それぞれの部屋にて
「このワシが、貴族御用達の眠る竜の紋章を掲げる宿で、しかもびらびらの付いた天蓋付きのベッドで寝る日が来ようとはなあ」
全く見慣れない豪華な天井を見上げて、ベッドの端に座ったギードは大きなため息を吐いて仰向けに倒れ込んだ。
頭上では数人のシルフ達が集まり、こっちを見てキャラキャラと声を立てて笑いながら手を振っている。
「お前さん達ならどこでも入り放題だろうが、ワシはこんな豪華な部屋生まれて初めて入るぞ。全く、冗談にも程があるわい」
そう言ってもう一度大きなため息を吐いてから、腹筋だけで軽々と起き上がった。
実は冒険者達の間で、びらびらの付いた天蓋付きのベッドで寝る。と言うセリフは、飲んだ時に言う定番の冗談の一つなのだ。
意味はそのまま、絶対に有り得ない事、と言う意味の例え話だ。
もちろんギードも、冒険者時代に仲間達と飲み交わした時や普段の会話の時にも何度も言った覚えがある。
元冒険者仲間であるバルナルとエルミーナ夫妻があの宿屋を、ギルドから紹介された後継の無かった前の主人から買い取った時には、開店前にあの宿屋の特別室を見せてもらい、これでお前もびらびらの付いた天蓋付きのベッドで寝放題だなと言って大爆笑したものだ。
その自分が、まさか本物のびらびらの付いた天蓋付きのベッドのある部屋に、しかも賓客扱いで泊まる日が来ようとは。本当に冗談にも程があると心の底から思う。
もう一度ため息を吐いたギードは、綺麗に整えられた本物のびらびらなフリルレースの縁取りのついた総レース仕立ての天蓋を見て遠い目になった。
貴族のお嬢さんがこのベッドでお休みになればさぞ似合いだろうし物語の一場面のようになるのだろうが、自分がここに寝るのだと考えただけで気が遠くなりそうだ。似合わないにも程がある。
「全く、人生何が起こるか分からぬものよの。精霊王も冗談がお好きとみえる。まあいいわい。まずは有り難く湯を使わせてもらうとするか」
一人で過ごすにはあまりにも広い部屋を見回して、もう一度ため息を吐いたギードだった。
先程、別室でお茶を飲んでしばし待たされた後、どうぞ我が家と思ってお寛ぎくださいと言った執事に案内されて通されたそこは、予想をはるかに超えるとんでもなく豪華な部屋だった。
さすがは貴族御用達の宿の特別室だなと、完全に他人事のように考えていたギードだったのだ。
まあ、ニコスは平然としていたが、タキスも自分と似たような有様だったからおそらく考えている事は自分と同じだったのだろうと思われる。
まず、最初に通されたのが広いと思っていた石の家の居間の数倍はある居間で、真昼かと思うほどにいくつもの明かりが灯されていた。
壁面や天井には豪華な彫刻がこれでもかとばかりに施されていて、煌々と灯るランタンの明かりに照らされて微かな影を落としていた。
部屋の中央には、三人並んで座っても余裕で寛げそうなくらいに大きな座り心地の良さそうな総革張りの大きなソファーと、側面に見事な彫刻が施された顔が映りそうなくらいに表面がツルツルの大きなテーブルが置かれていた。もうこれを見ただけで帰りたくなったのは内緒だ。
その居間と繋がった部屋が全部で六部屋あり、お好きな部屋をお使いくださいと言われて三人で顔を見合わせた。
とりあえず一番手前側の部屋を見てみると、ふた部屋仕様になっていて、奥がベッドルームになっていた。
この部屋だけでも、いつも使っている緑の跳ね馬亭の居間くらいは余裕である。
しかも、各部屋には備え付けの洗面所と湯殿があり、部屋を見学気分で見ていた三人に、笑顔の執事から各部屋の湯の用意も出来ているので、ご自由にお使いくださいと言われてさらに驚いたのだった。
レイから伝言のシルフが来たのは、部屋の見学を一通り終えて一旦居間へ戻り揃って放心していた時だったのだ。
レイとの楽しい話を終えておやすみの挨拶を交わした三人は、無言の譲り合いの結果、六部屋の中の一番広い部屋にタキスを押し込み、その左右の部屋をニコスとギードが使う事にした。
控えていた執事達にはニコスが何か言ってくれたらしく、少なくとも自分の部屋には執事達が入ってくる事はなく、密かに安堵のため息をもらしたギードだった。
一方部屋に入ったタキスは、二人の執事に世話を焼かれて本気で泣きそうになっていた。
半ば逃げ込むようにして湯殿へ入ったら当然のようについて来られ、ここの世話は必要ありませんと何度も必死に断り、執事を湯殿から追い出したのだった。
持ってきた着替えではなく準備されていた絹の夜着に袖を通して湯殿を出ると、ソファーの横には、当たり前のように冷えたお茶とナッツと干し葡萄、白ワインとカットされたチーズの並んだ皿が用意されていた。
これは、どちらでも好きな方を飲んで食べても良いという事らしい。
もう開き直って白ワインの栓を開けてもらい、あとは休むだけなので世話は必要ないと断って二人の執事を部屋から追い出し、一人でワインとチーズを楽しんだタキスだった。
気分はやけ酒だったが、冷えた白ワインは最高に美味しかった。
タキスを主賓が泊まる部屋に押し込んだニコスは、隣の部屋にギードが入るのを見てから、控えていた執事にギードには世話は必要無いので部屋に入らなくていい事と、主賓であるタキスも過度な世話は必要無いので、対応は最低限でお願いしますと頼んでおいた。
その後に、もちろん自分にも世話は必要ありません。ですがせっかくですので、客としての自由な時間を楽しませていただきます。と苦笑いしながら告げると、執事達も苦笑いしながら頷いてくれた。
だがその際に、これもせっかくの機会ですから世話をされる側の気分を体験してみるのも良いのでは? と言われて、必死になって断ったニコスだった。
とにかく部屋に入って一通り部屋の中を確認したニコスは、まずは湯を使った。
湯から上がって用意されていた絹の夜着に袖を通して部屋に戻ると、湯を使う前には無かったワゴンがテーブルの横に置かれていて、そこには冷えたお茶とナッツと干し葡萄、白ワインとカットされたチーズの並んだ皿が用意されていて、思わず吹き出す。
まあ、いくら世話は必要ないと断っていても、間違いなく部屋の様子は常に確認されているだろうから、この程度の事をしてくれるのは当然だろう。
笑いながら自分で白ワインの栓を開けて、少し考えてグラスを二つ用意した。
ソファーに座って二つのグラスに少量のワインを注ぐ。
一つを手に取り、もう一つのグラスにごく軽く当ててから定番の乾杯の言葉を呟く。
「若様、まさか貴方がお泊まりになられたのと同じ宿の部屋に私が賓客として泊まる日が来ようとは……本当に、人生何が起こるか分からぬものですね。いやあ、長生きはするものですね」
まるで目の前にその人がいるかのように笑顔でそう話しかけてから一息にワインを飲み干したニコスは、一つ深呼吸をしてからもう一つのグラスのワインを今度は味わうようにゆっくりと飲み干した。
「貴方のお好きだった白ワインは、今日もとても美味しいですよ」
閉じたその目から一粒だけこぼれ落ちたの涙を見たのは、ソファーの背に並んで座っていたシルフ達だけだった。




