もう一人の英雄の生涯
『翌年、雪が溶け始めた頃に彼は戻って来た。大勢の兵隊を引き連れてな』
絶句するレイを見て、大爺の目はゆっくりと少し下がって空を見上げた。木々の隙間から、真っ青な空が垣間見える。
『当然、森を守る精霊達は激怒した』
無言で頷くレイの頭上では、ブルーも無言のまま小さく頷く。
『通常であれば、霧を発生させて、人の子を迷わせてしまえばよい』
『いくら歩いても、森へは入らぬように道を閉じる事など、我らには容易。なれど……なれど向こうには、我が友と呼んだほどの強い精霊使いがいた』
悲しむかのように低い声でそう言った大爺は、また目を閉じて沈黙した。
今度はレイも黙ったまま、大爺が再び口を開くのを待った。
『ああ、すまぬ……』
しばらくして、目を瞬いた大爺はもう一度空を見上げてからレイを見た。
『彼はこう言った。シルフ俺を殺せ、と』
「ええ! だって、大爺とお友達になって死ぬのはやめたのでしょう?」
目を見開くレイの言葉に、大爺の目がゆっくりと左右に振られる。
『彼は、人の子の世界へ戻ったが捕らえられ、冬中奴隷として扱われていたそうだ』
「彼を捕らえたその罪状は何だ。千年前であろうとも、少なくとも捕らえる以上理由があろう」
何か言いたげなブルーの言葉に、大爺の目がまた閉じられる。
『反逆罪で一族もろとも処刑された筈が、その幼い息子だけが生き残っておった故、見つけ次第捕らえよとの時の王より命令が下されていた為よ。そのものには目印となる痣があった。しかし、捕らえられた彼は何故か処刑される事無く、奴隷として働かされておったのだ』
「反逆罪で、幼い息子だけが生き残って……痣があって、それで最後は奴隷に?」
大爺の言葉を繰り返したレイが、今度は沈黙する。
「それって……それって、もう一人の英雄の生涯のお話に出てくる、オスプ少年と同じだね」
思い出した笑顔のレイの言葉に、大爺の大きな目がゆっくりと上下する。
もう一人の英雄の生涯とは、去年の降誕祭の贈り物としてアルジェント卿から頂いた全部で十二冊にもなる精霊王と闇の冥王の戦いを描いた長編の物語だ。
レイが愛読している精霊王の物語が常に精霊王の生まれ変わりとなった彼の、成長と共に変化する考え方や視点で描かれるのに対し、もう一人の英雄の生涯は、群像劇と呼ばれる天からの視線で描かれた物語だ。
時には一つの事象を複数の場所で同時進行でそれぞれ立場の人達の様子を書き、また時には固定の人物による視点の部分だけを書く、かなり読み手にも技術が求められる複雑な物語だ。
この全十二巻に及ぶ長大な物語を、レイはもう複数回読み返している。
最初、物語の中心として描かれる少年の名はオスプ・クーリタス。てっきりこのオスプ少年が闇の冥王の生まれ変わりなのだと思っていたレイだったが、物語の中盤辺りまで話が進んだ頃に、誦んじるほどに読み返した精霊王の物語と話の内容とに、いくつか齟齬があるのに気付き始める。
精霊王の物語の中に何度も登場する冥王の生まれ変わりとされる人物には、実はその名前も含めて具体的な描写があまり無いのだが、昏きお方、あるいはただ単に若君、などと呼ばれる間違いなく貴族の若者だ。
精霊王の物語の終盤の頃には、冥王の生まれ変わりとされる人物は人の世界を捨てて闇の眷属達と共に荒地へと移動するので、なおさら冥王の生まれ変わりの人物の外見の描写が無い。
精霊王の生まれ変わりの少年と同い年のオスプ少年が、冥王の生まれ変わりの貴族だとするのはかなり無理がある。
精霊王の物語だけを読んでいた時には分からなかったが、もう一人の英雄の生涯を読めば分かる。その辺りの具体的な描写が無いのは、実はわざとなのだ。
違和感を抱えたまま読み進めて、終盤近くになった頃にようやくその謎が解ける。
てっきり人の子として生まれ変わったと思っていた闇の冥王は、実は血肉を持たない存在としてこの世界に来ていたのだ。それは人ではなく精霊に近い存在として。
そうして必要に応じてその時々に合わせて宿主となる人間を換え、裏から操り、最後には時の王さえも支配して裏からも表からも、そして闇の精霊を通じて精霊界からも闇の眷属を呼び出して世界を混乱に陥れ、精霊王を追い詰めて行く。
オスプ少年は、その闇の冥王の宿主の候補の一人として、産まれた時から闇の眷属達から密かに目をつけられていた人のうちの一人だったのだ。
しかし、彼の両親が処刑されて家は取り潰されてしまった為に、いわば役立たずとして放逐された状態になっていたのだ。
荒廃していく世界で何度も死ぬ思いをしながらも何とか生き延びたオスプ少年は、物語終盤に、奴隷出身の冒険者で精霊魔法を使う青年となって再登場する。
偶然仲良くなった光の精霊達から自分に課せられたその事実を知り、一度だけ幼い頃に闇の冥王が街から逃げる際に自分の体を使われた事も聞かされ、絶望したオスプ青年は密かにある決意をする。
そして物語の終盤、闇の冥王を封印するための宝石を精霊王から密かに託されて逃げるシャーリーとヘミングの二人を追う闇の眷属達を追いかけ、密かに戦い裏から二人を守り通したのだ。
そして、何も知らない二人が教えられた場所に無事に宝石を収め、闇の冥王が地下深くに封印されて世界に平和が訪れる。
闇の眷属が全て消え去り歓喜に沸く街を見届けてから後に、再びその場へ赴いたオスプ青年は、何故か封印の宝石を砕いてしまい冥王の封印を解いてしまう。
歓喜した冥王がオスプ青年に同化した瞬間、彼は精霊界への扉を開き、人の子として世界を渡ってこの世界から消えてしまう。
精霊界へ行った人間は、二度と元の世界へ戻って来られない。
そして、人の子と同化して死んだ精霊の魂はもう二度と元の姿には戻れない。
この二つの変えられない世界の理を光の精霊達から聞いて知っていたオスプ青年は、精霊界へ渡った直後に自ら命を絶ち、永遠に冥王の魂をこの世から消し去ってしまったのだ。
彼の死を悼み嘆き悲しんだ精霊達が流した涙はいつまでも枯れる事は無く、精霊界に葬られた彼の墓の横に現れた悲しみの泉の水源となり、いつまでも彼の為の癒しの水を流し続けているのだと最後に書かれていた。
『我は、彼を殺せなかった。精霊達も、彼を殺せなかった。彼は、ならばもうよいと言うて、その場にいた精霊達の助けを借りて、百をゆうに超す軍人達と一人で戦い、見事に勝利を収めて見せた。だがその後に彼は我にこう言った。殺せと言ったのに何故殺さなかったのだ、とな』
「ええ、そんな……」
絶句するレイに、大爺はゆっくりと首を振った。
『彼は言うた。自分が生きていては、いずれ闇の冥王の片棒を担ぐ事になるから、だから今すぐに殺せ、とな』
「それって、物語の、一場面の、お話……だよ、ね?」
彼の言葉が示す意味に気づいたレイが真っ青になりながらそう尋ねるのを、大爺の目が瞬きもせずに黙って見つめていたのだった。




