昔語りの始まり
「えっと、お待たせ大爺。食事終わったよ」
ニコスが用意してくれたお弁当をかけらも残さずに綺麗に平らげたレイは、もう一口カナエ草のお茶を飲んでから、使っていた包みをきちんと畳んでベルトの小物入れに押し込んだ。
立ち上がって膝掛けを軽く払って手に持ち、改めてすぐ横に来てくれたブルーの大きな前脚に座り直して膝掛けを広げた。
少しひんやりと寒かったが、頼みもしないのに火の守り役の火蜥蜴が出てきてするりと胸元に潜り込んでくれた。すぐにほんのりと胸元が暖まり始め、体の芯から指の先まであっという間に暖かくなる。
「いつもありがとうね。おかげで暖かくなったよ」
そっと胸元を押さえて話しかけるように小さくそう呟き、頭上にいる大爺の目の瘤を見上げた。
『ふむ、久方振りに懐かしいものを見せてもろうたわい。もう腹はくちくなったのか?』
ゆっくりと大爺の目が、レイの正面まで降りてくる。
「うん、お待たせしました。もうお腹一杯です」
無邪気に答えるレイの言葉に、大爺は大きな目を細めて頷くかのようにゆっくりと上下した。
『さて、どこから話せばよいかのう……あれはまだ、大地に人の子が、今の半分ほどにもおらぬ時代じゃ。はて……どれくらい前に、なるかのう……』
ゆっくりと目を閉じた大爺の瘤がそう呟いてそのまま動かなくなり、それっきり草地に沈黙が落ちる。
「えっと、大爺、大丈夫?」
急に黙り込んでしまった大爺を見て、どこか具合が悪くなったのかとレイが慌てて身を乗り出して話し掛ける。
『お、おう……すまぬすまぬ。ついつい思考の流れに身を任せてしまうところであった。すまぬすまぬ』
レイの呼びかけに不意に目を開いた大爺の目は、面白がるようにゆっくりと笑いながらレイのすぐ前まで来て留まった。
『はるか昔の出来事じゃ。まだその頃には、其方の祖国であるファンラーゼンはおろか、その前身となる三つの国さえも未だ確定しておらなんだ、そんな混沌とした時代であった。そうさな……』
そこまで話した大爺は、ゆっくりとレイの背後に座るブルーの巨体を見上げた。
『其方の伴侶である蒼き竜の子が、この世界へ生まれ落ちた頃合いかのう』
その言葉に、レイが思わず目を見開いて振り返るように身体をねじってブルーを見る。
『ふむ、ならばそれは一千年を余裕で超える昔という事になるなあ』
面白がるようなブルーの言葉にレイは半ば呆然と頷き、改めて大爺を見上げた。
「えっと、僕には見当もつかないくらいの昔の話なんですね。その頃って、この蒼の森はどんな風だったの?」
興味津々でそう尋ねるレイの言葉に、大爺は面白そうに低い声でゆっくりと笑った。
『人の子には、一千年は、それほどの年月であるか……』
『この深き森は、何が起ころうと変わりはせぬ。まあ、あの頃に比べれば、森の樹々は少々、大きゅうなっておるが、この蒼の森の存在意義自体は、何ら、変わりはせぬ』
意味深な大爺の言葉に、聞いていたレイが眉を寄せて考える。
「ええ、一千年も前なら、森の樹の大きさは少々なんて程度じゃあないと思うけどなあ。大爺と人間の僕とでは、時間の感覚も違うのかな?」
面白がるように笑って小さくそう呟きそれから首を傾げた。
「えっと、ねえブルー。今の大爺の話に出てきた、蒼の森の存在意義って? それってどういう意味なの? 単に木の実が沢山成るとか、動物が沢山いるとかって、そんな話じゃあないよね?」
無邪気ながら的を射た質問に、聞いていたブルーが喉を鳴らす。
『ふむ、それを其方に説明するのは少々骨が折れるのう。この森は、まだ森の木々の最初の一本が、それこそ其方の背丈よりも小さい若木であった頃から、精霊王より大事な役割を与えられておる』
静かなブルーの言葉に、またレイが目を見開く。
『其方が大好きな精霊王の物語。あれが語られるよりもはるか昔からこの森は今と変わらぬ姿でここにあり、精霊王より賜りし聖なる役割を果たし続けておる』
「えっと、それって……ギードが以前言っていた、この森の深部には危険な扉があるって、あのお話?」
『ふむ、よく覚えておったな。まあその話も全くの無関係ではないな』
面白がるようなブルーの言葉に、戸惑いつつも頷いて大爺を見上げる。
「えっと話がそれちゃったね。ごめんなさい。それじゃあ、すっごくすっごく昔のお話なんですね」
『ふむ。まあそうだな。その頃には、今のような、安定した大きな国は、ほぼ無く、仮に、誰ぞが勝手に名乗りを上げ、それに従う者達と、幾許かの土地あらば、それだけで国を名乗れる。そのような、いわば、物語にあるが如き、群雄割拠の、何もかもが若き時代であった』
ゆっくりと大爺が話すのを聞きながら、レイはそんな世界での人の暮らしとは一体どんな風なんだろうと、夢中になって頭の中で考えていた。
『そんな折に、一人の人間が、この蒼の森の深部へと、迷い込んで来た……』
『この森は古の昔より、我が結界と、精霊達の結界によって、強く強く守られた、封印されし場所』
『森に住む其方の家族以上に、その者も、強き力を秘めた、なれど知識を持たぬ、幼き精霊使いであった』
目を閉じて懐かしむようにゆっくりと話す大爺の言葉を、ブルーの腕に座ったレイは夢中になって聞いている。
『常ならば、この森の深部に迷い込んだ人の子は、精霊達が、都度追い出してくれる。だが、その者は、強き力を秘めていた故に、精霊達の術にかからなんだ』
『つまり、森の至る所に仕掛けた、罠も、幻術も、そして精霊達の直接の邪魔にさえ気付かず素通りして、その者はここに至った』
『まさに今、其方がおる場所に、あの者も座っておった』
「ええ、シルフ達の案内も無しに、部外者がこの森の深部に入ったの? その人は凄い人だったんだね」
この森の精霊達の力を知るレイの感心したような言葉に、大爺も低い声で笑って同意を示す。
『其方の言う通りよ。まさに、あの者の持つ力は、とつてもなく大きく、そして強かった。だが、彼はそれを……望んだ力では無いと言うて、忌避し、憎んでさえおった』
驚くレイに、大爺の目は黙って頷くかのようにゆっくりと上下する。
彼らの頭上では、集まって来ていた大勢のシルフ達や光の精霊達が、草地や木々の合間からは、ウィンディーネや火蜥蜴達、そしてドライアード達までもが何か言いたげにしつつも、大爺と仲良く話をするレイの事を黙ったままで見つめていたのだった。




