不安と決意
『ニーカ泣かないで』
綿兎のひざ掛けを抱きしめ顔を埋めて小さくしゃくり上げていたニーカの右肩に、クロサイトの使いのシルフが現れてそう言って耳元にそっとキスを贈る。
『顔を上げてよニーカ』
『頬にキスが出来ないよ』
「う、うん……ちょっとだけ、ちょっとだけ待って。今だけよ。今だけだから……」
『大好きだよニーカ』
『何があっても僕が一緒にいるからね』
『だから泣かないで』
「うん、ありがとうスマイリー。私も、私も大好きよ」
真っ赤な目をしたニーカは、それでもそう言って顔を上げた。
「泣くのは今日で終わりにする。私は、私を守ってくれたこの国に、私に出来るかたちで恩返しをするの。スマイリー、手伝ってくれる?」
『もちろんだよ』
『ニーカがそう考えるなら僕も頑張る』
『頑張ってたくさんの事を覚えて』
『この国に御恩を返さないとね』
大きく頷いたクロサイトの使いのシルフは、笑顔でそう言ってニーカの頬にそっとキスを贈った。
「うん、ありがとうね。スマイリーは頼りになるわね」
まだ目は潤んでいるが笑顔でそう言ったニーカは、クロサイトの使いのシルフにそっとキスを返した。
「あ! ねえ、きっと今の私って泣いてひどい顔になっているわよね。うわあ、どうしよう」
今更気づいたかのようにそう言ったニーカは、慌てたように袖で目元をこすった。
『ああ駄目だよ』
『そんな事をしたらもっと赤くなっちゃう』
『ほら上を向いて』
『手当てはウィンディーネ達に任せてね』
笑ったクロサイトの使いのシルフは、そう言ってそっとニーカの肩を押して背もたれにもたれさせると、何人ものウィンディーネ達を呼んでニーカの目の周りを冷やすように命じる。
笑顔で頷いたウィンディーネ達が、命じられた通りにニーカの目元を冷やし始めた。
「うん、ありがとう。とても気持ちいいわ……」
目を閉じて顔を上に向けたニーカの呟きに、笑ったウィンディーネ達が彼女の赤くなった目元に次々にキスを贈った。
ひんやりとした水の膜がニーカの目元を覆い、赤くなって腫れた目元を急速に冷やしていく。
一の郭を抜けてお城の前の道を通った馬車が竜騎士隊の本部へ着く頃には、腫れていたニーカの目元は、無事にほぼいつも通りに戻っていたのだった。
「ニーカ様、間もなく竜騎士隊の本部に到着いたします」
気遣うようなグレッグの声が聞こえて、背もたれに体重を預けて上を向いたままぼんやりとしていたニーカは慌てて起き上がった。
「は、はい! 大丈夫です!」
咄嗟にそう答えてから自分の返事に呆れてしまう。
「何が大丈夫です! よね。はあ、やっぱり不安しかないわ」
大きなため息を吐いて、ちょっと涙の跡がシミになったひざ掛けを見る。
「ウィンディーネ、このひざ掛けを綺麗にしてもらえる? 私、ちょっと汚しちゃったみたい」
苦笑いしながらそう言うと、先ほどとは違って一人だけウィンディーネが現れて膝掛けに座ると、涙の跡の残る膝掛けをそっと撫でた。
一瞬だけ膝掛け全体が水に包まれ、瞬時に元に戻る。
もうその時には、涙の跡も、シワの一つもなくふわふわの綺麗な膝掛けに戻っていた。
「ありがとうね。これで証拠隠滅だね」
そう言ってそっと膝掛けを撫でてから、もう一度膝掛けに顔を埋める。
でも、その顔はもうさっきまでとは違って泣いていない。
しばらくじっとしていたが、膝掛けから顔を上げてから目を閉じて大きく深呼吸をした。
しっかりと顔を上げて背筋を伸ばした彼女は、カーテンが閉まった窓を見て、カーテンの隙間から外をそっと覗いた。
「ああ、本当だわ。もう竜騎士隊の建物が見えてきたわね。あそこがこれから、私のお家になるんだよ。凄いなあ……私、本当に大丈夫かしらね」
小さく笑って、綿兎の膝掛けを折りたたんでから抱きしめる。
「でも、きっと良い事もあるよね。それに、スマイリーとはいつでも会えるようになったもんね」
『そうだね』
『ニーカが近くに来てくれて僕も嬉しいよ』
目を細めたクロサイトの使いのシルフの言葉に、笑顔のニーカも大きく頷く。
そのままゆっくりゆっくりと進んでいた馬車だったが、小さな段差を乗り越えるようなごく軽い衝撃の後に止まった。
止まったという事は、竜騎士隊の本部に到着したという事だ。
「とうとう、到着しちゃったわ……」
不安そうにそう呟き、口を開けてもう一度深呼吸をしたニーカは、右手をそっと胸元に当てた。
ドキドキと心臓が早鐘のように鳴っている。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
自分に言い聞かせるように、何度も大丈夫と呟くニーカをクロサイトの使いのシルフが心配そうに見つめている。
そのまま息を潜めて座ってじっとしていると、ノックの音が聞こえた。
「ニーカ様、竜騎士隊本部へ到着いたしました。失礼いたします」
グレッグの声と共に、ゆっくりと馬車の扉が開かれる。
ごくりと小さく唾を飲み込んだニーカは、扉が完全に開くのを待ってから震える足を踏み出してゆっくりと馬車の外へ出て行ったのだった。
「間もなくニーカ様が到着なさるとの事です」
無事に贈り物選びを終えたレイ達が一旦休憩室へ戻って一息ついたところで、執事の言葉に全員が顔を上げる。
少し前にアルス皇子がジャスミンを伴って休憩室へ来たので、これで本当に全員集合だ。
「では、出迎えに行くとしようか」
笑ったアルス皇子の言葉に、隣に座っていたジャスミンも笑顔で立ち上がる。
今の彼女は、ふんわりとした可愛らしい薄紅色のドレスを着ていて、長い髪は、太い三つ編みにして綺麗に結い上げてある。首元には、寒くないように真っ白でふわふわな襟巻きが巻かれている。
アルス皇子に手を引かれて階段を降りるジャスミンは、やや緊張した面持ちだがずっと笑顔だ。
すぐ後ろを歩くレイを何度も振り返っては、揃って笑顔で頷き合っていたのだった。
「うわあ、外は寒いですね」
「本当だ。寒い!」
正面玄関から外へ出たところで、吹き付けてきた冷たい風にジャスミンとレイが揃ってそう言い、二人揃って肩をすくめる。
『大丈夫? ジャスミン』
『寒いなら中で待っていてもいいのよ?』
目の前に現れた愛しい竜の使いのシルフの言葉に、ジャスミンは笑顔で頷く。
「大丈夫よ。せっかくなんだから一番にお出迎えしたいもの」
笑顔でそう言い、両手を温めるように握り合わせる。
『温めてあげて』
ルチルの言葉に応えるかのように火蜥蜴が現れてジャスミンの襟巻きの中へ潜り込む。
「あら、暖かくなったわ。ありがとうねコロナ」
嬉しそうにそう言って笑ったジャスミンは、襟巻きに手を入れて暖まりながら顔を上げた。
広い道を公爵家の紋章の入った馬車がこちらへ向かって進んでくるのが見えて、ジャスミンは思わず声を上げた。
「ああ、あの馬車がそうね」
整列した竜騎士達も、近付いてくる大きな馬車を見て、皆も笑顔になる。
「いよいよだね。ここでのニーカの新しい生活が始まるんだよ」
レイも笑顔でそう呟くと、胸元に潜り込んで温めてくれている火蜥蜴をそっと撫でてやったのだった。
それぞれの竜の使いのシルフ達も皆現れていて、それぞれの主の側で近づいてくる馬車を笑顔で見つめていたのだった。




