アルカーシュの民と精霊達
ようやく、人目のない部屋に入った時、レイは大きなため息をついて、手前にあった椅子に縋るようにして座り込んだ。
「人目には慣れてもらうしかない。覚悟しておけよ、竜騎士には常に人目があるぞ」
マイリーにそう言われて何とか頷いたが、レイにとっては、自分を見ている人がこんなに大勢いる状態というのは生まれて初めての事だ。
ここに来るだけで、もう既に疲れ切っていた。
「お疲れ様でした。お茶とお菓子をどうぞ」
執事が運んできてくれたお茶をとにかく一口飲んだ。それから改めて座り直す。
そっと隣に置かれたお菓子は、また見た事が無いものだった。
「これはなんですか?」
パイのようだが、間に何か挟まっている。
「これはリンゴのパイ。真ん中に甘く煮た林檎が入ってる。美味しいから食べてごらん」
右隣に座ったルークが、小さな声で教えてくれた。
頷いて、ナイフで小さく切って口に入れてみる。サクサクとした歯ざわりと、柔らかく煮た甘い林檎が絶妙だった。
「美味しいです」
満面の笑みでそう言うと、左側に座ったタキスも頷いていた。
「焼きたてのパイは、本当に美味しいですね」
顔を見合わせて笑い合った。もう一口お茶を飲んで、後は夢中で食べた。
大満足で顔を上げると、向かいでマイリーの隣に座って笑顔で自分を見ているガンディと目が合った。
「気に入ったか?」
彼の前にも林檎のパイが置いてあるが、手はつけられていない。
「ならこれも食べてくれ。儂は甘いものは苦手でな」
「えっと……」
とても魅力的なお誘いだが、貰って良いのだろうか。
思わずタキスを見ると、彼は笑ってガンディのお皿を取ってくれた。
「貴方はまだ未成年ですから、まあ、これは許されますよ」
「ありがとうございます!」
二皿目もぺろりと平らげたレイを見て、ルークとマイリーは苦笑いしていた。
「しっかり食べろ、育ち盛り」
ルークに背中を叩かれて、レイは大きく頷いた。
その時、マイリーの肩にシルフが現れて座った。
「ああ、ご苦労様。うん、分かった。それで良い。監視を続けてくれ」
シルフがいなくなると、また現れて座った。それぞれに簡単な指示を出しているマイリーを見ていると、次々に現れたシルフは合計六人になった。
「……忙しそうだね」
残りのお茶を飲みながら、小さな声で隣のタキスに言うと彼も小さく頷いた。
「昨日から、シルフの数が一気に多くなっています。何かあったんでしょうか?」
「気にする事は無い。仕事中毒の男じゃからな。暇だと死んでしまうそうじゃ」
笑みを含んだガンディの言葉に、二人は小さく吹き出した。
「師匠、幾ら何でもそれは酷いですよ」
「皆に言われておるわ。彼奴は女性より仕事と添い遂げておるとな」
「酷いですね。俺の伴侶はアンジーですよ」
顔を上げたマイリーが反論するのを聞いて、レイはそれは意味が違うんじゃ無いかと思ったが、賢明な事に口を噤んでいた。
「どちらにしても、人として問題があると思うのは儂だけか?」
「何か問題が有りますか?」
心底不思議そうに尋ねるマイリーは、どうやら本気で言っているようだ。
ルークとレイは、必死で笑うのを堪えていた。
「あらあら、相変わらず貴方は情緒に問題があるわね」
優しげな女性の声が後ろから聞こえて、レイは思わず座り直した。しかし、その声はマティルダ様の声では無い。
下を見たレイの視界の端に、声の主の靴が見えた。しかし、それはレイが履いているのと変わらない形の、革製のブーツだ。
女性の声だったはずだが、他に男性もいるのだろうか。
思わず振り返ったレイが見たのは、長い金髪をタドラのように後ろで一つに括った背の高い男装の女性だった。
「おお、カナシア様。言ってやってくだされ」
顔を上げたガンディが笑いながらそう言うのを聞いて、レイは納得した。どうやら、ルークが言っていたアルス皇子の親戚だという女性らしい。
「お前は表情筋を少しは使え。笑い方を覚えてるか?」
からかうように笑いながら、ルークの隣に座った。
その女性は、確かに聞いていた通りに男性と同じような服装をしていて、腰には、細いが剣も見える。
「その子だね。噂の古竜の主は」
ルークの左腕を突きながら優しげに笑うその女性は、男装とは言えとても魅力的に見えた。
「痛いです、カナシア様。左腕は、やめてくださいって」
慌てて少し離れたルークを見て、彼女は笑って謝っていた。
「えっと、はじめまして。レイルズ・グレアムです」
なんて言って良いのか分からなかったので、とりあえず普通に自己紹介してみた。
「ああよろしく。カナシア・レスティナだ。カナシアで良いよ。古竜の主」
「はじめまして。タルキス・ランディアと申します。どうぞタキスとお呼びください」
レイに続いてタキスの手を握ったカナシア様は、真剣な顔でタキスを見つめた。
「貴方がエイベル様のお父上ですね。話はガンディから聞きました。どうか、我ら人間の貴方に対する酷い仕打ちに心からの謝罪を」
「もう、十分に謝罪は頂きました。これ以上は必要ありません。どうかお気になさらず」
首を振って笑うとレイの頭を撫でた。笑ったレイが、タキスの頬にキスするのを女性は黙って見ていた。
それからガンディを見て、彼が頷くのを見て、もうそれ以上何も言わなかった。
それからしばらく、カナシア様も加わって少し話をした。
女性と話をするなんて、何を話したら良いのか全く分からなくて不安なレイだったが、しばらくすると、その不安はすっかり無くなっていた。
巧みな話術で、レイの緊張をあっと言う間に解いてしまったカナシア様は、すっかりレイと仲良くなっていた。
「な、俺達が皆好きだって言った意味、分かったろ?」
ルークに言われて、レイは笑って頷いたのだった。
「あれ?カナシア、抜け駆けは感心しないよ」
アルス皇子の声に、皆立ち上がった、レイも慌てて立ち上がる。
彼の後ろには、マティルダ様ともう一人、竜人が立っていた。
その男性の竜人は自分一人で立てないらしく、杖を持ち、両側を第二部隊の兵士が支えていた。
「まあ、私を置いてパイを食べるなんて許せなくてよ」
カナシアの前に置かれた食べたばかりのお皿を見て、彼女は笑ってレイの背中を叩いた。
「えっと、とっても美味しかったです!」
慌ててそう言うと、何故か全員から笑われた。
アルス皇子と並んで向かいに座ったマティルダ様は、自分の隣に座った竜人を紹介してくれた。
「今日は、彼を貴方達に会わせたかったの。彼はアルファン……アルカーシュの、元住民よ」
レイとタキスが驚いたように彼を見た。
その人物は、タキスやガンディよりも明らかに年配に見えた。茶色い髪には白いものが混ざり、皺の寄った優しげな顔だったが、その左の目は白く濁っていた。恐らくもう何も見えてはいないのだろう。
「はじめまして。アルファンと申します」
ゆっくりと話す少し嗄れたその声は、森の大爺を思い出させた。
「マティルダ様からの久し振りのお誘いで、何事かと思えば、まさか、今になってハルディオのペンダントを持つものが現れるとは……長生きはするものですな」
レイは、胸元から木彫りの竜のペンダントを取り出した。
「えっと、出てきてくれるかな」
話しかけてみたが、ペンダントは沈黙したままだった。
「見せて頂いてもよろしいですかな」
差し出された右手に、レイは頷いて首から外したペンダントを乗せた。
「お懐かしい……巫女姫様のペンダントだ……」
泣きそうな声でそう呟いたアルファンは、左手でそっとペンダントを包み込むようにして、顔を上げると静かに歌いはじめた。
初めて聞く、その物悲しく哀愁漂う歌声は、静まり返った部屋に染み込むように消えていった。
『懐かしき歌声』
『懐かしき歌声』
『此は如何に』
いつもの三人の光の精霊達が現れた。
「おお、まさか今になってまたお会い出来るとは。お懐かしや。私を覚えておられますか?」
光の精霊達に話しかけるその声は、消えそうな程に小さく震えていた。そして、右手に乗せられたペンダントは、いつの間にか銀細工の竜の姿に変わっていた。
『懐かしや』
『懐かしや』
『かの人の大切な友』
光の精霊達は、嬉しそうに彼の周りを飛び回り、しばらくするとレイの元に戻って来た。
『かの人の息子よ』
『今こそ時は来たれり』
『我らの記憶を其方に』
ペンダントから、あと二人の光の精霊が飛び出してきて輪に加わった。
そして、アルファンの指輪から現れた二人の光の精霊も、その後を追って輪に加わった。
光の精霊が見える者達は、皆、驚きのあまり無言でその光景を見ていた。
『太古の友よ出でよ』
『今こそ時は来たれり』
『共に参ろうぞ』
ペンダントから、突然、ものすごい光が部屋中にあふれた。
皆、目を抑えて声にならない悲鳴をあげる。
危険を感じたマイリーとアルス皇子が、咄嗟にマティルダ様とカナシア様を抱きしめて机の下に伏せたのは、殆ど同時だった。
ペンダントから出てきたのは、あと二人の、更に大きな光の精霊と、同じく大きな二人のシルフだった。
『新たな主人に祝福を』
『我らの主人に祝福あれ』
『かの人の息子よ』
『時は来たれり』
四人の精霊は、そう言いながらレイの元に飛んでくると、そのまま身体に当たって不意に消えてしまった。続いて輪になっていた光の精霊達も、次々とレイの体に当たって解けるようにいなくなった
次の瞬間、硬直したレイは悲鳴を上げて椅子から転がり落ちた。
「レイ!」
タキスが飛びついて抱きしめたが、その時にはもうレイの意識は無かった。
「レイ!しっかりして!」
悲鳴のような声で何度も名前を呼び頬を叩く。しかし、レイはぐったりと脱力したまま何の反応も無い。
それを見て、ガンディも慌てて駆け寄って来た。
何事かと扉を開けた第二部隊の兵士に、ルークはとにかく誰も入れないように指示して扉を閉めさせた。
マイリーとアルス皇子が、二人を抱きしめたままゆっくりと机の下から起き上がったが、彼らの表情は真剣そのものだった。
「ガンディ、いったい今のは何だ」
「何があった?」
二人の問いに、ガンディは首を振った。
「しばしお待ちを。恐らく今のレイは精霊達の支配を受けております。無理に起こすのは危険です」
そう言って、意識の無いレイをとにかく壁際に置かれた大きなソファに寝かせた。
アルファンは、椅子に座ったまま全く動けずにいた。
「まさか……まさか、本当に……あの方がそうなのか?」
何度もそう呟きながら、呆然と手にした銀細工のペンダントを見つめていた。




