ニーカ
白の塔で、診察とマッサージを終えたルークは、第二部隊の者達と遅い昼食を取った後、ニーカのいる入院棟に来ていた。
最初はマイリーがほぼ毎週来ていたのだが、仏頂面で連絡事項を伝えるだけのマイリーを怖がるニーカに配慮して、退院以来ルークが中心になって、若竜三人組と交代で定期的に面会に来ているのだ。
これには、タガルノ人であるニーカの監視も兼ねているのだ。
最初の頃は頑なだった彼女も、怪我が治ってくるに従って少しずつだが素直な面も見せるようになっていた。
「あの子が、飛行訓練を始めたんですか?」
病室に備え付けの椅子に座り机に向かって文字の稽古をしていたニーカは、ベッドの横のソファに座ったルークの言葉に、嬉しそうにそう言って顔を上げた。
「ここに来る前に、シヴァ将軍に確認したら、昨日から翼を広げて滑空する稽古を始めたらしいよ。かなり元気になってるみたいだ。それで、少し飛べたもんだから気を良くして、今からニーカのいるオルダムまで行くって言い出して大騒ぎだったらしいぞ。幾ら何でもさすがにそれは無茶だって」
笑いながら話すルークを見て、ニーカも少し照れたように笑って頷いた。
その笑顔は、以前国境でガンディに抱き上げられて泣き喚いていた時とは別人の様な、年相応の幼い笑顔だった。
「良かったな。もうすぐ会えるぞ」
その言葉に、ニーカは俯いて小さく頷いた。
「あの……」
「うん? どうした?」
言い淀むニーカを見て、できるだけ何気ない声でルークは返事をしてやった。
「あの子、これからどうなるんですか?」
ルークは、それを聞いて内心安堵していた。ようやく彼女も、自分の周りの事や、これから先に関心を持てる程度には余裕が出て来たようだった。
「やっとそれを聞いたな」
ルークがそう言って笑うと、弾かれたようにニーカは顔を上げた。何か言いかけたが、無言で縋るように自分を見つめるニーカにルークは肩を竦めた。
「ニーカは、元気になってここを退院したら、女神オフィーリアの神殿に見習い巫女として住み込みで勤める事になってる。それは聞いてるだろ?」
頷く彼女を見て、ルークは手元の報告書を閉じた。
「クロサイトは、ニーカが落ち着いたら、その神殿付きの精霊竜として勤める事になる予定だ。あの子は水の精霊との相性が良いらしくて、水を呼ぶ事が出来るみたいなんだよ。神殿では水は絶対に必要だから、水を呼ぶ事の出来る精霊竜が来てくれるなら大歓迎だって、皆喜んでるよ」
「……水を、呼ぶ?」
意味が分からなくて、ニーカは首を傾げた。
「ああそっか、それも知らないんだな。ええとな……精霊竜は、その名の通り精霊達と共に大きくなっていく。これは以前教えただろう?」
「はい、精霊達ときょう……せい、して、その精霊と同じ種類の精霊魔法を使えるようになるんだって聞きました」
「それは共棲、共に暮らすって意味の言葉だ。精霊魔法の種類は覚えた?」
「えっと……火と水、風、土……あと一つ、あ! 光ですね」
「よく出来ました。それでクロサイトは今のところ、風と水に特に良い反応を示しているんだって。恐らくあの竜は水の属性を持ってるんだろうな」
「水の属性……?」
勉強など一度もした事の無い彼女には、教えられた事を覚えるだけで精一杯だった。
「そう。精霊竜は火、水、風、土のどれかの属性を持っている。どの属性を持っているかによって得意な精霊魔法が違うんだよ。それがクロサイトは水だった、って訳」
「水を呼ぶというのは、どういう意味ですか?」
「言葉の通りさ。どこにいても水脈を呼んで来て、水を湧かせる事が出来るんだ。クロサイトの場合は、神殿付きになるから、神殿内の井戸や泉の水を枯れないように管理して、水を綺麗に、豊かに保つ事が仕事になる訳だ」
「精霊竜には、そんな事が出来るんですか?」
急に立ち上がって大きな声で彼女が叫ぶように言い、その声に驚いた廊下にいた監視の兵士が、扉を開けて中を覗き込んだ。
「ああ、大丈夫だ。問題無いよ」
振り返ったルークが笑ってそう言うと、兵士は敬礼して扉を閉めた。
「ほら座って。どうしたそんな急に大声出して」
「精霊竜には、精霊竜には水を湧かす事が出来る力があるんですか!」
「まあ、全員じゃ無いけどな。水や土の属性を持つ竜なら間違い無く出来るぞ」
泣きそうな顔で、彼女はさらに質問した。
「例えば、水の無い砂漠や岩場でも?」
「もちろん出来るぞ。って言うか、水の精霊魔法が出来れば水を呼べるよ。軍隊では、遠征の時に水の属性の精霊魔法使いを必ず連れて行くのはその為だぞ。どこにいても水の確保は重要だからな」
「あんなに、あんなに皆……苦労してるのに……どうして……」
俯いたニーカは、声も無く泣き始めた。俯いたその目から、涙の粒が膝にこぼれて小さな染みを作った。
それを黙って見ていたルークは、立ち上がってニーカの側に行くと、涙を拭いてやった。
「その涙は、タガルノにいる仲間たちの為か?」
「仲間なんかじゃありません! あいつら、私に……」
服の胸元を握りしめたまま俯いた彼女は、涙で濡れた服の裾を見ながら小さな声で言った。
「私が働いていた農場では、水が少なくてとても苦労したんです。少しでも日照りが続けば、作物が枯れてしまう事もしょっちゅうだったし、嵐が来たら全部流されて一から全てやり直しでした。裏では水を巡って争い合って、殺し合いになる事だってあったんです」
ルークは、蒼の森で見た見事な畑を思い出していた。十年かかってあそこまで開拓したと言っていた。もしそれが一度の嵐で根こそぎ無くなったら……他人事の自分でさえ、考えただけで挫けそうになった。
「水が必ずあるだけで、どれだけ皆が助かるか。それなのに、それなのに……どうして猊下は精霊竜をあれ程に虐待するんですか! 大きいだけの役に立たない生き物だと言って、誰もろくな世話もしていませんでした。そんな事無いのに……」
絞り出すようなニーカの言葉を、ルークは黙って聞いていた。
彼女が、タガルノでの事を自分から話したのはこれが初めてだった。
タガルノが竜を虐待して殺している事は報告書などで知ってはいたが、実際に暮らしていた者の口から語られる言葉は、重みが違った。
「それは俺達だって知りたいよ。竜程に優しくて献身的な生き物はいない。ましてや自分の主を竜がどれだけ大切にするか、ニーカだって知ってるだろ?」
まだ涙を浮かべたまま、ニーカは小さく頷いた。
「今なら分かります。あの国はおかしいって。まるで、精霊竜の事を憎んでいるみたい。どうしてなんですか。あの国にいる竜達が、何をしたって言うの?」
「この話は、これ以上しても答えは出ないよ。今はそう考えてくれるようになっただけで良い事にしよう」
立ち上がってニーカの肩を叩いたルークは、ソファに戻った。
外してあった剣を腰に戻すと、持って来た鞄から小さな袋を取り出して振り返った。
「これはお見舞い。あとで食べてね。それじゃあ俺はもう帰るよ」
ニーカの前にしゃがんで、小さな包みを手渡した。中には、ルークお勧めの甘いお菓子が入っている。
「どんどん考えると良い。そして、今みたいに疑問に思った事があれば、近くの人に聞いてみて。良いね、君はまだ、殆ど何も知らない。だけどそれは、今から知っていけば良いだけだからね。クロサイトの為にも、早く元気にならないとな」
「はい……ありがとうございました」
包みを捧げるように持って、ニーカは頭を下げた。
「また来るよ。歩行訓練、頑張ってね」
笑って軽く言ってやると、顔を上げたニーカも、泣きながら手を振って小さく笑った。
部屋を出て、扉を閉めたルークは、小さなため息を吐いた。
「ご苦労様。それじゃあ帰るから引き続きよろしくな」
扉の前で警護に当たっていた第四部隊の兵士二人に声を掛けると、ルークはそのまま報告書を手に、歩いて本部へ戻って行った。
「やりきれないよな」
暮れ初めて赤くなった空を見ながら、ルークはもう一度大きなため息を吐いた。
「そうか、ご苦労様」
報告書を受け取ったマイリーは、それに目を通しながらため息を吐いた。
「報告書で知ってはいるが、実際に暮らしていた者から聞く話は、なんと言うか……強烈だな」
「あの子、向こうでは相当酷い扱いを受けてたみたいですね」
俯いたルークの言葉に、マイリーはちらりと横目で見て肩を竦めた。
「検査した医師に、妊娠の心配は無いと言われたぞ。それがせめてもの救いだな」
「それって……」
「他の奴らには言うなよ。これに関しては、俺達に出来る事は無い」
無言で頷いて、もう一度大きなため息を吐いた。
「なんて言うか、やりきれませんね。ええ、俺は何も聞いてませんよ」
「早く会わせてやりたいな」
報告書にサインをしながらそう言ったマイリーの言葉に、ルークも心の底から同意した。
愛しい存在と共にいられれば、いつかは心の傷も癒えるだろう。
彼女が立ち直った時にどんな世の中になっているのか、平和な日常を守るという、自分達に課せられた責任の重さを、ルークは痛感していた。
大量の肉を持って帰ったレイ達は、翌日から早速下拵えに掛かっていた。今回は肉の量が以前よりも多いので、下拵えも大変だった。
レイは皆に教えてもらって、大きな肉の塊に砂糖や塩をせっせと揉み込んだ。
数日かけて、加工する肉全ての下拵えが済むと、今度は塩抜きの作業が待っているのだ。
綺麗な流水に肉を浸して余計な塩分を抜く。これはウィンディーネ達が交代で管理してくれたから、レイ達は何もしなくて良い。
日常の家畜や騎竜達の世話をして、畑に残っている物を全部収穫して保存する。
また時間を作っては、格闘訓練や棒術の訓練、天気の良い日には林で走る訓練も毎日行っていた。
結局、今回は大量の肉が全部庫内に入らなくて、薫製肉も二日に分けて加工したのだった。
レイの大好きな、挽肉で作った肉団子も、大量に作って保存された。
普段は作らないソーセージも、今回はニコスが作ると言うので、レイは大喜びで手伝った。
あっと言う間に日々は過ぎ去り、気が付けば、八の月はとうに終わって九の月も半ばを過ぎていた。
「何時になるんでしょうね、レイが王都へ出発するのは……」
その夜、レイがおやすみを言って部屋に戻った後、三人は、頂いた三十年もののウイスキーを片手に、のんびりと酒盛りをしていた。
どうしても話題は、迫って来るその日の事になるのは仕方が無かった。
「まあ、その内に何か言って来るだろう。あの子がいなくなると、寂しくなるな……」
無言になった三人は、黙ったままそれぞれの酒を口にした。
「でも考えたら、たったの一年なんだよな。あの子がここに来てから。それなのに、もう、あの子がいなかった時にどうやって時間を過ごしていたのか、覚えてないよ」
苦笑いしながら、ニコスが呟いたその言葉に、二人も同じように苦笑いしながら大きく頷いた。
「あの子にとっては、激動の一年でしたね。これから先、どんな人生が待っているんでしょうか?」
グラスを見つめながら呟いたタキスの言葉に、ニコスが顔を上げた。
「それでも、生きていれば案外なんとかなるよな」
「そうじゃな。それだけは分かっておる」
ギードも同意するように頷いた。
「寂しくなるな……」
「そうじゃな……」
また無言になった三人を、机の上のチーズに座ったウィンディーネ達がつまらなさそうに見つめていた。




