治らない傷と効かない薬
「はい、これで良いですよ。夜にもう一度お薬を塗ってあげますから、これは外さないでくださいね」
親指に包帯を巻きながらタキスが言うのを、レイは、ぼんやりと上の空で聞いていた。
「レイ? どうしたんですか?」
返事がないのを不審に思い、少し強めに名前を呼ぶ。
「えっ、な、なに?」
慌てて返事をするが、話を全く聞いていなかったのは明らかだ。
「夜にもう一度お薬を塗りますから、それまで外してはいけませんよ」
怪我をした右手の親指を押さえて、正面から顔を見ながら、もう一度言い聞かせる。
「うん、分かりました」
真顔のタキスはちょっと怖い。何度も頷いて誤魔化すように笑う。
「どこか痛むんですか?大丈夫ですか?」
「え?どこも何ともないよ……ここに心臓があるだけです」
親指を見せながら、泣くふりをして言う。
「諦めてください。それは私にも、どうすることも出来ませんね」
心底残念そうにそう言うと、おでこを一つ叩いて立ち上がった。
「今日は棒術の訓練は無しですね。さすがにそれでは、肝心の棒をしっかり握る事が出来ないでしょう」
「ええ! せっかく楽しみにしてたのに」
思わず不平の声を上げるレイに、タキスはため息をついた。
「なんだ、その指はどうした?」
その時、スパイスの瓶を積んだワゴンを押しながら、ニコスが居間に戻ってきた。
「右手の親指がおろし金と喧嘩したんです。見事な完敗でしたね」
レイの代わりに、岩塩をおろし金で砕いていたタキスが、笑いながら教えてやる。
「おやおや、あれ程気をつけろって言ったのに。大丈夫か? でもまあ、タキスに診てもらったんなら安心だな」
苦笑いしながら椅子に座ると、机の上にスパイスの瓶を取り出していく。
「何をするの?」
退屈していたレイが、興味津々で覗き込むと、すり鉢とすりこ木を手にタキスを見た。
「今砕いてもらってる岩塩に、こっちのスパイスを砕いて混ぜて、色んな料理に使う調味料を作るんだよ。家で使う分と、街へ行った時に売る分も作るぞ」
「これを売るの?」
驚いて尋ねると、ニコスはワゴンから瓶を出しながら頷いた。
「そう、この配合調味料は結構高く買い取ってくれるんだよ。岩塩は買ってる物だから、全部ここで作ってる訳じゃないけどな」
「さすがに、お塩は森では採れないね」
ワゴンから瓶を取り出すのを手伝いながら言うと、ニコスが首を振った。
「いや、岩塩なら採れる場所があるよ。ただ、危険な場所なんでね、あまり無理しては取りに行きたくないんだよ」
「危険って、何があるの?」
タキスとニコスは、顔を見合わせて肩をすくめた。
「サーベルタイガーの繁殖地に近いんだよ。奴らは自分のテリトリーから出てこないから、離れていれば問題ないんだけどな。迂闊に立ち入ると襲われるぞ。しかも、奴らは全く気配を感じさせないから恐ろしいんだ。気付いた時には、襲われた後だ」
「……それって」
「そう、要するに、襲われたら終わりって事さ。な、進んで近寄りたくは無かろう?」
「それって、精霊達に守ってもらえないの?」
確かに怖いが、ふと思いついて聞いてみた。
「まあ、普通の熊や狼は、近づいてきたら教えてくれるけど。サーベルタイガーは特別だからな」
「特別って?」
「サーベルタイガーは、正確には生物なんだけど、幻獣に限りなく近い存在でもある。この森に住む奴らなら尚の事さ。だから、シルフ達も、サーベルタイガーには反応が遅いんだ。自分より強い存在だと認めてるからな。それに、怖がってる」
「そうなんだ。怖がるのを無理矢理連れて行くのは、大変だし可哀想だものね。他で手に入るなら、そっちで買うのが正解だね。僕もサーベルタイガーは怖いから会いたくない」
首を振りながら、両手を広げて目の前でバツを作った。
「ヤンとオットーには、もう一匹仲間のラプトルがいたらしいが、その子もサーベルタイガーに襲われたって言ってたからな」
その時、後ろからギードの声が聞こえた。
「ほれ、瓶はこれだけあればよかろう」
両手に持った箱の中には、小さなガラス瓶がぎっしりと入っている。
「おや、その指はどうした?」
ギードがレイの指の包帯に気付いて、覗き込む。
横で、タキスが岩塩をおろし金で砕いているのを見て、納得したように頷いた。
「おろし金の爪と戦った訳か。それはまた、無謀な戦いをしたもんだ」
ため息をついて瓶の箱を置くと、レイの頭を撫でて顔をしかめた。
「それなら、しばらく大人しくしていた方が良いな」
「午後からは、棒術の訓練の予定だったのに」
拗ねたようにレイが呟くのを見て、ギードは苦笑いをして、その背を優しく叩いた。
「怪我をする迂闊な其方が悪い。なら、今日は何をするかな」
「こんな怪我、大丈夫だよ。それなら格闘訓練は?」
ギードが黙って首を振る。
「なら、筋力トレーニングは」
もう一度首を振り、考えてからレイの顔を見た。
「まだ一番負担がないのは柔軟体操だが、どうしたもんかな」
「それなら、柔軟体操にする」
ギードの腕にすがって、何度も頷く。
「じゃあ昼飯までは、ここでニコスの作業を手伝っていなされ」
瓶を箱から出すと、洗い場へ持って行った。
この瓶は、熱湯で消毒した後、しっかり乾かしてから、作った配合調味料を重さを計って入れるのだ。
岩塩を削り終わったタキスが、瓶を洗っていく。ギードが大きな鍋を取り出して、瓶と、栓に使うコルクを茹で始めた。
「村でも、そうやって消毒してたよ。同じやり方なんだね」
ニコスに渡された胡椒を、すり鉢ですり潰しながら台所を見て笑った。
「まあ、精霊使いだからといっても、何でもかんでも精霊達に頼んでる訳では無いからな」
ギードが振り返ってそう言うと、他の二人も笑って頷いた。
昼食の後、夕方までは、柔軟体操や軽い腹筋などを行った。
少し指が痛かったが、我慢して頑張った。
「いたっ」
指定された数の腹筋が終わって、立ち上がろうとした時、また一瞬だけ差し込むような痛みが胸を貫いた。
思わずあげたその声に、ギードが振り返る。
「どうした?傷が痛むか?」
「平気だよ、何でもない」
慌てて返事をしたが、心配そうに見られた。
「小さな怪我だからと言うて、軽く見てはいかんぞ。わしの友には、野の獣にやられた、ごく軽い引っかき傷が元で、片足を失った者もおる」
「大丈夫。ちゃんとタキスに診てもらったよ。寝る前に、もう一度お薬を塗るんだって」
まだ何か言いたそうだったが、レイが足を伸ばして屈伸運動を始めたのを見て、軽く背中を押してくれた。
その日の夜、タキスにお薬を塗ってもらう時に、自分の怪我を思わずじっと見てしまった。
おろし金の爪に引っ掻かれた時の、抉ったような細かな深い傷が幾つもある。
「うわっ、見たらまた痛くなってきた」
右手をタキスに預けたまま、机に突っ伏した。
「こういう傷は、気をつけないと化膿しますからね。毎日朝晩、お薬を塗って、きちんと処置しますよ」
「はい、よろしくお願いします」
これぐらいの傷、放っておいても大丈夫だと思うが、化膿すると脅かされたらちょっと怖くなった。
「はい、これでいいですよ」
「ありがとう。じゃあもう寝るね。おやすみなさい」
「おやすみ」
「お疲れさん、ゆっくり休めよ」
ニコスとギードも、笑って挨拶してくれた。
「おやすみなさい。明日も貴方に蒼竜様の守りがありますように」
タキスが、そう言って額にキスしてくれた。
せっかく手当てしてもらった指の怪我は、一晩中疼くような痛みが続き、何度も痛くて目を覚ましてしまった。
我慢出来ずに、最後にはタキスに貰っていた痛み止めを飲んだほどだった。
『おはようおはよう』
『良いお天気』
『起きて起きて』
いつものようにシルフ達に起こされて、ベッドから起き上がった。
その時、右手に変な違和感を感じて、寝起きの目を擦りながら右手を顔の前にやり、驚きのあまり眠気が一気に吹っ飛んだ。
親指にしていた包帯が無い。それだけなら、寝ていて外してしまったのだろうが、その右手は血まみれだった。親指の傷の部分からは、まだ血が滲んでいる。
慌てて毛布をめくると、中は大変なことになっていた。
「ど、どうしよう。いっぱい汚しちゃったよ」
毛布とシーツには、大きな血の跡があちこちについている。それだけでなく、枕や寝間着にも同じようにあちこちに血の跡がある。
あまりの惨状に、どうして良いかわからずに無言で慌てていると、タキスが最悪のタイミングで起こしにきてくれた。
「レイ、そろそろ起きて……」
ベットに座った、血まみれのレイの姿に絶句する。
「えっと。お、おはようございます。ねえタキス、寝てる間に包帯を取っちゃったみたい。それで、ごめんなさい。毛布やシーツに、寝間着まで汚しちゃったよ、どうしよう。枕にも……」
半泣きになりながら、何とかそう言ったら、タキスに右手を取られた。
「起きられますか?とりあえず手を洗いましょう。このままでは手当てもできません」
急いで、寝間着のままスリッパを履いて洗面所へ行き、綺麗な湧き水で血を洗い流した。
傷に水がしみて痛かったが、唇を噛んで必死で我慢した。
一旦部屋へ戻り、応急処置をしてくれたので、先ずは服を着替えた。それから、タキスがもう一度お薬を塗って 包帯を巻いてくれた。
「ベッドの汚れは、洗えば落ちますから何も気にしなくて良いですよ。昨夜は傷は痛くなかったですか?」
右手を取られたまま聞かれて、実は、昨夜痛くて眠れず、以前、成長痛の時に貰っていた、痛み止めの残りを飲んだことを伝えた。
「そうですか。そのせいで、出血が止まりにくかったのかも知れませんね。別の痛み止めを出してあげますから、痛い時にはそっちを飲んでください」
「勝手にお薬飲んでごめんなさい。痛み止めって、一つだけじゃ無いんだね」
レイの言葉に、タキスは、驚いたように目を見開いたが、不思議そうにしている彼を見て、頷いた。
「もちろんです。一口に痛み止めと言っても、効き目も強いものもあれば、ちょっと気休め程度のものまでありますし、怪我、頭痛、腹痛、筋肉痛もね、それぞれよく効く薬は違いますよ。まあ、併用できなくも無いですが、今回のように、迂闊に使うと出血が止まりにくくなったりするなど、弊害が出る事もありますからね、何であれ、お薬を飲む時には注意が必要です」
そう言って、そっと抱きしめてくれた。
「昨日、痛み止めを出しておいてあげれば良かったですね。気がつかなくてすみませんでした」
「タキスは悪くないよ。ごめんなさい。勝手にお薬を飲んだ僕が悪いんだよ、もう勝手に飲んだりしないです」
タキスの頬にキスして謝ってから、一緒に居間へ行った。
「おはようさん」
お皿を出していたギードが、挨拶してくれた。
「おはようございます。えっと、ニコスごめんなさい。毛布とシーツと寝間着と枕を汚しちゃいました」
急に謝るレイに、台所にいたニコスが驚いて振り返った。
「おはよう。一体何がどうした?」
タキスが、事情を説明して、出血が止まりにくくなっていた事も説明する。
「洗えば落ちるよ、そんなの気にするな。それよりそんなに出血して、身体の方は大丈夫なのか?」
「大量出血って程ではないですが、今日は安静にしていた方が良いですね。シルフ達も全体に血が減ってると言ってます」
タキスが心配そうに、レイを座らせながら背を撫でる。
「なら、今日は安静にしてお休みの日だな。食事の後で、ベッドは綺麗にしておいてやるよ」
「そうだな、無理は禁物じゃ」
ギードも、何度も頷いて心配そうにレイの背中を撫でてくれた。
ところが、その日だけでなく、翌日も大人しく寝ている事になってしまった。
どう言う訳か、怪我が治らないのだ。
何とか出血は止まったが。包帯を外すと、直ぐにまた血が滲んでくる。
タキスが心配して、何度も薬を変えてくれたが、やはり同じように治らない。
結局、傷が塞がるまでには、それからまだ十日近くかかった。
その間、運動は一切させて貰えず、レイはすっかり拗ねてしまった。
「体がなまっちゃったよ」
嬉しそうに、レイが笑いながら何度も飛び跳ねる。
ようやく軽い運動の許可が下りたので、ギードの家の訓練所で、まずは柔軟体操から始める為だ。
「うわっ、何これ、身体が硬くなってる」
だが、いざ柔軟を始めると、以前よりかなり硬くなった体に呆然とする。
「無理せず、ゆっくり戻しますぞ。一気にやると筋を痛めますでな」
ギードが笑って慰めてくれた。
その横で、同じように柔軟体操をしながら、ニコスも頷いていた。
怪我した指には、まだ少し強めに包帯が巻かれている。気を付けないと、直ぐに傷が開いて、出血してしまうからだ。
「本当に、おろし金恐るべし!」
レイは、冗談めかして笑っているが、タキスは不安でたまらなかった。
彼の身体は、明らかに、以前より薬が効かなくなっている。
相当強い薬を使わないと、効果が出ない。
今回の指の怪我も、最後には大量出血などの時にしか使わないような強い薬を使って、何とか傷が塞がったのだ。
本来、子供に使うような薬では無い。
それでも、使わなければならない程の異常事態だった。
「同じだ……エイベルの時と……どうして薬が効かない……」
薬草庫で、棚に薬を戻しながら、タキスは自分の身体が震えている事に気が付いた。
「精霊王よ、どうかあの子を連れて行かないでください。あの子を失っては、もう私は、今度こそ生きていけません……代わりに、代わりに私をお連れください……」
祈りながら、膝をつく。
身体の震えが止まらない。
泣きながら何度も祈った。祈らずにはいられなかった。
しばらくして顔を上げると、涙を拭いて立ち上がった。
「駄目だ、私が弱気になってどうする。考えろ。原因として何が考えられるか?、あらゆる事態を考えろ。おそらく私は、何か重要な事を見落としているに違いない。もう一度、初めから調べてみよう」
自分に言い聞かせながら、自分の部屋へ戻った。
部屋の壁には、何冊もの本やノートがぎっしりと並んでいる。
ギードに頼み、行商人に無理を言って手に入れた物や、自分の記憶を元に書き起こした医学書などだ。
その棚から何冊もの本を取り出し、机に置いた。
「まずは、似たような症例が無いか、もう一度調べてみる……」
後は無言で、調べ始めた。
本の上にシルフ達が現れて、黙ってタキスの様子を伺っていた。