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喪失と絶望

 ようやく白み始めた空だったが、鬱蒼とした木々が生い茂る森の中は、未だ足元も定かではない程の暗闇の中だった。一定の距離を取って追跡を続ける森狼の群れは、逃げる二人を心身ともに追い詰めていく。

 力の抜けかけた母の体は重く、支えながらも真っ直ぐ走っているつもりだったが、何度も左右によろめき、歩いているのと変わらない程の速さでしか進めていなかった。


 目の前を塞ぐ茂みをかきわけようと、ナイフを握ったままの右手を伸ばす。しかし、ナイフに当たったのは硬い岩の感触だった。

 森狼達に誘導されて行き止まりの窪地ヘ追い込まれてしまったのだ。

 我に返って振り返ると、ほんのすぐ側まで森狼が近寄ってきている。半円を組むように取り囲み、完全に逃げ道を塞がれてしまった。


「母さん……ごめんなさい。もう逃げられないや……」

 疲労と絶望感で目の前が暗くなっていく。重なり合うようにしてその場に崩れ落ちた。せめて、離れるものかと最後の力で母に抱きついた。

「お願い……遠くへ跳んで」

 震える手で抱きしめ返してきた母が、掠れる声で呟く。


 その時、光があふれ世界がひっくり返った。


 いきなり放り出された地面は、しっとりと水気を含んだ柔らかい草の上だった。

 目の前で、よだれを垂らして今にも襲いかかってきそうだった森狼は何処にもいない。

「な、何が起こったの……森狼は?」

 自分に覆いかぶさるように抱きしめていた母の腕から抜け出して、今度こそ驚きの声をあげた。


 暗かった先ほどの場所とは違い、大きな木が適度な隙間を置いて点在し、その隙間には朝日が差し込み、光の帯を森中に張り巡らせていた。木々の根元には柔らかな下草が生い茂っている。

 あまりの美しさに、ここは母が眠る時に語ってくれた精霊王のいるという『天の山の森』なのかと、呑気にも本気で思ったほどだ。

 しかし、倒れたままぴくりとも動かない母の姿に一気に現実に引き戻された。

「母さん! しっかりして」

 抱き起こした体が驚くほど冷たくて、身体中に震えが走った。何度も呼びながら頬を叩き、背中をさする。

 もう、それくらいしか出来ることは無かった。


 その時、一陣の風が鼻先を吹き抜けていった。

「母さん! 水の匂いがするよ。何処か近くに水場があるみたいだ」

 何とか立ち上がり、重い身体を抱えて引きずるようにして、風が知らせてくれた水場へと必死で向かう。

 せめて、母に水を飲ませてあげたかった。


 大粒のキリルの実が鈴なりになった茂みの向こうから、水の湧き出す音が聞こえる。這うようにして辿り着いたその場所は、怖いほどの深い青い水の湧く大きな泉だった。

 泉の周りはきめ細やかな真っ白な砂で覆われ、其処彼処からも水が湧き出していて、辺り一面を水で覆っていた。


 母を草地に横たえると、フラフラと誘われるように湧き出す水源の一つに歩み寄った。

 ずっと握りしめていた為に、固くこわばった自分の右手を何とか開かせ、汚れたナイフを横に置いて湧き水に手を入れた。

「あったかいや……」

 冷たいかと思われた湧き水は、ほんのりと暖かく、傷んだ彼の手を優しく包み込んだ。

 何度も手を擦り合わせ、手についた血や泥を落とす。涙でぐちゃぐちゃになった顔も洗った。それから、別の綺麗な水源から両手で水を汲み、零さないように母の元へ向かった。


 母は仰向けのまま、ぼんやりと空を見上げていた。

「母さん、湧き水を汲んできたよ。飲んで」

 少し溢れはしたものの、何とか飲ませることができた。

「甘い……なんて美味しい……水……なの……」

 ぼんやりとしたまま、レイを見て笑う。

「待っててね、もう一度汲んでくるから」

 泣きそうになるのを堪えて笑ってみせる。


 もう一度水を汲んできて飲ませた後、濡れた手で母の顔を撫でて汚れを少しでも取った。自分の袖で濡れた顔をぬぐい、少し綺麗になった母の額に何度も何度もキスをした。

「精霊の王様……どうか、どうか母さんを連れていかないでください……良い子になります。もっとたくさん働きます。だから……お願いだから、母さんを連れていかないで……」

 抱きしめるとまた涙があふれた。もう、祈る事しか出来なかった。


 母の右手がゆっくりと上がり、レイの頬を優しく撫でた。

「愛してるわ、レイルズ・グレアム……こんな所にあなたを一人で置いていく……弱い母さんを許してね……」


 愛称の『レイ』では無く、産まれてから最初の精霊王の洗礼を受けた時に貰った『レイルズ・グレアム』という聖なる名前で呼ばれる。

 それは、結婚や旅立ちの別れなどの人生の節目となる特別な時にしか呼ばれない、まさに特別な名前なのだ。


「いやだ……そんな事言わないで……お願いだから」

 母の言葉の意味を分かりたくなくて、頭を振るとまた涙があふれた。


 母の命が、指の隙間から砂がこぼれ落ちていくように失われていくのを、ただ為すすべも無く見守る事しか出来なかった。


「これを……あなたに……」

 光の消えたペンダントを、ゆっくりと震える手でレイの首にかける。

 驚いた事に、素朴な木彫りの竜の形をしていたペンダントは、全く違うものになっていた。

 朝日を受け、キラキラと光る細やかな銀細工の施されたそれは、見事な翼と鬣と翠の目を持つ竜の姿だった。

 真ん中にある傷一つない透明な丸い半円球の石を、その竜は翼と尻尾で守るように寄り添っている。

「どうして……? 手彫りの木のペンダントだったのに」

「きっと……その子達があなたを守ってくれるわ……どうか大切に……」

 レイの腕を撫でていた母の手が、ぱたりと草の上に落ちた。

「いやだ、母さん! 目を開けて」

 何度も揺さぶり呼んでも、もう答えは無かった。


 その時、奥にある一番大きな泉から、小さな泡がプカリと上がり、弾けて幾重もの波紋を作った。

 その気配に、彼は気付かない。

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