降誕祭の悪夢再び
教室に入ったテシオスとバルドは、机の上に鞄を放り出すと、中からモルトバールに貰った袋を取り出した。
「これか?」
「そう。早くやろうぜ」
目を輝かせた二人は、袋から分厚い紙を取り出した。
「ええと、この紙を床に敷いて、これで四隅を止めるんだって聞いたぞ」
両端を持って、机の奥、暖炉の前の広い床にその紙を広げた。
不思議な事に、折り目がついていたはずのその大きな紙は、広げた途端にシワが伸びてピタリと床に張り付いた。四隅に、言われた通りに、重りにと渡された金属の丸い塊を置く。
「これって何だろうな。こんな黒い色の金属、見た事無いや」
「何かの合金だろう? そんなの俺だって知らないよ」
詳しい成分の知らない物を、術の発動の際に魔法陣の中に置くのも、本来絶対に術者としてはやってはならない事だ。しかし、無知な二人はその危険性についても、当然知らされていなかった。
この時の彼らは知らなかったが、この分厚い紙は二枚重ねになっており、二枚目に本来の目的である邪悪で凶悪な絶対に開いてはならない魔法陣が描かれていたのだ。
四隅に置かれた黒い金属は、邪鉄と呼ばれる闇の眷属達の武器を作る元になる特殊な金属だ。しかし、僅かならこの世界の鉱山でも取れる為、これ自体には闇の気配は無い。
二枚目の魔法陣は、中心の魔法陣の四隅にも小さな魔法陣がいくつも重なるように描かれていて、邪鉄はその上に供物として捧げられる為に置かれていたのだ。
そして、中心となる真ん中の魔法陣への供物は、これが純粋に悪戯だと信じている、愚かなこの二人だった。
「教授が来る前にやっちまおうぜ」
バルトの声に、テシオスも頷いた。
「お前はそっちの円に両手を置け。俺はこっちだ」
自信満々に聞いた通りに説明するテシオスに、バルドも頷き言われた通りにその場所に両手を置いた。
テシオスがそこに両手を置いた瞬間、一瞬だけ地響きのような音がした。
「何だ、今の?」
「地震か?」
しかし、特に何も起こらない。
「それで、この次はどうするんだ? 召喚の呪文は?」
「ええと……来い!」
「来い!」
テシオスの声を聞いて、バルドも真似して叫んだ。
見つめていると、真ん中がせり上がって真っ黒な塊が膨らみ始めた。
「おい……コレって……」
その時、パチンと弾けて二匹の闇虫が飛び出した。
蝶よりも小さいその黒い虫は、フラフラと辺りを飛び回り、二人の鼻先にそれぞれ止まった。
「どんどん呼ぶぞ。来い! 来い! 来い!」
「来い! 来い!」
それを見て気を良くした二人は面白がって呼び続け、十匹目が飛び出す。
「来い!」
テシオスがまた叫んだ瞬間、真ん中に先程とは比較にならない程の巨大な黒い塊がゆっくりとせり上がってきた。
その黒い膨らみはどんどん大きくなり、魔法陣全体を飲み込んだ。気付けば二人の目の前すぐの所まで迫って来ている。
さすがに危険を感じて手を離そうとした時、彼らは事の重大性に気が付いた。
五匹づつ、二人の体のあちこちに止まった闇虫が重くて全く動く事が出来ない。
そして、置いていただけの筈の両手が、まるで張り付いたように魔法陣を描いた紙から離れてくれないのだ。
さらに上に向かって大きく膨れた黒い塊が、目の前で弾ける。
中から現れたのは、大人の胴回り程の太さが有りそうな巨大な身体を持った、見上げる程の大きさのとぐろを巻いた真っ黒な蛇だった。
そいつが、ゆっくりと鎌首をもたげ、真っ赤な目を光らせて二人を見る。
口の先から二本に分かれた長い舌が、忙しなく出たり入ったりしている。
そいつは確かに二人を見て、笑った。
自分を飲み込もうとした巨大な口が、ゆっくりと目の前に迫って来るのを、二人は悲鳴を上げてただ見ている事しか出来なかった。
「さて、それでは始めますよ。早速重要な箇所ですので、見落とさないように」
本を片手に、壁に取り付けられた黒板に文字を書く教授を見ていたレイは、不意に沸き起こった違和感と不快感に、思わずペンを落とした。
「どうした? 大丈夫か?」
マークの声が遠くに聞こえる。神経が逆撫でされるような、何とも言えない不快感はどんどん増していく。
何処かで何か、とんでも無い事が起こっている。
「何だこれ?」
思わず立ち上がって周りを見回す。気付けば、全身に鳥肌が立っていた。
「どうしました? 座りなさい」
マークの声に振り返ったセディナ教授が、不意に顔を上げた。
「え? 何ですか……これは……?」
その時、マークも皆が感じる違和感に気付いた。
足元から何かがせり上がって来るような、言い表せない程の不快感で全身に鳥肌が立っている。
『危険! 危険!』
『逃げて! 逃げて!』
突然、レイの指輪から、ニコスのくれたあのシルフ達が飛び出して来た、その後に、ペンダントが跳ねて光の精霊達が七人飛び出して来た。
「え? 五人じゃ無かったのか? ってか、すげえデカい子達だな」
こんな時なのに、思わず感心したようなマークがそう呟く。
『危険也!危険也!』
『闇の眷属が現れた』
『聖なる結界が破られた!』
光の精霊が、突然物凄い光を放ち、光の精霊が見えない者にも聞こえる声でそう言い放った。
その声が聞こえたセディナ教授が目を見開いて、持っていた本を放り出して廊下に飛び出す。
廊下には、既に何人もの教授達が飛び出して来ていた。
皆、隣のテシオス達が入っている教室の前にいて、扉を叩き開こうとしていたのだが、どういう訳か、全く扉が動かないのだ。
「シルフ、開けろ!」
一人の教授が、扉に手を当ててそう叫んだが、扉は固く閉ざされたまま全く動かない。
「駄目だ。一体どうなっている。開かぬわけが無いのに」
焦ったように次々と教授達が扉を開こうとするが、全く開く気配は無い。
「どうしたんですか!」
教授達だけで無く、異変を感じた生徒達までが次々と飛び出して来て、廊下が人でいっぱいになる。
教室から飛び出して来たレイルズが、教授をかき分けて扉の前に進む。
「危険です。下がってください」
腕を抑えられたが振りほどいて駆け寄る。そのままレイは、扉に手を当てて力一杯の大きな声で叫んだ。
「開けろ!」
何かが割れるような音がして、一気に扉が開く。テシオス達の悲鳴が響き渡る。
シルフ達と光の精霊がその瞬間に中に飛び込むのが見え、レイも慌てて中に飛び込んだ。
背後で教授が何か叫んでいたが、応える余裕は無かった。
明かりが消えて異様な程に真っ暗だった部屋に、光の精霊達が放つ光が一瞬で満ちる。
見えたのは、今まさにテシオスを飲み込もうと大きな口を開けて襲い掛かる、巨大で真っ黒な蛇の姿だった。
「テシオス! 逃げて!」
両手をついて屈み込んでいる二人の襟首を引っ掴んで、力一杯仰向けに二人を引き倒す。その上から真っ黒な蛇が大きな口を開けて襲い掛かる。
「馬鹿、何やってるんだよ!」
マークがそう叫んで、レイルズに覆い被さるように両手を広げて蛇の目の前に飛び込んで来た。
物凄い衝撃音がして、一瞬だけ蒼い光が部屋に満ちる。
四人まとめて丸呑みにしようと大口を開けて襲いかかって来た真っ黒な蛇は、突然現れた蒼い光の壁に鼻先を焼かれ、甲高い悲鳴を上げて仰け反った。
その隙に、四人は転がるようにして後ろに下がる。
レイルズに引き倒された時、あれ程抵抗しても全く動かなかった両手が、呆気なく外れたのだ。
テシオスとバルドは、何も出来ずに呆然と自分達を庇ってくれた二人を見ていた。
再び、真っ黒な蛇が鎌首をもたげてこちらを見る。鼻先が焼かれて白くなっている以外、弱った様子は無い。
「闇蛇だ……」
「どうして上位の闇の眷属がこんな所に……」
廊下から覗き込んだ教授達の口から呻くような声が漏れる。
その声を聞いて、マークは覚悟を決めた。
本で読んだ覚えがある。闇蛇は、闇の眷属の中でも最上位では無いが、簡単に人が倒せる相手では無い。恐らく竜騎士様と竜達が全員力を合わせて、やっと倒せる程だろう。
しかし、ここで逃げるわけにはいかなかった。
「レイルズ。無駄かも知れないけど俺の剣よりはましだろう。これ、借りるぞ」
マークの手には、先程教室の入り口の剣置き場に置いたミスリルの剣が鞘ごと掴まれていた。
「ミスリルは精霊が好むんだ。俺がこいつを抜いて力一杯カマイタチを放つから、その隙に、お前はこいつらを引き摺って、何とかしてここから逃げろ」
「駄目だよ! そんな事したらマークはどうなるんだよ!」
泣きそうな声で叫ぶレイルズを見て、マークは自分も震えながらも気丈に笑って見せた。
「これでも一応、軍人の端くれなんでね。お貴族様の坊っちゃま方を前にして、危険から逃げるわけにはいかないんだよな」
「それなら一緒に!」
レイルズがそう叫ぶと、マークが持つギードが作ってくれたミスリルの剣を掴んで取り返した。
「おい……」
しかし、真剣な目で見つめられてゴクリと唾を飲み込むと、小さく頷いてレイルズが持つ剣の柄に自分の右手を重ねた。
ゆっくりと、剣を鞘から引き抜く。
光の精霊達が放つ光を受けて、紛う事なきミスリルの輝きが現れた。
『よし、把握したぞ!』
突然目の前に大きなシルフが現れて、ブルーの声が聞こえた。
『レイ、剣を高く掲げろ!』
大声でそう言われ、二人は迷う事なく両腕を出来るだけ伸ばして剣を頭上に捧げた。
その瞬間、部屋中に青い光が満ちて、捧げた剣の先から青い稲妻が放たれた。
その稲妻は、目の前にいた真っ黒な蛇を直撃する。物凄い轟音と地響きがして、真っ黒な蛇は粉々に砕け散った。
その場にいた全員が、その衝撃に薙ぎ倒されて床に叩きつけられる。
また仰向けに倒れたテシオスとバルドの上に、前に立っていた二人が勢い余って吹っ飛んで来て、その上に倒れ込んだ。押し潰された下の二人が、揃って悲鳴を上げる。
細かな瓦礫の粒がいくつも飛んできて、一番上にいたマークの頭を直撃する。
あまりの痛さにマークが悲鳴をあげた。レイルズも隣で悲鳴をあげて額を押さえている。
左を見ると、何故か壁が全部崩れて外の景色が瓦礫の向こうに見えている。一気に寒い風が吹き込んで来て、部屋を吹き抜けていった。
しかし、青い光が静まった後も、恐怖の余り、誰一人口を開く事が出来なかった。
『レイ! 無事か!』
シルフがブルーの声でそう叫ぶのを見て、レイは大きくため息を吐いた。
「ありがとうブルー。また、助けてもらったね」
笑おうとしたが、出来なかった。まだ恐怖に体が震えている。
マークとレイルズは何とか起き上がって、まずはマークが、レイルズが持っていた鞘にミスリルの剣を収めてくれた。レイルズが剣帯に戻そうとしたが手が震えて上手くいかない。それを見たマークが、片膝をついてレイルズの剣帯に黙ってミスリルの剣を戻してくれた。
小さな声でお礼を言って、レイは震える両手で自分の腕を抱きしめるようにして擦った。
光の精霊達が、床に敷かれた紙を押さえて何かしている。次の瞬間、その紙はクルクルと巻き取られて床から剥がされた。
『これが原因』
『邪悪な魔法陣が描かれている』
『誰が描いた?』
『誰だ?』
怒ったような声で、光の精霊達が口々に言う。しかし、その声はレイルズと立ち上がったマークにしか聞こえなかった。
光の精霊が見えない者達には、紙の筒が宙に浮いているように見えるであろうその光景を見て、マークとレイルズは思わず顔を見合わせた。
「ええと……光の精霊が、その魔法陣を描いた紙を誰が持って来た? って、聞いています」
恐る恐る通訳したマークの声が、静まり返った部屋に響く。
しかし、テシオスは呆然としたまま動かない。
「それ……テシオスが持って来ました……悪戯するんだって言って……」
床に座り込んだバルドが、消えそうな小さな声でそう言った。
「俺達二人で、小さな虫を呼ぶ魔法陣だって聞いて、ちょっと悪戯するつもりだったんです……」
呆然としたままテシオスがそう言った時、駆け寄った研究生である第四部隊の兵士が、いきなり力一杯テシオスを殴り飛ばした。
レイは驚いて止めようとしたが、誰一人見ているだけで、教授達でさえ止めようとしない。
その兵士は、バルドも同じように殴り飛ばすと、テシオスの胸ぐらを掴んで引き起こし、大声で怒鳴りつけた。
「貴様達、自分達が何をしたか分かっているのか! 貴様らは、この国を守る聖なる結界に自ら穴を開け闇の眷属を招き入れたのだぞ。しかも、皇王様の住まわれる王城から間近のこの距離で!」
その兵士だけで無く、第四部隊と第二部隊の制服を着た何人かの生徒がその大声に我に返り、急いで動き始めた。
テシオスとバルドの二人を拘束し、第四部隊の本部に連絡して、大至急結界の修復を行わなければならないからだ。
しかし、レイの肩に座ったシルフが、そんな彼らを止めた。
『大丈夫だ。ここは一旦、我が守護の結界を張って守っておる。破れた結界は、我の寄越した光の精霊達が完全に修復する故心配はいらぬ。それよりも、こいつらにその魔法陣を渡した奴を突き止めろ。そいつが恐らく今回の一件の諸悪の根源だ。それは人である其方らの仕事だ。ここは我に任せろ』
「了解しました!失礼します!」
「ありがとうございます!よろしくお願いします! 蒼竜様」
直立した第二部隊の先頭にいた兵士がそう言って敬礼すると、彼らは一斉に行動を開始した。第四部隊の兵士達も揃って敬礼してその後に続く。何人かの教授が、慌てたようにそれに続いた。
その時、図書館から駆けつけて来たキムが部屋に飛び込んできた。
「レイルズ! マーク! 大丈夫か!」
まだ呆然としている二人に駆け寄った。
「一体何があったんだ。蒼竜様が知らせてくださって、急いで来たんだけど……」
その言葉に、マークは弾かれたように顔を上げた。
「蒼竜様って……お前……知ってたのか……?」
しまった、という顔をしたキムを見たマークは、ゆっくりとまるで壊れた玩具のように隣にいるレイルズを振り返った。
二人とも、今にも泣きそうな顔をしていた。




