エイベルの事
「えっと、ねえタキス。ちょっと聞いてもいい?」
空になったカップを置いたレイが、遠慮がちにタキスを見る。
「ええ、いいですよ。どうしたんですか?」
同じく飲み終えて空になったカップを置いたタキスが、驚いたようにそう言ってレイに向き直る。
「さっきのティティー母さん。タキスに、エイベルちゃんはどうしたんだって聞いたよね。その……もしかして彼女は、エイベルが神様になった事を知らない? でも、そんなはずないよね?」
今では神となったエイベルが直接の恩恵を受けた軍人達だけでなく、マルコット様と並んで子供の守り神としても人々の信仰を集めているのを知っているレイにしてみれば、オルダムに住んでいて、タキスだけでなく亡くなられたアンブローシア様や幼い頃のエイベルを知っている彼女が、エイベルが神となった事を知らない事自体が驚きだったのだ。
「ああ、もちろん神となったエイベルの事は知っているでしょうが……おそらく彼女の中では、自分の知る幼かったエイベルと、神になったエイベルが重ならなかったのでしょうね。私自身の事は、貴族の方々や軍人の間では名前も含めてある程度は知られていますが、一般の方々にはそこまで詳しい経緯は知られていないようですから」
苦笑いするタキスの言葉に、レイは納得したように頷く。
「それに師匠から聞いた話ですが、実際にあの子が亡くなって私がオルダムからいなくなって……それから竜熱症に関する事実が判明して実際の研究結果が公表され、カナエ草を使ったお薬やお茶が普及するまでには八年近い歳月が経っているそうですから、彼女が知る私の息子のエイベルと、神となったあの子が重ならなくても当然かと思いますね。それに最初のエイベルの像が女神の神殿にドワーフギルドから贈られた時も、最初の扱いは、あくまでも竜熱症の研究に対する大いなる貢献への感謝、という立ち位置だったそうです。神として祀られ、祈りの対象となったのは自然の成り行きだったのだそうですよ。まあ女神オフィーリアの神殿に像が贈られたおかげ、というのは大きいと思いますけれどね」
「へえ、そうなんだ」
その辺りの詳しい経緯を知らないレイが、驚いたようにタキスを見る。
「まあ、私もその辺りの事は師匠からしか聞いていませんからね。いずれにしても五十年を超える歳月は、人の子にとっては世代が完全に変わる程の歳月です。詳しい経緯が忘れられても仕方がない事なのでしょうね」
「タキスはそれで良いの?」
遠慮がちなレイの言葉に、タキスはにっこりと笑って頷いた。
「もちろんです。エイベルに祈りを捧げてくださる皆様には感謝しかありません。でも、出来ればそこに私は置かないで欲しいですね。私は蒼の森に住むただの農民です」
「まあ、本人がそう言うのなら、そうなんだろうさ」
「確かにそうだな。思うのも願うのも本人の自由だからな」
タキスの言葉にニコスとギードが顔を見合わせながらしみじみとそう言い、全員揃って大笑いになったのだった。
「はあ、お腹痛い。あの、すみません。紅茶を四人分いただいてもよろしいですか」
全員の、キリルシロップのお湯割りのカップがすっかり空になっているのに気付いて、レイが軽く手を挙げて追加の注文をする。
「かしこまりました。すぐにご用意しますね」
店主の娘さんなのだろう、最初に接客してくれた若い女性が笑顔でそう言い厨房に下がっていった。
それを見て、店主の女性が手早く空いた食器を片付けてくれる。
「お待たせいたしました。どうぞごゆっくり。こちらは、母からです」
笑顔の店主が紅茶と一緒に持ってきてくれたのは、焼き菓子と、四つのアップルパイの盛り合わせだった。しかもアップルパイは四角の形のものだ。
「多いようでしたら、お持ち帰り用にお包みしますので遠慮なくお申し付けください」
「い、いえ。買いますので!」
慌てたタキスがそう言ったが、店主の女性は笑顔で首を振った。
「母がとても喜んでおりましたので、どうか遠慮なく受け取ってやってください。実を申しますと、最近ではちょっと記憶が混乱したり、よく分からなくなったりする事も多くて、まあ年齢的を考えれば当然なのでしょうが……でも今日の母は、本当に以前の母が帰ってきたかのようにしっかりしていて、私達も本当に驚いたんです。もしかして、家で留守番をさせているよりも、店に座らせておく方が母にとって良いのかもしれないとも思いました」
「失礼ですが、どこか悪くされているなどはありますか?」
医者の顔になったタキスが質問する。
「いえ、診療所の先生によると至って健康との事です」
「それならば、確かに家に閉じ込めておくよりは、お店で座っていてもらう方が良いかもしれませんね。元々ずっと接客商売をしておられた方です。ご本人が嫌がらないのであれば、周囲からの様々な刺激のある環境の方が、ご本人にも良いかもしれません。私は普段のティティー母さんのご様子が分かりませんので断言は出来ませんが、一度、診療所の先生に相談なさってみてはどうでしょうか」
「ありがとうございます。そうですね。一度相談してみます」
嬉しそうにそう言って下がる店主を笑顔で見送り、タキスは嬉しそうに四角のアップルパイを見た。
「わざわざこの形のアップルパイを届けてくださったという事は、ティティー母さんは、エイベルがいつもこれを喜んで食べていたのを覚えていてくださったんですね。ああ、本当にここに来て良かった……」
感極まったかのようにそう呟いたタキスは、紅茶を一口飲んでからレイを見た。
「ありがとうございます、レイ。全て貴方がいてくれたからこそです」
目を潤ませるタキスの言葉に、笑って首を振ったレイもそっと紅茶を口にしたのだった。




