ポリーの可愛い子
「まだ気温は低いが、日差しはしっかり春めいて来たのう」
上の草原で、いつものように家畜や騎竜達にブラシをかけてやりながら、ギードはよく晴れた青い空を見上げた。所々にふかふかの綿のような雲が浮かんでいる。
「そうだな。お日様が当たってると気持ち良いよ」
ラプトルを拭いていたニコスも、上を見上げながらそう言って笑っている。
「確か去年も、三の月に入るとこんな感じだったぞ」
ギードの言葉に、洗った布を絞りながらニコスが小さく呟いた。
「ああ、そう言えば去年のこの頃だな。レイがおろし金で怪我をして血が止まらなくなっていたのは。そうだよ。この頃だ」
「今となっては笑い話だが、今から思えば去年の春が来る頃には、すでに竜熱症の初期症状が現れておったのだな」
「本当に、よく助かったもんだ。あの手紙を読めば、今でも無知の恐ろしさに足が震えるよ」
目を閉じてしみじみと言うニコスに言葉に、ギードも全面的に同意だった。
湯たんぽを届けてくれたガナヤから、商人ギルドに届いていたが、ここ宛ではないかと言って渡されたのは、以前聞いた、竜騎士達が手を尽くしてなんとかしてここへ届けようとしてくれた、カナエ草のお茶と薬、そしてマイリー様からの手紙の入った包みだった。同じ物が、既にドワーフギルドからも渡されている。
「助けてくださった全ての方々に、心からの感謝を……だな」
無言でニコスも頷き、二人はそれぞれにその場で精霊王への祈りを捧げた。
しばらくして顔を上げ、照れたように笑い合った二人は、手分けしていつもの家畜達の世話を終えた。タキスは、今朝から少し落ち着きがないポリーの側にずっと付き添っているのでここにはいない。
ギードは白黒牛の側へ行き、その大きな体をそっと撫でる。
「もうすぐお前さんともお別れじゃな。いつも美味い乳をありがとうな。お前さんのおかげで、レイはあんなに背が伸びたんだと思うぞ」
この牛は、今まで借りていた子の中でも乳の出が良く、またその乳もとても濃厚で美味しかったのだ。一年前に急に増えた、育ち盛りのレイの分までしっかりと毎日乳を提供してくれた。
レイの立派に育った体格は、この牛の乳のおかげもあるだろう。
ギードの様子を見ていたニコスも、白黒牛を撫でて優しく話しかけた。
「毎日ご苦労様だったな。元気でまた新しい子牛を産んでくれよな」
撫でられて嬉しそうな白黒牛は、甘えたようにギードに頭を擦りつけた。
ニコスが振り返ると、口いっぱいに草を含んだ大きなお腹をした黒角山羊がこっちを見ている。
「今年の春は、出産続きだな」
「うまくいくと良いんだがな」
顔を見合わせて、二人は同時に小さなため息を吐いた。
先日連絡をくれたシヴァ将軍から聞いたベラの卵の話は、三人には衝撃的な内容だったのだ。
飼育の達人である彼らでさえも育てるのを躊躇うと言う、初産の親から生まれた夏に孵る子供。
はっきりとは言わなかったが、恐らく彼らの中では初産の夏仔は、育たない子の代名詞なのだろう。
「なんとかして助けてやりたいのう」
「全くだ。レイがあんなに楽しみにしているんだからな」
もう一度ため息を吐いた時、目の前に現れたシルフが慌てたようなタキスの言葉を伝えた。
『早く下りて来てください』
『ポリーの卵がもう今にも産まれそうですよ』
それを聞いた二人は、道具一式をカゴに放り込んで、大急ぎで坂道を下りて行った。
駆け込んだ広場の壁側には、シヴァ将軍の指示で作った即席の産卵室がふた部屋作られている。壁と板で簡単に四方を覆って視界を遮り、上部には布を被せて即席のテントのようになっているのだ。
手前側の、即席の扉を開いて二人揃って中を覗き込むと、丸くなったポリーの横にしゃがみ込んだタキスが、口元に指を立てて笑っている。
「どんな具合だ?」
ささやくような声でニコスが尋ねると、タキスはゆっくりと動いて二人が入れる場所を開けた。
出来るだけゆっくりと、二人も中に入ってポリーを覗き込んだ。
そっと首筋を撫でてやると、甘えたように鳴いて手を甘噛みした。
カリカリ……コツコツ……
ポリーのお腹の辺りから、時々硬い音がする。
「先程から、卵にヒビが入り始めました。もう産まれるのも時間の問題かと」
ささやくようなタキスの言葉に、二人の顔も自然と笑顔になった。
三人は、息を殺してその瞬間を待った。
カリカリ……カツン!
陶器の割れるような乾いた音がした瞬間、ポリーが首を伸ばして自分の腹を覗き込んだ。
「キュウ……」
可愛い声がして、大きな目をした薄い緑色の小さな顔がポリーの足の横から飛び出してきた。
「クルルー」
嬉しそうに鳴いたポリーが、鼻先でその小さな子供にまるでキスするように優しく頬擦りをした。
「おお、産まれたぞ……」
感極まったように、ギードが呟く。タキスとニコスも言葉も無くその小さな子供を見つめていた。
ポリーがゆっくりと立ち上がり、大きく体を震わせる。
その足元には、まだお尻を卵の中に突っ込んだままの、あまりにも小さなラプトルのミニチュアが、顔を上げてポリーを見つめていた。
「ち、小さいのう……」
「これは、堪りませんね」
「話には聞いていたが、本当に小さいな」
三人の呟きに、子竜がこっちを向く。
ニコスの握りこぶしの半分ほどの大きさの頭には、不釣り合いなほどの大きな瞳が三人を見ていた。
「キュウ?」
首を傾げるようにして、不思議そうにタキス達を見つめている。
「か……可愛い、可愛い、可愛い」
タキスが、堪え切れずに何度もそう呟いた。
「落ち着けタキス。それで、このままで良いんだな?」
「はい、卵が割れてポリーが立ち上がったなら、もう大丈夫だろうとの事です。ポリー、お疲れ様でした。水を用意してますから飲んでくださいね」
その言葉を聞いたギードが立ち上がり、端に置いていた大きなバケツを持ってきてポリーの横に置いた。
それを見たポリーは、嬉しそうにバケツに首を突っ込むと早速水を飲み始めた。タキスはそれを見て、教えられた通りに小さなバケツもポリーの足元に置いてやる。
ようやく卵の殻から出てきた子供は、ゆっくりと立ち上がって何度か飛び跳ねるような仕草を見せた後、初めて見るバケツを覗き込んだ。
バケツの縁には水の精霊が現れて座っている。
『可愛い可愛い』
『小さい子竜』
『こっちへおいで』
手を振った彼女は水面に立つと、手招きして子竜を呼んでいる。
それを見た子竜は、バケツに顔を突っ込んで、ポリーがしているように水を飲み始めた。
「自分で水を飲めば、もう完全に大丈夫です。良かった……ポリーの子は、まずは無事に産まれましたね」
顔を見合わせて笑い合った三人は、そのまま隣の部屋を壁代わりの板越しに上からそっと覗いた。
そこには、干し草の寝床にベラが丸くなって蹲っている。
シヴァ将軍から、最悪の場合、もしも抱卵中に卵が死んでしまったら、卵の色が薄緑では無く茶色くなって、溶け始めて綺麗な楕円形では無く何処かが凹んでくるのだと聞かされ、毎日卵の様子を真剣に確認しているタキスだった。
今のところ、卵に特にそう言った変化も無く、シルフ達も大丈夫だと言っているので様子を見ているだけだ。
「今日明日は、子竜には水以外はあげなくても良い。それ以降は親と同じ物を小さく刻んであげる。ポリーにも同じく、今日明日は水のみ」
元々、騎竜は毎日食事をさせる必要は無い。水さえあれば、数日程度は何も食べないのも普通の事なのだ。
シヴァ将軍から聞いた事をまとめたノートを見ながら、タキスがこれからの事を確認するように呟いていた。
産卵室から出て扉を閉めようと振り返った三人が見たのは、また蹲ったポリーの足元に潜り込んでいく子竜の尻尾だった。
「それにしても小さいのう。産まれたばかりの子竜とは、あんなにも小さいものなのか」
感心したようにギードが呟き、ニコスも隣でうんうんと頷いていた。
「レイに見せてやりたかったな」
広場を出てからそう言ったニコスの言葉に、二人も小さく笑って頷くのだった。
「ええ! もう産まれたの! すごいや。おめでとう」
その夜、いつもよりも早い時間に現れたシルフからそう告げられた時、レイは自室では無く、休憩室で若竜三人組とルークに、陣取り盤を教えてもらっていたところだった。
腕に並んだシルフ達の言葉を聞いて、彼らも皆笑顔になった。
「見たかったな。ポリーの子供。でもね、実は今日、僕も騎竜の子供が産まれるところを初めて見たんだよ」
満面の笑みで、レイは今日あった出来事をタキス達に報告した。
実は、ヴィゴの屋敷でも、今年は卵を産んだ騎竜が二匹いて、お願いして産まれそうになったら見せてもらう約束をしていたのだ
その卵が、もう今にも生まれそうだと聞かされたレイは、丁度今日は訓練所はお休みの日だったので、大急ぎでヴィゴと一緒に一の郭にあるヴィゴのお屋敷までラプトルに乗って向かった。
まるで見に行くのを待っていてくれたかのように、到着後間も無く卵から子竜が生まれて、レイは母親を刺激させないように扉越しだったが、何とか卵から子竜が産まれる瞬間を見る事が出来たのだった。
「すっごく小さくて可愛かったよね」
『ええ本当に驚く程小さかったですね』
『でもあれがあんなに大きくなるのかと思うと』
『それも驚きです』
「本当だね。でも良かった、まずは一匹生まれたね」
『ええしばらくはここで飼いますよ』
『手放すかどうかはある程度育ってから考えます』
「騎竜の子供は、売るとそれなりの値が付くからな」
ルークの言葉に、レイはヴィゴがそんな話をしていたのを思い出した。
ヴィゴのところで生まれた子竜は、ある程度まで育ったら、騎竜専門の業者からそれなりの値段で買い取りたいとの話が来ているのだそうだ。
今までも、毎年では無いが生まれた子供はそうやって引き取ってもらっているのだと聞き、レイはポリーの子供がどうなるのか、実はちょっと心配していたのだ。でも、しばらくは手放さないと聞き安心した。
「会いに行けるといいな」
笑って手を振って次々に消えるシルフに手を振り返して、レイは嬉しそうに呟いた。
「春は色々と忙しいからな。行くなら、花祭りが終わってからかな? その頃なら、少しぐらいなら時間が取れると思うぞ」
ルークが考えながらそう言い、三人もそれを聞いて揃って頷いた。
「確かに春は色々と忙しい」
「何があるの?」
首を傾げるレイに、ロベリオが教えてくれた。
「まず、毎年春には大規模な閲兵式があってね。もちろん俺達も参加するからそれの準備が大変なんだよ。それが終わると、今年最初の竜との面会。つまり、主を持たない竜達を希望者に合わせるんだ。俺達もこれで竜と出会ったからね。大切な行事だよ。毎年春と秋に行うんだけど、前回と前々回は、どちらもタガルノとの戦いのお陰で開催出来なかったんだ。夏に急遽開催したけど、結局三日間しか出来なかったしね。まあ、そんな訳で恐らく今年はいつも以上の大勢の人が竜舎を訪れるよ。通常は五日から六日程度なんだけど、恐らく今回は十日はするって言ってたから、これの準備も大変だよ」
「それ以外にも、城や街の神殿で行われる春の祭典に顔を出したりもするよ。まあ、これはまだレイルズには関係無いか」
ユージンの言葉に、皆頷いた
「ってか、これ全部レイルズは見てるだけだよな。ずるいぞお前。手伝え!」
ロベリオにそう言って背中を擽られて、レイは悲鳴をあげて逃げ出した。
「じゃあこうしようよ。僕も第二部隊の服を着て一緒に手伝うよ、それなら大丈夫でしょ?」
「ええと、どうだろう? まあ、ヴィゴに聞いておいてやるよ。どうせ竜騎士になったら嫌でも参加するものばかりだからな。早めに様子を知っておくのは無駄じゃ無いだろう。それに、確かにそれは良い考えかもな。第二部隊の制服を着ていれば、また俺達とは違った目線で見られるかもな」
最後は小さく呟いたルークは、考えをまとめると顔を上げた。
「それから、今年の花祭りは楽しみにしてろよ。マティルダ様が、特等席へお前とタドラを招待してくれるそうだ。一番高い特等席から花祭りを見られるぞ」
目を輝かせるレイルズに、タドラが抱きついた。
「僕も、今年の花祭りはとっても楽しみにしてるんだよ。去年初めての特等席の予定だったのに、タガルノのせいで、そもそも花祭りを全く見られなかったんだもんね」
二人は顔を見合わせて笑い合い、手を叩きあった。
「一緒に見ようね!」
「うん、よろしくお願いします!」
「ヴィゴは未だに、娘さん達が作った花の鳥を見たかったのに、って言ってるしな」
ルークの言葉に、ロベリオ達も苦笑いしていた。
「ロッカが、今年は張り切って大仕掛けを考えてるって言ってたから、本当に楽しみだよな」
「もしも今年もタガルノが何かしたら、本気で怒るからね!」
タドラの言葉に、その場にいた全員が堪えきれずに吹き出したのだった。




