ニコスの独白
「分かった。黙って聞く故、其方の気が済むまで全部話せ」
真顔の陛下の言葉に、こちらも真顔になって頷いたニコスがゆっくりと口を開く。
「ありがとうございます。これは、とある愚か者の独白でございます。少々長くなるやもしれませぬが、どうかお聞きください」
そう言って居住まいを正したニコスは、手にしていた空になったワイングラスを置いてから深々と頭を下げた。
無言で頷いた陛下も手にしたままだったグラスに残ったワインを一息に飲み干すと、そっとテーブルの上にグラスを置き、両手を膝の上で組んで聞く姿勢になった。
顔を上げたニコスは、そんな陛下を見て少し笑顔になってから自分の両手を見つめた。
「若様がお生まれになった日の事は、この手にその子を抱いた日の事は今でもはっきりと覚えております。本当に小さかった。人間の赤子はこれほどに小さいのかと、本気で驚いたものです。そして、その小さな体にも関わらず、辺りに響き渡るほどの泣き声の大きさと力強さにも驚きました」
嬉しそうに笑ってそう言いながら、両手で何かを抱える振りをする。
「片手でも抱けるほどの小さな赤子が、ただただ可愛くてたまりませんでした。力一杯に私の指を握る小さな手に、かけらのような爪がついているのを見た時の感動もはっきりと覚えております。本当に、何をしても可愛かったんです。笑っても、怒って暴れても、転んで泣いていてさえも。これほどまでに愛しい存在があるのかと、自分で自分の気持ちに驚くほどに」
そう言って目を閉じ、両手で自分の体を抱きしめるニコス。
「お前が、専属の執事となり生涯かけてこのお方をお支えし守るのだと、父上にそう言われた時、私は純粋に嬉しかったんです。健やかに育つ目の前の存在を文字通り身も心もささげてお守りし、そして自分の持つ知識を全て教えるつもりで教育も施しました。若様は優秀なお方でしたよ。教えた事をあっという間に吸収するその様子は見事と言うほかありませんでした。気がつけば、幼かった子供は立派な青年へと成長していて……時には、私に言い返す事すらありました。そんな生意気な若様もまた可愛かったのです……」
そこまで言って、ニコスは両手で顔を覆った。
「あの当時、貴族社会の間では、とある考え方が急激に支持を伸ばしていました。改革と改変。そう呼ばれたそれは、今までの古き考えを捨てて新しい時代を作るものだと、そう言われていました。聞こえは良いそれは、しかし大きな問題をはらんでいました。要するにその考えの根底にあったのは、貴族社会の根幹とも言える伝統と格式を軽視しようとするものだったのです。その結果がどうなったかは陛下もご存知でしょう。一時は国そのものの形すら傾きかねないほどの事態になったのですから。当時の若様もその考えに傾倒なさり、本来であれば結婚の適齢期であったにも関わらず結婚そのものすら否定なさり、自由に外の世界を見たいと仰せになり、家を出て冒険者の真似事を始める始末。そんな中、先代が急な病でお亡くなりになって家を継がれた後も、若様は考えを改めようとはなさらなかった。当時、筆頭執事であった父上は、若様専任の執事であった私にこう言いました。若様を説得し、屋敷へ戻り結婚するように説得しろ、と」
絞り出すようなニコスの言葉に、陛下はグッと拳を握るだけで何も言わない。
今でこそ安定して持ち直しているが、陛下は、その当時のオルベラートの混乱を実際に知っている。
友好国であるオルベラートの混乱は、当然、この国にも様々な影響を及ぼした。
実際に、その考えをまとめた論文が当時の国立大学に多く寄せられ、一時期議論の中心になったほどだった。
しかし、この国でその考えが全く浸透しなかった最大の理由は、皮肉な事にもう一つの隣国であるタガルノとの激しい紛争が続いていたからだった。
改革や改変は、平和な場でこそ論じられるものであって、目の前に迫る本物の危機の前では、夢物語だ、机上の空論だと笑い飛ばされるような程度のものでしかなったからだ。
「しかし、若様は私の必死の説得の言葉には一切耳を貸さず、辺境の地を訪れては嬉々としてダンジョンに潜り、また辺境地域の古い遺跡を探索しては新発見と称して、時に地域に伝わる宝を強奪する事すらありました。あとで、我々がそれらをいくばくかの補償金と共に返却していた事を、若様は最後までご存じありませんでしたね……」
最後は消え入りそうなくらいの低い声でそう言ったニコスは、ここで一つため息を吐いてゆっくりと首を振った。
「本当ならば、私が命に変えてでもお止めしなければいけなかったのに……あのお方の笑顔が見たい為に、いずれ気がつくだろう。今は若様の気が済むようにさせてやりたいと考え、私は自分が間違っているかもしれないと考える事すらしようとしなかったのです」
あまりにも淡々としたその告白に、陛下は一瞬口を開きかけて、しかし何も言わずに黙って首を振った。
「その結果、国境を超えて冒険者と共にこの国へと入った若様は、岩塩が取れるとの噂を聞いて興味本位で蒼の森へ入りました。本来であれば、勝手に森に入ろうとすれば森を守る精霊達に阻まれるのですが、精霊魔法使いとしてはかなりの上位の腕であった私がいた為、森の精霊達の守りを跳ね除け森に入る事が出来ました。結果として、岩塩の採掘地に到着はしたものの、私達はそこでサーベルターガーの襲撃を受けました」
「この森にはサーベルタイガーが出るのか!」
思わず聞き返した陛下が、慌てたように自分の口を自分の手で塞ぐ。
「サーベルタイガーは縄張り意識が非常に強く、よほどの理由がない限り縄張りからは一切出てきません。我らはその縄張りをよく知っておりますので、ご心配には及びません」
「そ、そうか。失礼した。話を続けてくれ」
苦笑いしつつ小さく頷く陛下に、ニコスも笑顔で一礼した。
テーブルに置かれた空になったワイングラスの縁に座ったブルーの使いのシルフは、そんな彼らを黙って見つめているだけで何も言わない。
彼らの頭上に呼びもしないのに集まってきていたシルフ達も、向かい合って座っている二人を、それぞれ真剣な様子で黙ったまま見つめていたのだった。




