闇の眼の奸計
タキスの切った柊の、最後のひと枝を受け取って籠に詰めながら、ふと誰かに呼ばれた気がして、レイは顔を上げた。
不思議に思い辺りを見回すと、少し離れた大木の側に、誰かが立って手を上げてこっちを見ている。
「え? どうして、こんな所に人がいるの?」
思わずそう呟いて、一歩踏み出した。
踏み出してしまった。
ふと気がつくと、薄暗い家の中にいた。
壁と机の上には、いつもの小さな蝋燭が灯っている。
「どうしたの? 何ぼんやりしてるの?」
呼ばれて振り返ると、鍋の蓋を持った母が立っている。
「……母さん」
呆然とつぶやく。
「なあに? どうしたの?」
不思議そうな顔で、こっちを見ている。
「母さん、母さん!」
駆け寄って抱きついた。
縋り付いた体を優しく抱き返されて、頬にキスされてから手を離された。
「どうしたの? おかしな子ね。さあ、もうすぐスープが出来るから、お皿を出してちょうだい」
「……うん! いつものでいいんだね」
良かった、何故か分からないけど、長くて怖い夢を見てたみたいだ。
ようやくいつもの日常が戻ってきたんだ。
少し斜めになったガタガタする机にお皿を並べながら、心の底から安心した。
「……あれ? どんな夢だったのかな?」
頭の隅がぼんやりしていて、怖かったはずの夢を思い出せない。
「まあいいや。もう、なんの心配もいらないもんね」
振り返って、火の側で鍋の様子を見ている母さんを見る。
こっちを見て笑ってくれた。それだけで、もう幸せだった。
母さんの作ってくれるスープは、やっぱり一番美味しい。例え、いつもの豪華なスープと違い、切り刻んだ小さな芋とかけらのようなベーコンだけだったとしても。
「……あれ、なんで? これがいつものだよね?」
頭にぽかりと浮かんだ、夢のような豪華な食卓をすぐに打ち消した。
「変なの、こっちがいつもなのに。そんな豪華なご飯、ある訳無いだろ」
そう言って、スープの上で硬いパンを割った。
「明日は、キノコを干すのと、拾ってきたどんぐりの仕込みを始めるから大変よ、頑張って手伝ってね」
食器を片付けながら、母さんが言う。
そうだ、今日はバフィー達と森の東側へ、キノコとどんぐりを採りに行ったんだ。
沢山採れたから、仕込みは大変だけど、冬には美味しいどんぐりのお団子が食べられる。
灰汁抜きしてすり潰したどんぐりを、薄く伸ばしてパリパリに焼いたのも大好きだ。
「母さんがパンケーキを焼いてくれたら、僕、もっと頑張れると思うんだけどなあ」
母さんの背中に抱きついて、甘えるように頭を擦り付ける。
「仕方がない子だね。じゃあ、焼いてあげるからしっかり働くんだよ」
笑っている母さんに抱きついていると、ふと、ある思いが頭をよぎる。
「いつもは擦り付けられる側だったけど、やっぱり僕はこっちがいいや」
そう思って安心した後、不意に思う。
「……いつもって、何が?」
急に胸の中に不安が湧き上がる。何か変だ。分からないけど、何かがおかしい。
何か、自分は大切な事を忘れていないだろうか?
言葉にできない不安が膨れ上がって弾けそうになった時、香ばしい良い匂いがして、一気に気が散じる。
「ほら、お皿を出して。少しだけど、ジャムも出しましょうね」
真っ赤なキリルのジャムが乗せられた、少し形の歪んだパンケーキは、レイの大好きな味だ。
硬くて甘さも全然無いけど、これが食べたかったんだ。
「美味しい。そうだよ、僕はこれが食べたかったの」
真ん中の、キリルのジャムが染み込んで赤くなった柔らかい所を、最後に残して一口で食べるのが好きだ。すごく贅沢した気分になる。
「ごちそうさま。とっても美味しかったよ」
顔を上げて笑うと、母さんも笑ってくれた。それだけで胸がいっぱいになって、何故だか泣きそうになった。
お皿を片付けたら、寝るまでの時間は自由時間だ。
エドガーさんから貰ったナイフの手入れをした後は、特にすることも無い。
無性に寂しくて、母さんの背中に抱きついた。
「どうしたのさっきから?甘えん坊さんね」
嬉しそうに笑った母さんが、編み物の手を止めて、振り返って手を広げてくれた。
「ほらおいで、大きな私の赤ちゃん」
嬉しくて笑いながら正面から抱きついたら、しっかりと抱き返される。
無性に安心して涙が出てきた。泣きながらしがみついて目を閉じていると、何故か寒くて、だんだん眠くなってきた。
「置いてけぼりの寂しん坊、ついて行きたきゃ早くしな。置いてけぼりの寂しん坊、泣いても戻って来ちゃくれぬ」
母さんが、抱きしめたまま笑いながら、頭の上で歌ってくれる。
「僕はそこまで子供じゃ無いよ」
目をこすって笑いながら、舌を出そうとして、凍りついた。
以前、何処かで誰かに、確かにこの歌を歌われた。その時も、自分は全く同じ事を言ったのだ。
「どうしたの?さっきから、貴方……変よ」
恐る恐る顔を上げたレイは、目の前の母さんの胸元を見る。
いつも、肌身離さず身につけていたあのペンダントが無い。
咄嗟に、その襟元に手を当てて押し退けるように抱きしめられた胸元から飛び出した。
「お前は誰だ! 母さんなんかじゃ無い!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
「さっきから何を言ってるの? 貴方、本当に変よ」
不自然なほどゆっくりと立ち上がった、母さんの顔をした何かが、こっちへ歩いてくる。
「来るな! お前は誰だ!」
咄嗟に腰のナイフに手を伸ばしたが、抜く事は出来なかった。ナイフの柄を握りしめたまま、後ろに下がって叫ぶ。
「来るな! 化け物!」
しかし、薄ら笑いを浮かべたまま、母の顔をした何かはこちらに手を伸ばす。
「寝ぼけてる、のね、もう、寝、ましょう」
その時、張り付いたような笑顔の母さんの顔が歪んだ。
まるで溶けた飴を引っ張っているみたいに、歪んで混ざってぐちゃぐちゃになる。
悲鳴をあげて、扉に向かって走った。
「どこへ……いくの……ここが……あな、たのお……うちで……しょ……」
背後に迫る腕から逃れようと、辿り着いた扉を開けようとしたが、全く微動だにしない。
必死になって、何度も押して引く。
「誰か! 誰か助けて!」
扉を叩いても、外からは誰の声もしない。
扉を諦めて、裏の勝手口へ行こうとしたが、立ち塞がる化け物に止められてしまった。
「……無駄よ、誰も助けになんて来ないわ」
熔け崩れて塊になった化け物から、唐突に母さんの顔が現れる。
あまりの事に声も出ず、呆然と喋る母の首を見つめた。
「『貴方の家はここでしょう?どこへ行こうって言うの?』」
母さんの声に、聞いたことのない低い男の声が重なる。
「誰か……誰か……」
恐怖のあまり声が出ない。
もう一度、扉に向かおうとして走り出した途端、何かに足を取られ転んでしまう。
無意識に胸元に手をやり、硬い何かを握りしめた。
一瞬だけ光が溢れた後、容赦なく体を投げ出された。
放り出された衝撃で気が遠くなったが、必死で己を叱咤し、踏ん張って立ち上がり目を開いた。
しかし、辺りは完全な漆黒の闇の中だ。
顔の前にやった自分の右手も見えない。床はあるようだが、ふわふわしていてよく分からない。
無意識に握りしめていた左手を開く。
すると、今にも消えそうな微かな光が、点滅しながら目の前にふらふらと飛んで来た。
『ここは危険逃げて逃げて』
囁くような小さな声でそう言うと、案内するかのように動き出した。付いて行こうとした時、後ろから低い男の声がした。
『逃げるところなどあるのか? 根無し草となったお前に』
振り返ると、真っ暗な中に、大きな一つ眼と、三日月のように細く不自然に曲がった、にやついた口が浮かんでいた。
眼と口以外は全く見えない。
その細い口が開き、嘲るような口調で喋り始めた。
『愚かな子供だ、母に疎まれていた事も知らずあのように甘えて』
一つ眼が細くなり、首を振るように左右に動く。
『ああ嫌だ嫌だ、見ていて恥ずかしいわ』
湧き上がった怒りに、咄嗟に声が出ない。怒りに震える拳を握りしめ、必死に息を整える。
「な、何も知らない癖に勝手なことを言うな!」
笑えるくらいに情けない、かすれるような声しか出ない。
母さんに自分が疎まれていた? そんな事、有るはずがないのに。
『はっはっはっ』
謎の声の主は堪え切れないように嘲笑って、見開いた一つ眼がギロリとこっちを見る。
『何も知らぬのはお前の方だろうが』
大きな眼が、一気に迫ってきて目の前で止まった。
『お前が出来たせいで、母は将来を約束された神殿を追い出され、父は国を追われ、哀れにのたれ死んだ事も知らぬ癖に』
「な……何を言ってる……」
その時、以前見た不思議な夢を思い出した。あの時の母は何と言っていた?
まさか、まさか、まさか。
「うるさい! うるさい! うるさい! そんな事信じないぞ」
何度も叫んで、胸元のペンダントを握りしめる。
「帰る! 皆の所へ帰る!」
こっちを見つめる一つ眼に背を向けて走ろうとした瞬間、金縛りにあったように動けなくなる。
『皆? 皆とは誰のことだ?』
ぐるりと眼が動いて、再びレイの正面に来た。
言い返そうとして、口籠る。
何故かは分からないが、皆の名前を言わない方が良いような気がしたのだ。
しばらく無言の睨み合いが続いた。
嘲るように笑うと、一つ眼は再び勝手に喋り始めた。
『それだけでは無い、自由に生きておった森の住民にも散々迷惑を掛けおって』
一つ眼が、ぎょろりとこちらを見つめる。
『対価も払わず住み着いた挙句、遠慮も無しに散々飲み食いしおって』
再び一つ眼が迫って来て、目の前で止まる。
『皆がどれ程迷惑しておるか、お前は全く分かっておらぬ、迷惑千万、腹立たしき限り』
言い切ると、一つ眼が巨大に膨れ上がった。
『見せてやろう、お前の知らぬ事を』
目をつぶろうとしたが出来なかった。
膨れ上がった眼の影に飲み込まれる。
咄嗟に歯を食いしばって、悲鳴をあげるのは意地で堪えた。