怒りと恐怖
『何よ相変わらずの怒りん坊達』
『ちょっと早起きしたくらいで怒らないでちょうだい』
そう言いながら小さな腕を組んで口を尖らせる森の乙女と呼ばれた古代種のシルフを見て、レイは驚きのあまり言葉が出ない。
先程、シャーリーとヘミングを上の草原へ連れ出してくれた時の彼女はとても優しい笑顔で、体が他の子達よりも大きい事以外は、ほとんどいつもの見慣れているシルフと変わりは無かった。無いように思えた。
しかし今、目の前にいるその彼女はまるで別人のようだ。
先ほどまでの穏やかで優しげな表情ではなく、明らかに怒り苛ついているようにさえ見えた。
「別に怒っておるわけではない」
そう言いながらも明らかに怒った口調のブルーの言葉に、森の乙女と呼ばれた古代種のシルフは行儀悪く鼻で笑った。
「だが、本来ならばまだ眠っておるはずの其方が何故に目を覚ました。何かあったのか?」
大きなため息を吐いたブルーが、少し口調を変えてそう問いかける。
『何かあったのかはこちらの台詞よ。蒼き古竜。其方の目は節穴か?』
「我の目が節穴とな? これは聞き捨てならぬ事を言う」
また明らかに怒った声でブルーがそう言い、レイは思わず声を掛けそうになって慌てて口をつぐんだ。
何故かは分からないが、邪魔をしてはいけない気がしたのだ。
『節穴でなくて何とする?』
『目の前で異変の兆しが見えておると言うに』
『何故に其方が気付かぬ?』
嘲るようなその言葉にブルーの目が見開かれる。ブルーの足元で頭上を見上げていたレイの目も、その言葉に驚いて目を見開いていた。
「目の前の異変と、そう申すか?」
低い、低いブルーの声が静かな草地に響く。
『気付かぬのか』
『それとも気付いておるのに気付かぬ振りをしておるのか』
『さて……どちらであろうなあ?』
明らかに煽るようにそう言った時、古代種のシルフの様子が激変した。
それはあの、アルジェント卿のお屋敷の離れにいた陣取り盤の精霊がうっかり姿を現したのをレイに見られ、勝負がしたいだけだと言って舌なめずりをした途端に様子が変わった時のあれに似ていた。
『おかしいではないか』
突然、その声までもが全く変わってまるでひび割れた大鐘のようになり、圧倒するような強い口調でブルーに言い放った。
『要石である其方が』
『これほどの異変に気付かぬ訳はあるまい』
『精霊王より賜りし聖なる己が務めを』
『あるじ可愛さ故に放棄するつもりではあるまいなあ?』
『そのような勝手決して許さぬ!』
『決して許さぬぞ!』
『甘えるのも大概にせよ!』
森の乙女のあの小さな姿が、突然ブルーと同じかそれ以上にまで大きく感じられて圧倒されてしまい、思わずその場に腰を抜かしたように座り込んでしまい、早鐘のように鳴る自分の心臓と上手く呼吸が出来なくて必死になって息を吸う自分の喉の音を、レイは他人事のように聞いていた。
そしてその視線は、頭上で口論をするブルーと森の乙女に釘付けになっていた。
「古竜である我を侮辱するか!」
その時、それまで黙って彼女の言葉を聞いていたブルーが、突然に大声で怒鳴った。
まるで何かが爆発したかのようなその怒鳴り声が草地いっぱいに響き渡る。
その大声にレイは文字通り飛び上がり、なお一層その呼吸が早くなる。そのまま、まるでその場から逃げるかのように、座り込んだままずるずると後ろに下がった。
全身に鳥肌が立ち、体が小刻みに震えている。
怖い。
理由もなくそう思った。
あの、小さな姿の森の乙女がとてつもなく怖く感じた。
そして、怒りに震え、聞いた事の無いほどの大声を出すブルーも。
ここから逃げ出したい衝動に駆られたが恐怖のあまり動く事が出来ず、草地に倒れ込んで過呼吸を起こして目の前が真っ暗になりかけた時、何かが自分の背中を支えてくれたのを感じて必死になって消えそうになった意識を繋いだ。
『双方とも、やめんか!』
直後に地響きのような大爺の大声が響き、この草原と森いっぱいに広がっていた怒りの感情が一瞬で霧散していく。
『やめんか、この未熟者どもが。蒼き古竜よ。己が主を怯えさせて何とする!』
咎めるようなその強い口調の声の直後、大爺の瞳がレイを覗くように真上に来る。
『大丈夫か? 幼き人の子よ。ゆっくりと息をするがよい』
気遣うようなその低く優しい声になんとか息を整えたレイは、地面に手をついてゆっくりと起き上がり無言で頷く。
『恐ろしい思いをさせたな。本当にすまぬ』
『あれらの話は、人の子である其方にはちと理解の出来ぬ事であったかのう?』
苦笑いするかのような少し戯けたその大爺の言葉に、まだ震えていたレイも少し笑った。笑う事が出来た。
「す、すまぬ。レイよ、大丈夫か?」
その声に頭上を見ると、戸惑うようなブルーの視線と目が合った。
「ブルー……」
少し怯えたようなその声に、ブルーが大きく身震いをする。それは先程のレイと同じようにまるで本当に震えているように見えた。
「ブルー……」
レイは、震えながらもブルーの名前を呼んで右手を頭上に伸ばす。何故かは分からないがそうしなければならない気がしたのだ。
その小さな手に、首を伸ばしたブルーがそっと鼻先で触れる。そのブルーの様子は、普段の自信に満ちた様子とは違い、まるで怯えているようにすら見えた。
一つため息を吐いてゆっくりと立ち上がったレイは、両手を広げてその大きな頭に縋りついた。
「ごめんね。ちょっとびっくりしただけ。僕は大丈夫だよ。大好きだからね。ブルー」
言い聞かせるように、大きな頭に抱きついたレイの言葉を聞いて、目を閉じたブルーは大きな音で喉を鳴らし始めた。
そして、そんな仲睦まじいレイとブルーの様子を、森の乙女が真顔で見つめていたのだった。




