それぞれの想い
「……まあ、俺なんかに何が出来るかって話なんですけどね」
ごく小さな声でそう呟いたアンフィーだったが、顔を上げたところで全員が笑顔で自分を見つめているのにようやく気が付き、唐突に耳まで真っ赤になった。
「うああ、俺みたいな無学者が偉そうな事を申しました! し、失礼しました〜!」
慌てたようにそう叫んで、テーブルに両手をついて突っ伏すようにして勢いよく頭を下げる。
ガツン!
額とテーブルがぶち当たる鈍い音が居間に響き渡り、呻き声を上げたアンフィーが額を押さえて起き上がってそのままずり落ちるようにして椅子から転がり落ちる。
「ちょっと、アンフィー! 大丈夫?」
「大丈夫ですか!」
慌てたレイがそう叫んで立ち上がったのと、タキスが立ち上がってアンフィーに駆け寄るのはほぼ同時だった。
「うう、大丈夫です……ちょっと、目の前に星が散りましたけど……」
床に座り込んだまま、タキスに抱えられたアンフィーはそう言って吹き出してしまう。
「あはは、慣れない事なんて言うもんじゃあありませんね。イタタ」
額を両手で抑えたアンフィーは、誤魔化すようにそう言って笑いながら立ち上がって椅子に座った。
「ちょっと見せてください。ああ、少し腫れていますねえ。これはまた豪快にぶつけましたね」
手を外させたアンフィーの額を覗き込んだタキスが苦笑いしながらそう言い、そっと額に手を当てる。
「ちょっと熱を持っていますね。湿布を取ってきます」
笑ってそう言い、足早に居間を出ていく。
「ああ、申し訳ありません! あの、大丈夫ですって!」
立ち上がってタキスの後を追って出ていくアンフィーの後ろ姿を見送り、居間に残されたレイ達は揃って顔を見合わせてから吹き出して大笑いになったのだった。
「お騒がせいたしました」
額に大きな湿布を貼ったアンフィーとタキスが戻ってきたところで、ちょうど二杯目のウイスキーをグラスに注いでいたギードがアンフィーを見た。
「アンフィーよ、ありがとうな。我ながら情けないわい。年下のお前さんにまで心配されておったとはなあ」
大きなため息と共にゆっくりとウイスキーを口にしたギードは、そう言ってアンフィーのグラスにも新しいウイスキーを注いだ。
「まあ、ワシには鉱山の管理という仕事があるでここから離れる気はないが、それを言うならお前さん達の方が、先程のアンフィーの言葉は当てはまるのではないか? うん?」
横目でタキスとニコスを順番に見たギードは、もう一度大きなため息を吐いてから残りのウイスキーを一息に飲み干した。
「いやあ、さすがの四十年ものだなあ。味わいと香りがほんに桁違いよのう」
しみじみとそう言ったギードは、レイを見て持っていたグラスを掲げた。
「なあレイ、ワシらは皆、本当にお前さんには感謝しておる。もう一度生きてみても良いのだと、生きたいと思っても良いのだと、お前さんは我らの目の前で、健やかに育つ事でそれを教えてくれた。それがどれ程に有り難く稀有なものであるか、きっとお前さんには分からぬであろうな」
泣きそうな顔で、それでも笑いながらそう言ったギードの言葉に、タキスとニコスも目を閉じて無言で頷く。
「確かにそうだな。俺も、文字通り蒼竜様とタキス達に拾ってもらったこの命の使い方を見出せないままに、ここでただぼんやりと時を重ねていた。だけど、レイが来てくれて……俺は、健やかに育つ命がこれほどに愛しいものだった事を思い出せた。辛くて悲しくて、全部忘れてしまいたかった若様との思い出も、今なら胸の痛みもなく思い出せるよ。ありがとう、レイ」
穏やかに笑ったニコスがそう言って、手にしていたグラスをレイに向かって掲げた。
「だけど俺は、もう今更街へ行く気にはなれないなあ。ここの、全部自分の考えで動ける自由さを知ってしまったら、あの決まり事だらけの世界へ戻りたいとは思わないよ」
何か言いかけたレイはニコスのその言葉に眉を寄せて口を尖らせた。
「ええ、僕はその決まり事だらけの世界にいるんだけどなあ。経験豊富な先輩の助けを求めていま〜す」
笑ったレイの言葉にニコスが吹き出し、遅れて黙って聞いていたマイリー達も吹き出した。
「何を言ってるんだよ。お前さんの周りには経験豊富な素晴らしい方々が大勢おられるじゃあないか。俺如きの出番なんて無いって」
笑って首を振るニコスに、何か言いたげにしていたマイリー達だったが、黙って手にしていたグラスを掲げた。
「私も、元はと言えば死に場所を求めてここへ彷徨い込んだ死に損ないですからね。何しろ一番最初にこの森へ転がり込んで、ここに住み始めたのは私ですから」
しみじみとその言葉に、慌てたように口を開きかけたマイリー達を見たタキスは、にっこりと笑って首を振った。
「でも、そんな私もレイの存在に助けられました。結果として長年の誤解が解け、失ったと思っていた息子も取り戻す事が出来ました。そして師匠との縁もね。今となっては、不便な事や危険な事も多いけれども、何ものにも束縛されない自由で豊かなこの森での生活を心から楽しんでいますよ。確かに今更あそこへ、あんな窮屈な場所へ帰れと言われたら、絶対にごめんですと、丁重にお断りしますねえ」
実際にそう言ってガンディからの誘いを断っているタキスは、苦笑いしながらそう言ってマイリー達を振り返った。
「それぞれにわがままなのは承知しています。ですがもう我々は一度、舞台から降りて新たな場所、つまりここで生きる事を選んだ者達です。マイリー様、ルーク様、カウリ様。どうぞ、我々では見せてやる事の出来ない広い世界を、この子に見せてあげてください。そこで何を学び、何を得て、そして何を失うか。どうぞそれを見届けてやってください」
マイリー達に深々と頭を下げたタキスは、顔を上げて隣に座るレイを見た。まるで眩しいものを見るかのように目を細めて。
「ねえレイ。どうか覚えていてください。嬉しい事と悲しく辛い事、出会いと別れ、それら全てが人生そのものなのですよ。時に耐え難いほどの何かを失う事だってあるでしょう。死んだ方がいいと思えるような事だって、これから先あるかもしれません。そんな時に、貴方の側にいられたらと思わないと言えば嘘になります。貴方が辛い時には側で慰めてあげたい。貴方が嬉しい時には一番近くで一緒に喜びたい。家族なら誰しも思う事です」
手を伸ばしたタキスは、自分を見つめるレイの頬をそっと撫でた。
「でもね、私達は貴方を一人オルダムへ寄越してここで暮らす事を選びました。毎日雪かきをして、騎竜や家畜達の世話をして、春になれば畑を耕し森へ行って木を切り薪を割って、森で採取したキリルのジャムを炊いて、そんな風に大地と共に、森と共に生きる事を選んだんです。愛していますよ。私の、私達の愛しい息子。これから先、もしも貴方が……」
一瞬口をつぐんでギードを見たタキスは、改めてレイを正面から見つめた。
「以前、貴方がここから旅立った時にギードが言った言葉を覚えていますか? もしも貴方が世界中を敵に回し、石もて追われるような事になったとしても、無条件で貴方の味方をする者が、ここに三人いる事をその時には思い出してくれって。その言葉はその想いは今も変わっていませんよ」
笑顔でそう言ってレイを抱きしめる。
レイは、目を閉じたまま何度も頷きながら、自分よりもはるかに小さくなったタキスを抱きしめ返したのだった。




