赤ちゃんとカウリ
「はあ、安心したら……腰が抜けたかも……」
張り切った看護婦達が、さあ赤ちゃんを抱いてくださいと言おうとしたところで見たのは、小さな声でそう呟き、ベッドの縁に縋りつくようにしてへなへなと床に崩れ落ちて座り込んでしまったカウリの姿だった。
一礼して部屋に入ってきた執事達が、先ほどまでカウリが座っていた椅子を持って駆け寄ってきて助け起こしたカウリをまたそこに座らせてくれる。
「チェルシー……あ、もしかして、寝た?」
椅子に座って何度か深呼吸をしてようやく落ち着いたカウリは、改めてチェルシーを覗き込んで声を掛けたのだが、彼女が静かな寝息を立てているのに気がついて慌てて口を押さえて小声でそう呟いた。
「何しろ、丸一日がかりの命懸けの大仕事を終えられたのですからね。まずはゆっくりお休みいただかないと」
笑って赤ちゃんをおくるみごと抱き上げた年配の看護婦は、笑顔でカウリの前にそっと差し出した。
「どうぞ抱いてあげてくださいませ。珠のような姫君様ですよ」
「い、いや、俺は……」
今まで、同僚や部下に子供が産まれてお祝いに駆けつけたことは何度もあるし、生後半年程度の赤ちゃんなら抱かせてもらった事はある。だが、さすがに産まれたての首も座っていない赤ちゃんを抱いた経験はカウリにはない。
「大丈夫ですよ。抱く時に後頭部に手を当てて支えてあげて、抱く時には肘のあたりに頭をのせてあげるんです。ほら、こんな感じですわ」
笑顔でベッドに戻した赤ちゃんをもう一度実際にゆっくりと抱き上げて見本を見せてくれたので、一つ深呼吸をしてから小さく頷いたカウリは、またベッドに戻された赤ちゃんにおずおずと手を差し出して、見よう見真似でなんとかぎこちないながらも抱き上げた。
よく眠っている赤ちゃんは、抱き上げられても全くの無抵抗だ。
「うおお、なんかぐにゃぐにゃだぞ。こ、これで良いっすか?」
「はい、初めてにしてはお上手ですよ」
見守ってくれていた年配の看護婦に笑顔でそう言われて、カウリは腕の中で眠る小さな命を見つめた。
なんとも言えない、たまらない愛おしさが込み上げてくるのを感じたカウリは、ゆっくりと深呼吸をしてから口を開いた。
「ようこそ、赤ちゃん。こんな、俺みたいな男のところへ産まれてきてくれて、ありがとうな。チェルシーの事も、君の事も大切にするよ。これからよろしくな」
小さくそう呟いたカウリは、腕の中で無防備に眠る赤ちゃんの小さな額に、そっと想いを込めたキスを贈ったのだった。
用意されていたとても小さなベッドに、先ほどの年配の看護婦に言われて赤ちゃんを戻したカウリは、よく眠っている赤ちゃんとチェルシーを交互に見てから安堵のため息を吐いた。
それから、ずっと付き添っていてくれたエレーナ先生をはじめとした看護婦の人達やメイド達に、順番にお礼を言って頭を下げた。
本当にお世話になりました。これからもチェルシーと赤ん坊の事をよろしくお願いします。と。
この屋敷の主人であり、現役の竜騎士であるカウリからの丁寧な感謝の言葉に、皆恐縮しつつも揃って、お任せください! と笑顔で請け負ってくれたのだった。
白の塔から派遣されていた薬師と看護婦達も、しばらくは交代でここにいてくれるのだと聞き、改めてお礼を言ったカウリだった。
「ところで旦那様。お食事の用意が出来ておりますが、いかがなさいますか? こちらでお召し上がりになるのでしたらお運び致しますが?」
お礼の挨拶が一段落したのを見た年配の執事が、一礼してカウリにそう話しかける。
「お、おう食事か。確かに腹減ってるなあ……ええと、今って……」
我に返ったようにそう言って部屋を見回す。いくつもの灯が灯された部屋の中は真昼のように明るい。
少し考えたカウリは、南側の窓を見て、そこへ歩いて行った。
今は分厚いカーテンが引かれているそれを手に取り、少しだけ隙間を開けて外を見る。
「あれ? 今って夜……? ええ? 俺って夜会が終わったところで知らせを聞いて駆けつけてきたんだぞ。それで今が夜って……?」
一人混乱するカウリを見て、軽い咳払いをした年配の執事が笑顔で教えてくれた。
「旦那様。今は夜で、先ほど十点鐘の鐘が鳴っておりました。奥方様は、丸一日かかってお嬢様を出産なさったのです。旦那様もずっと丸一日付き添っておられました。途中、何度かお食事だとお声をかけさせていただいたのですが、旦那様は首を振るだけで一切お食事をなさいませんでしたので、カナエ草のお茶だけはご用意させていただきました」
確かに途中で何度か、どうぞ飲んでくださいと言われて、少し冷めたカナエ草のお茶を飲んだ覚えがある。
そして確かに言われた通り、全く食事をした覚えがなくて無言で老執事を見つめる。
「……丸一日って……マジ?」
「はい、マジでございます」
大真面目にそう言って一礼した老執事を見て、もう一度無言になったカウリは堪えきれないように笑い出した。
「あぁあ、今日は出なきゃいけない会議があったんだけど、無断欠勤ですっぽかしちまったなあ。だけどまあこれは許されるよな。多分、誰か代理で出てくれているだろうさ」
大きなため息を一つ吐いて笑いながらそう呟くと、黙って控えている老執事を見た。
「ここで食べると皆の邪魔になりそうだから、食事はいつもの部屋でいただくよ。その前に、本部に報告だけしておくからよろしく」
そう言って、続きになった隣の部屋に移動するカウリを見た老執事は、にっこりと笑って深々と一礼したのだった。
熟睡しているチェルシーと、それから同じく熟睡している赤ちゃんの周りでは、呼びもしないのに集まってきたシルフ達が、先を争うようにしてそれぞれの額や鼻先に祝福のキスを贈っていたのだった。




