ニーカの決意と初めての花撒き
部屋に入って後ろ手に扉を閉めるニーカを見下ろして、ヴィゴは覚悟を決めていた。
とうとうこの時が来てしまった。
ニーカがこの国へ来てから、彼は一度も彼女と話をしたことが無い。応対はルークやマイリーに任せていたし、日々の面会はルークと若竜三人組に任せていた。
彼はニーカと正面切って話をすることを避けていたのだ。
国境の砦で対峙した時、竜の背に乗っているのは少年兵だと思っていた。
殺すつもりだった。それなのに、殺せなかったのは自分の甘さ故だ。
結果としては、殺さなくて正解だったのだろうが、ヴィゴはあの時の自分の甘さを恥じていた。
二人っきりになり、ニーカがただ自分を黙って見つめている事に、堪えきれない居心地の悪さを感じた。
「言いたい事があれば聞こう」
我慢出来ずにそう言ったが、しかし、彼女は自分を見上げたきり口を開こうとしない。
ヴィゴは、彼女は自分を恨んでいるのだろうと思っていた。
国境の戦いで、圧倒的な実力差でヴィゴは彼女を竜の背から叩き落としたのだ。その結果、彼女は捕虜となり永遠に国へ帰れなくなった。
高い竜の背から精霊の守りも無く叩き落とされた事により、彼女は右腕の裂傷と左足太腿の骨折という重傷を負い、また左半身の打撲による酷い内出血は、幼い彼女の内臓の一部にも深刻なダメージを与えた。
結果として半年近く、監禁状態で白の塔で療養生活を送る事になったのだ。
自分が落としたのは少年兵だと思っていたのに、自分の娘と変わらない年齢の少女だったと聞かされた時の衝撃は、鮮明に覚えている。
結果として彼は、自分が傷付けた少女の目の前に立つことから逃げたのだ。
果たして何を言われるか。
もう逃げる事は出来ない。どんな罵倒も受け入れようと心の中で覚悟した時、ニーカが意を決したように右手を握って口を開いた。
「ヴィゴ様、私……ヴィゴ様にお会いしたら、どうしても言いたい事があったんです。聞いてくださいますか」
「言いたい事があれば聞くと言った」
短いその言葉に無言で頷いた彼女は、突然その場で膝をついた。そして両手を握りしめて額に当て、深々と頭を下げたのだ。
それは、相手に対して最大の敬意を示す行為だ。
「な、何を……」
驚きのあまり、言葉も無いヴィゴの前で、頭を下げたままニーカは口を開いた。
「あの時、私を殺さないでいてくれて本当にありがとうございました。心からの感謝と敬意を貴方に捧げます。まだ何も持たぬ私ですが、私の大切な半身であるスマイリーにかけて誓います。決してこのご恩は忘れません。受けたご恩は、一生かけてでもお返し致します。どうか、どうか私がこの国にいる事をお許しください。私は……私は決してこの国を裏切りません」
「あ……」
「私は、この国へ来て、この国の方々に数え切れない程のご恩を受けました。白の塔での先生方や衛生兵の皆様。竜騎士隊の皆様。レイルズやラピスにも、本当に世話になりました。竜の保養所の皆様のおかげでスマイリーもすっかり元気になり、神殿でも、毎日、とても……とても幸せです」
「幸せだと、ここへ来て幸せだと言ってくれるか……」
ヴィゴの言葉に、ようやく彼女は顔を上げた。その顔は晴々と笑っていた。
「ヴィゴ様はちっとも病院へ来てくださらないし、竜舎では、なかなかお会いする機会も無くて……でも、ようやく言えました。他の誰でも無く、ヴィゴ様に言いたかったんです。本当に、本当にありがとうございます」
晴々とそう言って、もう一度握った両手を額に深々と下げる少女を前にして、ヴィゴは無言で何度も首を振った。
「違う……そんな……感謝されるような事では無い。殺せなかったあれは……俺の甘さ故だ。目の前の少年だと思った其方に、俺は自分の娘を重ねてしまった。殺せなかったのだ。そんな事、決してあってはならないのに……」
ヴィゴの呟きに、ニーカは心から笑った。
「それでも、何度でも言います。私を殺さないでいてくれて、ありがとうございます。おかげで私はここにいます。それは、間違い無く貴方のおかげです」
小さく深呼吸したヴィゴは、彼女に視線を合わせるように、ゆっくりと床に膝をついた。
「少しでも、少しでもそう思ってくださるのなら、これからは、この国で生きてください。己の伴侶である竜と共に。この国で。其方が大人になる頃には平和な世界が待っているように、精一杯働きましょう。その為に我々がいるのですから」
しっかりと正面から彼女を見て、ヴィゴははっきりと言った。
「はい。どうかよろしくお願いします。ヴィゴ様」
ヴィゴはそっと手を伸ばして、彼女の細い腕を撫でた。
「其方は強いな。これ程の小さな身体の何処に、これほどの勇気があるのだろう。これは将来が楽しみだな。どうか、其方の人生に幸多からん事を」
優しくそう呟くと、ニーカの額にそっとキスを贈った。
驚いたように目を瞬いたニーカは、ヴィゴを見て心から笑った。
それは年相応の幼さを秘めた、甘えるような笑顔だった。
「あれ? ニーカは?」
アミディアの言葉に、ピックを抱きしめてはしゃいでいた二人も、顔を上げて周りを見回した。
呆れたように自分達を見ている男性陣は、レイルズとルーク、タドラの三人だ。ガンディはソファーの横に置かれた大きな一人用の椅子に座っている。
「父上もいないわ?」
クローディアがそう言い、もう一度不安そうに周りを見回した時、扉が開いてニーカとヴィゴが出て来た。
ヴィゴの手には、何冊もの分厚く大きな本が積み上げられている。
「ごめんね。ヴィゴ様に荷物持ちをさせてしまって」
「何、構いませんぞ。さすがにあの位置は其方には届くまい」
音を立てて机に置かれた本は、精霊魔法の本のようだ。
「おお、後で出してやろうと思っておったが、取ってきてくれたんじゃな。すまんすまん」
嬉しそうなガンディの態とらしい言葉に、ヴィゴも苦笑いしている。
「ガンディ、いつも言っているが少しは片付けたらどうだ。幾ら何でもこれは酷い。しかも、以前来た時よりも、本が増えているのは、俺の気のせいじゃ無いだろう」
「大丈夫じゃ、何処に何があるかは把握しておる」
ヴィゴの言葉に、胸を張って答えるガンディを見て、レイは呆れたように呟いた。
「これは、そういう問題じゃ無いと思うけどなあ」
その言葉に、全員が堪える間も無く吹き出した。
「そうね。何度見てもこれは人の住むところじゃ無いと思うわ」
しみじみと言うニーカの言葉に、もう一度皆が揃って大笑いになったのだった。
「ありがとうございました。ガンディ様」
「ありがとうございました。ピック、また来るからねー!」
満面の笑みで手を振って馬車に乗り込んだ姉妹は、執事に付き添われて屋敷へ戻って行った。
「では其方達は、入院棟へ戻りなさい」
ガンディに付き添われて二人は入院棟へ、竜騎士達も、それぞれのラプトルに乗って本部へ戻って行った。
本部へ戻る途中、ルークが入院棟の方角を振り返ってヴィゴの乗るラプトルに寄って行った。
「彼女は、貴方に何を言ったんですか?」
横目でルークを見たヴィゴは、その後ろで心配そうに二人を見ているレイとタドラを振り返った。
手綱を引いて止まる。全員がその場に止まった。
「自分を殺さないでいてくれて……ありがとうと、礼を言われたよ」
俯いてそう言うヴィゴに、ルークは手を伸ばして彼の足を叩いた。
「何、時化た面してるんですか。良かったじゃありませんか」
「良かった……そうなのかな。俺には分からんよ」
「ニーカは、今幸せだって言ってました。僕の家族はいつも言ってます。生きていれば、生きていればいつかはみんな笑い話になるって」
思わず言ったレイのその言葉に、ヴィゴは小さく頷いた。
「そうだな。生きてさえいれば……生きてさえいればいつかはみな笑い話になる。修羅場を生き抜いた人にしか言えぬ、まさしく至言だな」
夕焼けに照らされたヴィゴの横顔は、泣いているように見えた。
黙ってルークがヴィゴの背中を叩き、一行はラプトルに合図をして本部へと戻って行った。
「おかえり、どうだった?」
「おかえりなさい。楽しかった?」
ロベリオとユージンが、休憩室で戻った一行を出迎えてくれた。
「ほら、娘さんに教えてもらって花の鳥を作ってきたよ」
レイが自分が作った花の鳥と、もう一羽を並べて差し出した。
「ええ。これレイルズが作ったの?」
「おお、可愛いじゃ無いか!」
目を輝かせる二人に頷いてレイは机の上に花の鳥を並べた。
「僕のはこれ」
タドラが置いた花の鳥は、やや細身の綺麗な姿をしている。
「俺は……この子」
ルークが置いた丸々とした花の鳥を見て、二人は揃って妙な顔になった。
「これ……もしかして、ピック?」
その瞬間、休憩室は全員が同時に吹き出し、笑いに包まれたのだった。
「それで、レイルズのはどうして二羽なんだ?」
何気ないロベリオの言葉に、唐突にレイが真っ赤になる。
「それは、上手く出来たから離れ離れにするのは可哀想だって言って、レイルズ君の彼女が一緒にって自分が作ったのを渡してくれたからでーす!」
ルークの言葉に、ロベリオとユージンが歓声をあげて、逃げようとするレイを二人掛かりで捕まえた。
「で、今日は彼女とどんな感じだったの?」
「やだもう、二人揃ってまた目が三日月みたいになってる!」
笑いながら必死になって逃げようとして叫び、それを見てまた皆で大爆笑になった。
花祭りの後半は、穏やかなお天気に恵まれて平穏な日々が続いた。訓練所は閉鎖しているし、竜騎士の皆も忙しそうなので、暇なレイは二人がいる間はせっせと入院棟へ通った。途中で半日程、ガンディが来て光の精霊魔法についての講義をしてくれて、クラウディアと二人、真剣に聞き入ったのだった。
八日目にガンディからもう大丈夫だと言われて、二人は街の神殿へ戻って行った。
九日目、朝練を終えて退屈していたレイに、ルークが満面の笑みで誘いに来た。
「せっかくだから、一度くらい花撒きをやってみるか?」
驚くレイに、ルークは笑って頷いたのだ。
「上空にいると、ラピスの背にいるお前の姿は観客からは見えないからね。ラピスの背中なら、沢山の花束を乗せられるだろう? あと二日、一人でも多くの人に花が渡るように、花束の数も増やしてるんだよ」
「やりたい!」
目を輝かせるレイに、ルークは思い切り背中を叩いた。
「幸せは、誰かにおすそ分けしないとな」
その言葉に、またレイは真っ赤になるのだった。
昼食前に竜騎士見習いの服に着替えて、レイはルークと一緒に中庭に出た。
中庭には、ヴィゴとアルス皇子が出ていて、それぞれの竜の背中に、幾つもの花束の入った箱を載せるのを手伝っていた。
見上げると、上空にはすでにブルーの姿が見える。
見上げて手を振ると、目の前に現れたシルフがレイの頬にキスを贈ってくれた。
『彼らの準備が出来たら降りるから、待っていてくれ』
「うん、ブルーは大きいからルビーがいると降りられないね」
アルス皇子の乗るフレアも、ブルー程ではないがとても大きい。綺麗な真っ赤な竜を見て、レイは笑顔になった。
「一緒に花撒きに行くんだよ。よろしくね」
首を伸ばしてくれたので、そっと鼻先を撫でてそう言った。
「幸せは皆に分けないとな」
からかうようなその言葉に、レイはまた真っ赤になるのだった。
準備が出来て三頭の竜が上空に上がったのと交代して、ブルーが中庭に降りてきた。
第二部隊の竜人達が中心になって、ブルーの背に登りまずは鞍と手綱を取り付けた。
「よし、箱を上げてくれ」
背の上の竜人の言葉に従って、下にいた第二部隊の兵士達が、大きな箱をいくつも紐で縛って下されたロープに括り付ける。
流れ作業で次々に乗せられた箱は、あっという間に所定の位置に並べられた。
「殿下がご挨拶をなさったら、シルフ達に命じて箱の蓋を開いてください。そして、殿下が最初の花束を投げた後は、順に満遍なく、出来るだけ色々な場所に花束を撒いてください」
出てくる前に、ルークから聞いた事を、もう一度第二部隊の兵士から言われた。
「分かりました。行ってきます」
嬉しそうに敬礼するレイに、箱を取り付けるのを手伝ってくれた兵士達が、揃って敬礼を返してくれた。
『レイルズ準備が出来たら上がっておいで』
アルス皇子の声が耳元で聞こえて、レイは上空に向かって手を降ってからブルーの背に乗った。
「行こうブルー。街の皆に、幸せを届けないとね」
その言葉に、ブルーは大きく喉を鳴らした。
アルス皇子を先頭に、ヴィゴとルークが並んで後ろに続き、最後尾をブルーが付いて行く。
花祭りの会場が近付くと、下から湧き上がるように大歓声が聞こえてきた。
「めでたき祭りの日に、我らより皆様へ贈り物を!」
広場中に響く王子の声を合図に、シルフ達が一斉に竜の背中に乗せられた箱の蓋を開いた。花の良い香りが辺りに満ちる。アルス皇子がその一つを取り出し、そっと下に向かって投げ落とした。
「お願いシルフ、出来るだけあちこちにばら撒いてね」
目の前にいるシルフにそう言うと、彼女達は揃って大きく頷き一斉に行動を開始した。
レイも鞍の前に取り付けられた箱から花束を取り出して、出来るだけあちこちに投げた。
下から聞こえる大歓声と、拍手、そして冷やかす声と口笛。
今日も、何組もの幸せな恋人達が、生涯を共にする約束をしたようだった。
子供の甲高い歓声も聞こえる。
「皆、幸せにね!」
思わずそう叫んで、笑って箱に残った最後の一つを放り投げた。
竜の周りでは、一仕事終えたシルフ達が大喜びで手を叩き、あちこちで輪になって楽しそうに踊っていた。




