味することは。国が島で隠す必要があるくらいに残虐な何かをしている……ということにはなるまいか。
その点で真っ先に考えられるのは人体実験。ほかには拷問のための監獄、単なる憂さ晴らしのための虐殺。
まさか日本に限って、そんなはずがない。鬼畜は敵国、自分たちは正義だ。
今のところもっとも有力な仮説も、変な愛国心が邪魔をして受け入れられない。
そうだ、まだ仮説を裏付ける証拠はなにもない。
かといって上官に真実をたずねる度胸もない。
仮説があたっていたら、自分は何を信じて戦えばいいのだろう。それよりも、その場で消されてしまうかもしれない。
その時初めて、水島は背筋にうす寒いものを感じた。
*
途中、何度も空襲警報をきいた。それでも列車は爆撃をくらうこともなく無事、兵士たちを送り届けた。
兵舎にたどりついたころ、辺りは明るくなっていた。皆は掃除をして、訓練をする。
こうして一日目は終わった。
水島はくたくたになっていた。周りの中年が自主的に走りこんでいるのを、珍生物でも観察するような気分で眺める。一人が、寄ってきた。
「お前もくるか」
とたずねてくる。
「いえ、自分はその、今日は」
あいまいな返事をしたら
「まだ若いのに」
などと言われた。若いのがなんだ、この筋肉馬鹿め。水島は内心で毒づいた。
幸いにもその日、水島には何の役割もない。硬いベッドに身を横たえ、目を閉じる。
すぐに眠れるものと思っていた。
だが、眠ろうとすればするほどに目がさえてしまう。
周りの連中が眠った気配。雑談の声もなくなった暗闇に、虫の声だけが響いている。
さて、どうしたものか。
いよいよ島のことが気になってくる。
水島は布団に顔をうずめ、もそもそと寝返りをうった。
「眠れないのかい」
二十回ほど寝返りをうったところで、誰かが話しかけてきた。水島は上体をおこす。
夜間、見回りをしつつ寝相が悪い者に布団をかけなおす当番がある。おそらくは、その者だろう。
視界をめぐらせ声の主をさがす。なんと、先刻の筋肉馬鹿ではないか。
なんとなく後ろめたくて、視線をそらす。筋肉馬鹿は覗き込んでくる。
「不安か」
「いえ」
「死ぬかもしれない」
「死なないかもしれないですよ」
「何を恐れている」
とにかくしつこかった。水島は名乗り、しぶしぶ島について明かす。
筋肉馬鹿は秋沢と名乗り、しばらく黙り込んだ。
やがて
「夢でも見たんだろう」
と言う。
確かに見た、夢なんかではない。水島は憮然とした。すると秋沢、
「漁船かもしれない」
と言いだす。
この戦局で夜中に群れで漁に出る馬鹿がどこにいる。それに島と見間違うほど巨大な漁船なんてあるものか。軍艦だったにしたって、あんなに大きいのは存在しないだろうに。
カーテンをしめて外を見るな、というのが上官の指示だった事実もひっかかる。
だが、秋沢には何を言っても無駄だろう。水島は愛想笑いをうかべた。
「そうかもしれませんね」
「だろう。君、寝ることだよ。明日も早い」
眠れるならばとうの昔に眠っている。水島は舌打ちしたいのをおさえ、頭から布団をかぶった。
*
数日後、今度は水島が当番だった。他数名とともに寝床をまわる。
ふと、誰かが手をつかんできた。水島は思わずとび退く。
「どうした」
「いや、何もない」
「そんなわけないだろう」
「いや、本当に。……とびきり寝相の悪いのがいただけだ」
当番仲間が近寄ってくる。水島は自分の右手をにぎる奴をにらみつけた。
秋沢だった。
その秋沢
「厠に行きたい」
と言う。
いい年なんだ、一人で行けんのかと思う。どうやら「腹がとても痛いから肩をかしてほしい」そうだ。
なんのつもりか水島に名指しで頼んでくる。ここでしろ、とは言えないから仕方なく了承した。
秋沢の巨体を支え、水島はよろよろと廊下に出る。途端、秋沢に引かれ、転んだ。
「なんのつもりだ」
つい、口調がけわしくなる。秋沢は何も言わなかった。そのまま空き部屋に引きずり込まれる。
秋沢が、水島の上に馬乗りになった。息が荒い。水島は総毛だった。
ぐいと秋沢がおそろしい力で肩をつかんでくる。
「やめろ」
水島はもがいて秋沢の横っ面を打った。
「馬鹿、違う」
秋沢が頬に手をやる。その間に水島は秋沢の下から這い出した。
「なんのつもりだ」
再度、問うた。秋沢と目が合う。かわいそうなくらいに怯えていた。
「大久野島」
やっと彼が吐き出した単語がそれだった。水島は黙って次を待つ。
「お前は間違っていなかった」
震える声で秋沢が続けた。
「上官たちが話しているのをきいてしまった。イペリット、ルイサイト、他に」
「もういい」
水島は秋沢の肩に手をおいた。唇を真一文字に結ぶ。
「わかった、何も言うな」
イペリットだのルイサイトだのが何なのかは、いまひとつ良く分からなかった。ただ気持ち悪いなにかが迫り来るような気分。
なにか、良くないことが起こっている。戦争の影にかくれて。いや、戦時中だからなのか。頭が状況を飲み込めずにいる。
「黙っていられるか」
秋沢が覆いかぶさってきた。
「毒ガスだぞ」
「戦争中だ。どの国もやってるだろう」
はねつけるように水島は言った。動揺が隠せない。秋沢の顔が揺れて見えた。
そんな、日本に限って。
違う、うすうすは分かっていたんじゃないか。戦争に正義も何もない。日本だってなにか公言できないことをしているに決まっていた。
「お前、力を貸せ」
秋沢が言った。
「何にだ」
「やめさせるんだよ」
「できるわけがない」
水島も秋沢も一兵卒にすぎない。いやな言い方をすれば、替えが利く。
「だって、お前、これ、黙って見過ごせというのか」
「馬鹿だな。毒ガスを作っている奴は一人じゃない。おそらく、民間人で徴兵されたのも関わっている。知っていること自体がだめというわけではないと思う」
「ならば、どうすればいい」
「どうもしない。問題は、毒ガスに関係のない俺らが事実を知っていることだ。隠されているにも関わらず。本当は知る由もないことなんだ。あらぬ疑いをかけられたくなければ知らぬ存ぜぬで通せ」
「だが道徳的に」
「道徳では腹はふくれない。そもそも道徳などと言うなら、戦争はなんなんだ。黙るんだな、消されても知らんぞ」
秋沢は、まだ何か物言いたげな目でこちらを睨んでいた。水島は黙ったまま彼をみつめる。やがて彼は踵をかえし、のしのしと歩き去った。
*
翌日。寝床に向かう途中、秋沢が死んだという知らせを聞いた。なんでも訓練中の事故だという。
銃の暴発。
不発と思い込み銃口をのぞいた、そうして自分を撃ち抜いたらしい。
うそだ、と思った。
馬鹿の秋沢でも、さすがにあり得ない。
消された。
と、すれば。
「水島君」
来た。
振り返ると、顔に不気味な微笑をはりつけた上官。
「秋沢君のことで話しがある」
「事故死だそうですね。気の毒でした」
「大事な友人だろう」
「いいえ、少し話したことがあるくらいです」
「そうかい。君たち二人が厠に連れ立って、長いこと帰ってこなかったと聞いているが」
「はい、それは秋沢が酷く腹を壊していたからです。何度も吐いていました」
水島は逃げようとあがく。
「まあ、立ち話もあれだ。私の部屋に来なさい」
上官が表情一つ動かさず、水島の腕をつかむ。
そのままなんの抵抗もできなかった。
「さあ、何を知っている」
上官の微笑に凄みが増す。
「自分はなにも」
「は、ということは秋沢はなにか知っていた」
「いえ」
「そして何かを君に伝えた」
「ですから、自分はなにも」
水島は視線をそらしたいのをこらえた。下手に視線をそらせば上官は肯定ととらえるだろう。
凍りついたような時間。
しばらくの沈黙の後、上官は言った。
「まあ、いいだろう」
「は、失礼します」
水島は胸をなでおろした。びしっと一礼をし、部屋を出ようとする。その背中に。
「待ちたまえ」
水島はびくっと身を硬くした。
「残念ながら、君が毒ガスについて何も知らなかったと証明はできない」
「自分は何も知りません」
「ん、結構。だがね、今聞いてしまった。毒ガスとね」
あっと悲鳴をあげて水島は逃げようとする。この上官、最初から自分を生きてかえすつもりはなかった。
身体が震える。足がもつれてうまく走れない。水島は地面に倒れこみ、激しくもがいた。
上官が彼の上に座り込み、頭に銃口を突きつけてくる。
「疑わしいものはね、消さなくてはならない。なんせ機密なんだ。悪く思うなよ。そうだな、君は親友の死に戸惑い自殺したことにしよう」
理不尽。叫んだはずが、声がかすれて言葉にならない。冷たい汗が頬を伝った。
「水島君、残念だよ」
夜中の兵舎に、一発の銃声。後は虫の声のほか何処までも静かだった。