ニコスの願い
「うわあ、そっちから攻めるんだ……」
思わずと言った風にそう呟いたレイの声は、静まり返った部屋に意外なくらいによく響いた。
慌てたように口を塞いだレイだったが、誰もそれを咎めない。いや、それどころか誰もそんな事を気にしていなかった。
陛下とニコスの勝負はほぼ終盤に差し掛かっていて、盤上の駒は双方ともにかなり少なくなってきている。
しかも、ほぼ間をおかずに淡々と駒を進めるニコスと違い、先ほどから陛下の攻める手が止まりがちになっているのだ。
「う、うむ……」
僧侶の駒を取られた陛下が、口を引き結んで低く唸る。
「戻しましょうか?」
苦笑いしたニコスの言葉に、無言の陛下が首を振る。
戻すとは、言葉通りに今の攻めを無かった事にしてやり直す行為だ。
これはほぼ、負けと同じ意味を持つ。
もう一度低く唸った陛下が、ゆっくりと騎士の駒を進める。だが、この位置では次にこの駒が取られてしまう。そして守りの要である僧侶の駒と、攻撃の要である騎士の駒の両方を失ったというのは、もう事実上詰み。
つまり、これは陛下の負けが確定した瞬間でもあったのだ。
当然、双方ともにその意味を理解しているのでここで投了となった。
「いや、参った。これは完全に私の負けだな」
両手を顔の前に挙げた陛下が、苦笑いしながらそう言って背もたれに倒れ込む。
そして、勝ったとはいえニコスもまた大きなため息を一つ吐いて、両手で顔を覆って同じく背もたれに倒れ込んだ。
「陛下の敗因は、ここですね」
隣のテーブルに置いた別の陣取り盤で、今の勝負を再現していたルークが、苦笑いしながら馬車の駒を指差す。
「その通りだ。ううん、しかしこれは……とんでもないな。まさにマイリーと同格だ」
体を起こした陛下が、そう言いながらも満面の笑みでまだそのままになっている盤上を見た。
「ニコスよ。良き勝負であった。其方の健闘を讃えて褒美を取らせよう。何か希望はあるか?」
「い、いえ。そのような……」
慌てたニコスが即座に体を起こして深々と一礼したが、満面の笑みの陛下は何も言わない。
妙な沈黙が続いた後、シヴァ将軍が小さく笑ってニコスの隣へ行ってその肩を叩いた。
「ほら、ニコス。何か言わないと、ずっとそのままですよ」
「シヴァ将軍……」
戸惑うようにそう言ったニコスだったが、シヴァ将軍に笑って頷かれてもう一度肩を叩かれた。
「では……厚かましくも、一つお願いしてもよろしいでしょうか」
「うむ。何なりと申すが良い」
「叶いますならば、その飾りボタンを一つ拝領頂きたく」
そう言って深々と頭を下げる。
「そうきたか。もちろん、喜んで進呈しよう。勝者は其方だ」
笑った陛下が、服に付いていた飾りボタンを一つ引っ張ってからそう言い、背後に控えていた執事を振り返る。
即座に一礼した執事が側に来て、陛下の襟元にそっと手を伸ばした。
「失礼致します」
執事の手にあったのはごく小さなハサミで、先ほど陛下が引っ張った飾りボタンの糸をそっと切り外す。
執事からその飾りボタンを受け取った陛下は、笑ってニコスに腕を伸ばした。
頭を下げたままのニコスが、両手でその飾りボタンを受け取る。
ここで、笑顔のルークとヴィゴが揃って頷きながら拍手をして、皆もそれに続く。
レイも驚きつつ満面の笑みで力一杯拍手をしていたのだった。
今のやりとりには、実は大きな意味がある。
陛下が、良き勝負をしたニコスに対して褒美を取らせると言った。
そして、ニコスは陛下が身につけている服にある飾りボタンを希望し、陛下はそれを許して与えた。
これはつまり、今現在何の身分も持たないニコスを陛下が認めた人物であると示す行為なのだ。
しかも見届け人となり、今後のニコスの身分を保証する事が出来る貴族の当主がここには二人いる。
今回のオルダム行きで、ギードは瑠璃勲章を拝領している。これで実際の身分は無いが、ギードも公式の場では準貴族の扱いとなる。
タキスの身分は、言うに及ばず。
こうなると、元オルベラートの貴族の執事で今も皇族からの信頼が厚いとはいえ、表向きの身分が無いのはニコスだけになる。
ここで、陛下からの直々に身につけていた物を拝領したニコスも、ギードと同じく表向きの身分こそないが、扱いとしてはそれに準ずる身分となるのだ。
これで今後彼らがオルダムに行った際には、少なくとも三人とも全くの平民という身分では無くなる。
「うむ、さすがだな」
「わがままな願いをお聞き届けいただき、心から感謝いたします」
笑った陛下の言葉に、もう一度深々と頭を下げたニコスだった。




