Ⅱ
人を食うエネミーってやつにいっかどのロマンを感じる人種は少なからず存在するのではないかと思うのだ。恐竜、大蛇みたいな全身これ口なりみたいな大迫力の顎を持つ生物が人をばりぼりむしゃむしゃとやっていると、いっぱい食べる君が好き理論で多少なりとも興奮を覚えると言いますか。そういう観点から言えばいつかのでっかい火吹きトカゲは少なからず胸躍るものがあったと懐古する。この上なくわかりやすい脅威の表現として、よくある恐竜の映画とか大蛇の映画とかは大ヒットしたりするのだ。なにしろヤベェ、って実感が湧きやすい。逃げなきゃ食べられるのだ。怨霊ひしめくホラーより余程、動機が我々にとってわかりよい。
んで、何故独白を挟んだのかと言えば、うちのリライよりもっと口が大きくてよく食べそうな生物、ナマモノが、俺らの眼下に無数に蠢いていたからだった。
一般的にガルムと呼ばれるモンスターで、鈍色の毛皮に覆われた四足歩行の狼である。概算で三十弱。顔面に埋まった蜘蛛や蜻蛉の複眼に似た無数の眼で、忙しなく周囲を探っていた。森林である。一年を通して気温が氷点下を上回ることがほとんどないミザリア共和国近郊、居住区から大きく外れた先にある氷雪に閉ざされた針葉樹の群生林では、厚い毛皮を持つ生物だけがその種を脈々と連ねてきたのだそうだ。野鳥の羽音も聞こえない極寒地帯で白い息を吐き唸る狼たちの群れは、この森の生態系と力の相関を分かりやすく表象していた。
「珍しいな」
「ふむ。彼らがこな浅瀬まで出張ってくるなど、平生では有り得ぬことよ」
俺とリライは生い茂る木々のてっぺん、その更に少し上から奴らの挙動を観察していた。隣でリライがへくち、と見た目年齢相応の可愛らしいくしゃみをしている。どうやら寒いらしい。そらそうだ。現地人が見たら卒倒するんじゃないかってくらい薄着だもんで、俺は出立前に悪いことは言わんから辞めとけと忠告したんだ。執政者の集まる夜会に赴くでもなし、ヒラヒラしてるだけのドレスじゃ風邪引くぞって。忠告は聞き届けられず、リライはいつもの一張羅、布に闇色の塗料をぶちまけただけみたいな地味なドレスを脱ぐことはなかった。修験者でもあるまいに、顕になるはずの両目を覆う布もまた純黒。左目のあるはずの位置には、月光と深海の色を混ぜ合わせたような大粒のタンザナイトが縫い止められている。貧相な胸の上、浮き出たように見える鎖骨は陶磁器じみた肌に薄く陰影を落としている。あーあーあー。寒いからしまえって言ってんのに。
リライを構成する色彩は肌の白の布の黒、それから多色性の青い宝石だけだった。可愛らしいレースのリボンや花のコサージュでもつけりゃあいいものを、リライは独自の芸術性からいつもこの格好をしている。空気の板の上でしみじみとリライを眺めていた俺の方を仰ぎ見たリライは、今ぜったいにしつれいなことを考えておるだろう、と器用に片眉を吊り上げていた。
ヴィエルバからのんびりと空中散歩をしながら移動してきた俺らは、リライが言うところの新世界からの来訪者を探して寒いだけの僻地を訪問していたのだった。
「どうするよ。減らすか」
「馬鹿もん。気高く美しい彼らの領域に侵入したのは我らだ。客人は客人らしく振舞うのが品性というものよ。ふ、まるで私の高貴さ、淑やかさ、たおやかさを讃えるかのごとき豪胆なる咆哮」
「慎ましくあることが品性とは勉強になったな。そりゃ色々育たねえわけだわ」
「バチバチバチ!」
「あだだだだ!」
凍てつく大気を切り裂くような雷撃だった。電気ウナギか。
ふん、とすっかりヘソを曲げてしまったリライだったが、眼下の郡狼たちを興味深げにじっと眺めている。普段なら有り得ない、とリライは言ったが、その考察については全面的に同意なのである。奴らはきっと、この森の主だったのだろう。そう、主だった。
遠見の水晶を形成する。ガルムの群れは辺りの探索を終えたのか、雪に覆われた地に真新しい足跡を残しながら森の奥へと消えていく。それに追従するように景色が切り替わっていく。鼻の奥を少し湿ったツンとした冷気が通過して、そのまま肺に落ちて凝り固まった。
異世界について軽く言及しておくこととする。異世界、というのは、そもそもとして俺らの世界を基準として置いた際に発生した副次的な呼称であることは疑いようもないだろう。俺らの世界が一番他の世界の存在、また、世界の機構について学術的な研究が進んでいることから、偉い人がそう呼び始めた。
第kから第p世界がそれぞれ周回軌道を持っていて、それぞれが少しずつずれているから世界性が保たれているって仕組みなんだ。どっかで世界がぶつかり合ったりしたら、その世界の現実性同士が侵食し合って融解してしまう。ズレた位相が元に戻ろうとする働きは地震のメカニズムにも似ている。揺り戻しとか、そんなところを想像してもらえると分かり良いのではないかと思う。つまるところ、現実性の位相同士が接触、あるいは衝突した際に生じるエネルギーってのは想像を絶するもんであることが伝われば何でも良い。
んでも、常に崩壊のリスクと隣り合わせでいつ世界が終わるかもわからない、って状態には流石にならなかったわけだ。世界は基本的に、大人しくそれぞれの軌道上をのんびりと周回しており、重なり合うことは原則として有り得ない。
加えて、それぞれの世界にはその世界の現実性を保持するためのスタビライザー、あるいはデウスエクスマキナ、そういう類の概念がある。俺らの間では『信頼できない語り手(Unreliable narrator)』なんて呼ばれたりしている。事象の因果を切断し、恣意的に再構築する上位概念。世界五分前仮説ではないが、崩壊の予兆の際にはこの世界のてっぺんから世界の位相と因果律を操作し、無かったことにします、とか宣うトンデモ舞台装置である。
第k世界では、異世界体の召喚は茶飯事的に行われている。この召喚術式は他の世界ではまだ発明されていないのだそうだ。これはリライの言。いくら第k世界の現実性――つまりはこの世界に生きる命の等価交換によって召喚が為されるとは言え、そうポンポンと勇者なり魔王なり超巨大火吹きトカゲが出現していたら現実性云々の前に物理的に世界が真っ平らになっちまう。詳しくはないが、どうやら召喚の儀式にも周期が設定されており、その際に召喚される異世界体についても均衡を損なわないように配慮が為されていると。召喚によって発生する微細な歪み、それらを自動的に律する装置がきちんと備わっていて、パワーバランスの崩壊を未然に防いでくれるんですよ、というわけだ。よくできた、というか都合が良い、というか。だからこそ、本来であれば装置であるはずの機構に語り手、なんて言葉が当てはめられたのだろう。
何が言いたいかというと、俺らの世界においては超自然的な現象とされてきたあらゆるものが、他の世界では物心つく前から慣れ親しんできた便利な力であることも、生物の生態や形状や進化の方向が全く異なっていることも、つまるところは取るに足らない些事だってこと。
ただし、今回召喚された奴ってのが、これまで観測された試しのない世界の生命体である、という点を除けば、である。見知った世界の奴であれば、俺らがこんなにも寒い中、わざわざ遠出をする必要もなかったんだがね。それにしてもさみい。一通り片付いたら、どっかの町でアツアツのスープでも飲みたいものだ。
狼たちを追って、俺らは随分と奥の方まで空中を進んできた。上空から見下ろしているのだから、奥という表現が適切であるかどうかは不明だが、少なくとも入口の反対側を三分の一進んだくらいのところまではやってきた。ずっと吹雪いていたので時間の流れにすっかり鈍くなっていたが、どうやらいつの間にか日が落ちていたらしかった。空に光源が浮いていたら目立つだろうと、森の中を照らして覗き見ることはやめておいた。
「なーんも見えねえな」
リライに同意を求めたが、郡狼のハンティングを思い出しているのかうふふ、と両手で頬を包んだりなどしており、全く俺の話を聞いちゃあいなかった。仕方なく、空気の板をゆっくりと下降させる。樹木の波を縫うようにして着陸したところで、ようやくリライが戻ってきた。おかえり。華奢な顎に手をやって、ふむ、と小さく零していた。
「彼らのテリトリーが移動しておるのは、十中八九あの赤子の仕業であろうな」
リライの見解では、件の新世界からの来訪者(赤ん坊)がこの森の生態系に何らかの影響を及ぼしたのだそうだ。生物の大移動ってのは、基本的にそいつらより強い奴が現れたときに起こる。これはモンスターも人間も同じだろう。
「そんなにヤバげな感じだったのか」
「いいや、力は弱い。歪みで言えばジュレイアスの二つの方が遥かに大きかった」
「俺も気にしちゃあいたが、この森、端から端まであの犬よりヤバそうな奴はいなかったぞ。久々に大ハズしこいたんじゃねえの」
「ふ、レイハの浅慮の極み青年っぷりはいっそのこと愛しくすらある」
にゃろう。気分を害した俺を気にする様子もないリライは、忍者かってくらい無音で雪の獣道を闊歩していく。
「考えてもみよ。そうさな、勇者として召喚された巫女が精霊を使役し、その力を以て森を平定したとする。その結果彼らは移動せざるを得なくなった」
「ありがちだな」
「さすれば、我らがこな辺鄙を体現した地まで足を運ぶ必要も無かったであろうよ。上等な肉に舌鼓を打ち、その後来るべき舞踏会のためにダンスの練習なぞに精を出していた頃合だ」
「上等な肉も舞踏会もまるで予定が無いから安心して寝てていいぞ」
強めに脇腹を小突かれたのでだんまりを決め込むことにした。
「アレには何の力も無い。……いや、力が無いとは語弊か。何らかの力はあると見て良いだろうな。ただ、物理的な干渉力ではないことは明白だ。その何らかの力でアレは郡狼を統べた、或いは退けた」
「して、その力とは」
「それは知らん。知らんから見に行くのだろう。間抜けか?」
あーあーもう帰りたい。アツアツのスープが俺を待っているんだ。
遠慮を知らないリライにずけずけと阿呆呼ばわりされ、帰って暖かい部屋で飲酒したい以外の感情を失った俺だったが、わざわざ遠出をしてきたわけだしもう少しだけがんばろう、と己を奮い立たせる。森の全容は既に把握していた。ただ、それはあくまでかなり大雑把なマッピングによるもので、さっきから何度も木の幹にぶつかりそうになっている。この世の物質配置を全て理解しているかの如く迷いなく進んでいくリライに離されないように、ローブの裾や袖に引っかかる枝や葉を振り払いながら水晶のスロープを進んでいく。
そのまま暫くリライについていくと、小さな洞穴の前に出た。俺はリライに確認の意味も込めて視線を送る。傍らの俺を見上げたリライは喜色を繕うこともせずに、乾血色のルージュを曳いた唇を歪め、極めて悪役っぽい笑みを浮かべている。
「お嬢様。顔、顔」
「貴様、私の顔面は現代の美的価値観を持ち出したとて抜きん出てイケていることは明白であろうに」
いや、お嬢様らしからぬ悪どい笑みだったことに対しての指摘だったわけだが。はふん、と恍惚としているっぽい吐息を一つ落とし、リライは洞穴の奥に視線を戻した。
「ガルムが九つ。一つは彼らの王であろ」
「面倒だなあ」
「最奥に固まっておるな。囲まれ眠る命が一つ――あの赤子よ」
さてさて。久方ぶりにやっかいそうなお客様が第k世界に落ちてきたもんだ。どうやってあの狼たちを手篭めにしたのかは知らんが、こんな所でそんな状況ですやすや眠りこけているってんだから、何も知らない赤子か、はたまた――
正直なところ、俺が想定していたのはいつか戦った骸の王や、でっかい緋色の飛龍や、さっきの狼を更に巨大化させて悪魔の翼と蛇の尾を生やした魔獣だったりしたのだった。そりゃそうだ。新世界からの来訪者、しかもリライをしてよく分からん、と言わしめた異世界体、そんで喚ばれて間もないってのにガルムを従えているときた。普通に考えたらそうなる。よく分からん、と言ったリライでさえ、用心せよ、とでも言うように複数の力を常に展開して洞穴を進んでいた。
何だいこりゃ。俺はぜはあ、と嘆息した。
「うーん……狼さんがいっぱい……ふかふか……むにゃ」
すよすよむにゃむにゃ。ガルムの群れの中でも一際巨大な体躯の一匹、その腹あたりにもたれ掛かり、一人の少年が穏やかな寝息をたてていた。少年の背もたれ、或いは寝台になっているガルムは剣呑な眼光で俺らを景気よく睥睨している。その前に立ち塞がる残りのガルムが八匹。くい、と俺のローブの裾を引いたリライが、「わたしもあれやりたい」と俺の気力の全てを奪い去る願望を表明した。
帰りたい、って思いのままに、俺は即時帰宅をキメるべきだったのだ。セカイソンボウノキキ案件とはかけ離れた光景に、俺は再度嘆息した。ぜはあ。
少年だけが眠りこけている。時刻は恐らく午前二時くらい。狼の毛皮に抱きついている少年は、ガルムたちの唸り声を完全に無視して未だにむにゃむにゃとやっている。夜明けはまだ、ずっと先のことだった。