涙と祈り
『人の子の世界に、彼の物語を流布させたのは我だよ。正確には、我が命じてドライアードに人の姿を模倣させ、吟遊詩人として歌わせたのだよ。せめて、彼が生きた証を人の世界に残したかったのだ。我の我儘だよ。だが、其方が知っておるという事は、どうやら誰ぞが書物として書いてくれたおかげで正しく後々まで残ったようだな。重畳重畳』
満足気にそう言って頷くように上下する大爺の瘤の目を見て、それからレイは呆然と頭上にいるブルーを見上げた。
「ねえ……ブルー、今の話に出てきた、その彼って……オスプ少年、だよ、ね……?」
消え入りそうなレイの言葉を聞いたブルーが、目を閉じてゆっくりと頷く。
「今の大爺の話を聞く限り、まあそう考えて間違い無かろう」
静かに話すブルーの言葉を、レイはもう驚きのあまり声も出せずにただただ聞いている事しか出来ないでいた。
『今でも後悔しておる。精霊界へ行った人間は二度と元の世界へ戻れぬ事。そして人の子と同化して死んだ精霊の魂は、砕けて形を失い二度と元の姿には戻れぬ事。それらを彼に教えたのは我だ。我が、彼にそれらを教えなければ、彼が冥王を内に抱いたまま遠い異郷の地で死を選ぶ事もなかったであろうに』
「だが、結果としてはその彼のおかげで冥王は魂の器を失い、実質、人の住むこの世界どころか精霊界への手出しも出来なくなった訳だから、大した大手柄ではないか。どれほど弔い慰撫してやったとしても過ぎる事はあるまい。彼の魂が安らかであるよう。我も祈らせてもらおう」
優しいブルーの声に、目を閉じた大爺の瘤はゆっくりと上下する。
『そうだな。確かにこれも一つの、めでたしめでたし……なのであろうな』
その時、黙って聞いてたレイの目から涙の雫が転がり落ち、膝に小さなしみを作った。
『何故に其方が泣くのだ?』
優しい大爺の声に、流れる涙を拭いもせずにレイが顔を上げる。
「大爺が大爺が泣かないからだよ!」
レイの泣きながらの叫ぶような答えが静かな草地に響く。
「だって、だってそんなの……そんなの悲しすぎるよ。生きる目的が死ぬ事だったなんて! それに僕だって、僕だってその彼が守ってくれた世界で何も知らずに生きていたんだもん、泣くくらい……泣くくらいさせてよ……」
「泣くでない。レイ」
ブルーが蕩けるような優しい声でそう言い、レイの前に大きな顔を下ろしてそっと頬擦りする。
無言のままその顔に抱きついたレイは、しばらくの間ブルーに額を擦り付けるようにしてじっとしていた。
ブルーはレイが落ち着くまでの間、ずっとそのまま静かに喉を鳴らしていたのだった。
「ごめんね。もう大丈夫だよ。ブルー。慰めてくれてありがとう」
ようやく顔を上げたレイの目にはもう涙は無く、すぐに現れたウィンディーネ達が涙に濡れた頬を綺麗にしてくれた。
「ありがとうね。姫」
消えて行くウィンディーネ達にもお礼を言ってから、大爺の目を見る。
「大切な人の事を話してくれてありがとう大爺。次に精霊王の神殿へ行った時には、彼にも心を込めて祈らせてもらいます。この世界を守ってくださり、ありがとうございますって」
少し照れたように、そう言って笑うレイの言葉に大爺の目が嬉しそうに上下する。
『彼の為に泣いてくれて感謝する。主殿が彼の事を覚えていてくれれば、我も嬉しい。さて、ずいぶんと時が過ぎてしもうたようだな。暗くなる前に戻りなされ。道に迷う事あらばいつなりと参られるが良い。主殿の為の扉は常に開いておりますからな』
優しいその言葉にもう一度笑顔でお礼を言ったレイは、立ち上がって膝掛けを軽く払ってから畳んだ。
「じゃあ帰ろうか。ブルー」
「ああ、そうだな。確かにかなりの時間が過ぎてしもうたようだ」
笑ったブルーがそう言って伏せてくれたので、レイは軽く膝を曲げて飛び上がった。その際にシルフ達にお願いして、ひとっ飛びしただけで、高いブルーの背の上へ立つ事が出来た。
『ほうほう。これはまた器用な事を。成る程成る程。もうシルフ達を完全に制御下に置いておるのか。これは素晴らしい』
ブルーの背の上から笑顔でこっちを見下ろすレイを見上げた大爺の目は、そのままゆっくりと上昇してレイのすぐ側まで上がって来た。
『精霊達と仲良くするが良い。皆、主殿のお役に立とうと張り切っておるぞ』
からかうようなその言葉に、レイも笑って大きく頷く。
「うん、僕も皆の事が大好きだよ」
無邪気なその答えに、大爺の目はゆっくりと上下してそのままま戻って行った。
それを見たブルーが大きく翼を広げて上昇する。
頭上を覆い隠していた木々の枝がゆっくりと動いて開き、ブルーの巨大な体が通れるまで広がる。
「うむ、ではまた会おう。眠りの邪魔をしてすまなんだな。大爺よ」
ブルーの声に、下から低い笑い声が聞こえた。
『ああ、おやすみ』
「ああ、おやすみ」
笑ったブルーがそう答えると、軽く翼を羽ばたかせてその場を離れて飛び去って行った。
「うわあ、もうこんな時間だったんだね。ほら見て! すっごく綺麗な夕日だよ。御使いの梯子が綺麗に見えるね」
レイが指差す西の空には地平線の辺りに固まった雲があり、ちょうど沈みかけた太陽と重なって見事な御使いの梯子の光を雲間から四方へと輝かせていたのだ。
「ああ、確かに綺麗だな」
ブルーも首を回して西の空を見てそう答える。
「ねえ、ちょっとだけ待ってくれる。陽が沈むのを見ていたい」
レイの言葉にブルーがその場に留まる。
「綺麗だね……」
刻々と変わりゆく夕日と空の色を、レイは一言だけそう言ったきり、ずっと無言のままで見つめていたのだった。




