襲撃と逃走
夜明け前、熟睡していたはずなのに、不意に目を覚ました自分にレイは驚いた。
なんだろう?
………今、誰かの悲鳴を聞いた気がする。
心臓が早鐘のように鼓動を打っている。
何故だかジッとしていられなくて、暖かいベッドから身を起こそうとした時、何かが割れて倒れる音が響いた。
「外からだ!」
今度こそ飛び起きた。
隣のベッドで寝ていたはずの母は、既に起きて身支度をしていた。
「何かあったみたい、見てくるからお前も起きてちょうだい」
慌ててベッドから降りると、外していたナイフ付きのベルトを締める、靴下と革靴を履いて上着を羽織れば身支度は終わりだ。
母が扉を開けようとした瞬間、外から扉が吹き飛んだ。
「母さん!」
煽りを食らって倒れ込んだ母をとっさに支えたが、そのまま二人揃って後ろにひっくり返った。
「女と子供かぁ」
吹き飛んだ扉の向こうに………悪魔がいた。
手に持った短剣からは、真っ赤な血が滴り落ち、地面に血溜まりを作っている。
顔も腕も身体も、返り血を浴びて真っ赤に染まったまま笑う男は、まさに悪魔そのものだった。
男が短剣を振り上げる。
自分に向かって降りてくる剣先を見ながら、レイは自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
咄嗟に腰のナイフを抜いて、下から掬い上げるように短剣を払う。
男が、驚いたように目を見開いた。
そのまま男の懐に飛び込んだレイは、ナイフを下腹のあたりに力任せに突き込んだ。
「勝手させるもんですか!」
母が片手鍋で、さらに男をぶん殴った。
堪えきれずひっくり返る男に見向きもせず、レイの手を取って母は走り出した。
「森へ逃げるのよ!」
「待って!皆は?一緒に逃げないと」
手を引かれて走りながら、体は震え涙があふれて止まらなかった。
背後からは、誰かの悲鳴と泣き叫ぶ声が聞こえる。
秋の収穫を狙った、野盗の群れが村を襲ったのだ。
「先ずは自分が生き延びる事を考えなさい!」
走っていた母の前に、別の男が立ち塞がった。
咄嗟に横に逃げようとした瞬間、男の持っていた短剣が、母の左肩を切りつける。
母の肩から血が吹きだすのと、レイがナイフで男の太腿を切りつけたのは殆ど同時だった。
母の影になっていた為に、男はレイに気づいていなかったのだ。
「この野郎!」
掴みかかってくる男の手をさらに切りつけ、母の右手を引いて必死に走った。
村外れの門の前には、三人の男が道を塞いでいた。
肩から血を流している母の息は荒く、その母を庇ってナイフ一本では、とても三人の男には敵わない。
「おうおう、勇ましいこった」
「ここから先には行かせないぜ」
「諦めて、言うこと聞いてりゃ悪いようにはしないさ」
ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべて、男達が腰の剣に手をかけた。
その時、横にいた母が不思議な事をした。
いつも身につけている木彫りのペンダントを手にして、目の前にかざし、小声でレイにだけ聞こえるように言ったのだ。
「目を閉じなさい」
頷いて目を閉じた瞬間、光が溢れた。
目を閉じていてさえ、これほどの光だ。
母を見ていた男達は、まともに目をやられて悲鳴を上げてのたうちまわっている。
「今のうちよ!」
驚く間も無く、母に手を引かれてまた走り出した。
「母さん………今何をしたの?怪我は……大丈夫なの?」
上がりそうになる息を必死で整えながら、堪らずに尋ねた。
あれだけの血が出たのだ。肩の傷も無事なはずがない。
「大丈夫よ、傷は浅いから」
何をしたのかは答えず、レイを見下ろした母は笑った。
ほんの鼻先さえも暗く、母の胸元のペンダントが放つぼんやりとした光だけが足元をわずかに照らしていた。
月の見えない空には未だ星が瞬き、東の地平線がようやく薄く白み始める時間だ。
普段なら、夢も見ずにぐっすり眠っている時間だろう。
細い、村から続いていた道を外れ、茂みをかき分けて森の中へと逃げ込む。
暗くて足元の悪い森の中を、何度も躓き転んであちこちから血が滲む。
それでも、不思議なペンダントの薄明かりだけを頼りに必死に走り続けた。
右手に持ったナイフの滑りが何かなんて考えたくもない。痺れるように痛む身体に、ようやくこの悪夢が現実に起こった事だと実感する。同時に、じわじわと今更ながら足元から恐怖が湧き上がってきた。
「か…かあさん…これから……」
思わず、立ち止まりそうになって縋るように見上げた。
「今は……何も考えず走って………」
答える母の左半身は、暗闇の中でさえ分かる程に真っ赤に染まっていた。
「確か、炭焼き小屋がこの辺りに有るはずなの……なんとかそこへ……」
「母さん!」
倒れ込む母を支えようとして支えきれず、二人は茂みの中へ転がりこんだ。
息をする度に、胸が焼けるように痛い。
茂みの中で何とか息を整え、横にいる母に声をかける。
「母さん、もうすぐ夜が明けるよ………明るくなったら炭焼き小屋を探そう。だから暫くここで……?」
………母からの答えが無い。
ぐったりとした母は目をつぶり、彼に背を向けるようにして身体を丸めている、右手で抑えた肩は震えていた。
驚いて抱き起こすと、うっすらと目を開けた。
「私はもう走れないわ、お前だけでも逃げなさい……」
握りしめた手は、驚くほど冷たかった。
「嫌だ!母さんと一緒でなきゃどこにも行かない」
背の低い自分の体を本気で悔しいと思った。
母一人、支えることさえ出来ない自分が情けなかった。
「精霊の王様、どうか僕に力を………母さんを、抱えて逃げられるだけの力を下さい」
眠る時の精霊王への祈りの言葉なんて、ただの挨拶みたいなものだと思っていた。
村から一番近い街道沿いの大きな街へ、初めて連れて行ってもらった時だって、精霊王を祀った大きな神殿を見て、とってもお金がかかってそうな建物だと思ったくらいで、信仰心なんて、多分、秋の木の葉よりも軽かったと思う。
それでも、この時初めて心の底から彼は祈った。
「諦めないで、進まなきゃ……」
母の右手を肩にかけ、自分の体を母の体の下に入れてなんとか立ち上がった。
よろける足元を必死で踏ん張り、一歩ずつ進んでいく。
ぼんやりと目を開けた母が、僅かに体を起こした。
「母さん?」
「そうよね……こんなところで諦めたら……あなたのお父様に合わせる顔がない……わ」
振り仰いだ空は、わずかに白み始めている。
その時、思ったよりも近くで鳴き交わすが聞こえた。
「ワォーーーーン」
「ウルゥーーーーーーン」
「オーーーーン」
「森狼だ!もうすぐ夜明けなのに!こんな時に……」
蒼の森の比較的浅い地域を中心に、五匹から十匹程の小さな群れで行動する小型の狼の魔獣だ。
自由開拓民にとっては、一番身近な森の脅威でもある。
人間一人の剣や斧では到底抵抗できない。
家畜を襲いに村の近くまで来ることもあるが、火を怖がる習性があるため、大人数で松明や篝火を焚いて森へ追いやることが多い。
恐らく、血の匂いを嗅ぎつけて集まってきたのだろう。
奴らの狩りは執拗なまでに追いかけ続け、相手が疲労して動けなくなったところで、一気に襲いかかって来るのだ。
「どうしたら………どうしたらいいんだよ……」
森狼の気配に追い立てられるように、前に進んだ。
疲労と痛みで、意識が朦朧として、既に自分がどこに向かってるのかも分からなくなっていた。