おはようございます
その朝、レイは空腹で目を覚ました。
しかし、目の前の見慣れぬ天井に、ここが何処だか思い出すのにしばらくの時間を要した。
「えっと、ここは王都オルダム……本当かな?」
ここへ来るまでの騒動が全く記憶のないレイには、いきなりそう言われても実感が無いのは仕方の無い事でもあった。
隣には、自分が寝ているベッドよりも一回り小さなベッドに、タキスが眠っていた。
起き上がって、自分の身体がちゃんと動く事を確認した。身体の痺れも、目眩も貧血も無い。
ゆっくりと部屋を見回してみて驚いた。居間と台所を全部合わせたよりも広い部屋だ。ベッドのある右側には大きな窓があり、窓の隣には戸棚があって、布が沢山積んであった。足元側と左側の壁に、それぞれ大きな扉がある。それらは今はどちらも閉じられている。
「よし、ちょっとだけ探検!」
ベッドから降りようとして気が付いた。
「えっと……靴が無いや」
覗き込んで足元を探すと、タキスが寝ているベッドの横にスリッパが二つ並んでいた。
「ええ、これじゃあお外に出られないよ」
しかし、これしか無いなら仕方あるまい。諦めてベッドから降りてスリッパを履いた。
そっと足音を立てないように静かに歩く。足元は綺麗に磨かれた見た事の無い石の床で、毛足の長い絨毯が大きく真ん中に敷かれていた。
「すごいや、絨毯がふかふかだ」
感心して足元を見ながら、とりあえず左側の扉の前に行ってみた。
後ろの窓から覗き込んだブルーが、楽しそうに動くレイを目で追っていた。
「開くかな?」
取っ手を掴んで押してみると、ゆっくりと扉が開いた。
ワクワクしながら外を覗き込むように首を出すと、すぐ近くに兵隊さんが立っていた。
兵隊さんと目が合ってしまい、驚いて咄嗟に声が出ない。
「えっと、おはよう……ございます」
なんと言って良いのか分からなくて、取り敢えず一番確実な朝の挨拶をする。
「おはようございます。すぐにドクターをお呼びしますので、申し訳ありませんがお部屋へお戻りください」
ニコリともせずにそう言って、扉を閉められてしまった。
「ええ、閉められちゃったよ。じゃあこっちは何かな?」
諦めずにもう一つの足元の方の扉に行ってみる。
「あ、こっちは洗面所とお風呂だ。うわあ、大きなお風呂!」
綺麗に掃除された浴室は使われた様子も無く、戸棚には柔らかな布が何枚も畳んで置かれていた。
すっかり夢中になって探検していると、突然部屋からタキスの声が聞こえた。
「レイ! 何処にいるんですか!」
慌てて扉をあけて顔を出した。
「えっと、おはようございます。目が覚めたから、探検して……」
いきなり駆け寄ってきたタキスに抱きしめられた。
「良かった……何処かへ行ってしまったかと思った」
縋り付くようなタキスの様子に、レイは力一杯抱きしめ返して額にキスをした。
「驚かせてごめんなさい。お腹空いて目が覚めたんだよ。それで、部屋の中がどんな風なのか見てたの。すごいよ、大きなお風呂がある」
「貴方って子は……」
笑ったタキスが手を離してくれたので、とりあえずベッドへ戻って座った。
「おはよう。もう動いても大丈夫なようだな」
窓から覗き込んだブルーの声に、レイは振り返った。
「おはようブルー。うん、もう大丈夫だよ。お腹空いた」
窓から差し込まれた大きな鼻面にキスをして抱きついた。
「ごめんね、心配かけて。それから、僕をここへ連れて来てくれたのはブルーなんでしょ。ありがとう。えっと、森から出ても大丈夫なの?」
「問題無い。レイのいる場所が我のいる場所だ」
元気になった身体にそっと頬擦りする。
ノックの音がして、白衣を着た数人の医者らしき人間と、背の高い白髪の竜人が部屋に入ってきた。
「おはようございます。どうやらすっかり回復されたようじゃな」
昨日、タキスの師匠だと言われた竜人だ。
「おはようございます」
「おはようございます師匠。レイがお腹が空いたそうですよ」
泣きそうな顔で笑いながら、タキスがそう言った。
「おお、それならもう大丈夫じゃな。朝食を持って参った故、顔を洗って来なさい。何なら浴室を使うか?」
ガンディの提案に、レイは自分の体を見た。
柔らかな医療用の服を着せられた身体は、何故かサラサラで全く不快感が無い。それに比べて、タキスは見覚えのある服を着て目の下は黒っぽくなっている。普段は艶々な髪の毛も心なしか絡まっているようだ。
「タキス、僕は良いからお風呂使わせてもらったら? 髪の毛絡まってるよ」
思わず絡まった毛を解きながらそう言うと、ガンディとタキスが同時に吹き出した。
「確かにそうだな。薬湯を使った彼と違って、其方はそう言えばそのままじゃな。湯を使って来ると良い。戻ったら食事にしよう」
お茶を入れながら笑ったガンディの提案に、タキスは躊躇っていたが、レイが笑って背中を叩くと頷いて浴室へ向かった。
タキスの背中を見送っていると、机にお茶を用意したガンディに呼ばれた。
「レイルズ殿、待っておる間にここへ来てお茶でも飲みなされ」
確かに喉も乾いていたので、返事をして席に着いた。目の前に、綺麗なカップに入ったお茶が置かれる。
「改めてよろしくな。ガンディじゃ」
「えっと、よろしくお願いします」
目の前に置かれたお茶は、綺麗な薄い色のお茶で良い香りがしている。
一口飲んで、あまりの苦味に吐きそうになった。
しかし、無言で慌てているレイを、ガンディは真剣な顔で黙って見ている。
とにかく吐き出すのはどう考えてもまずいので、苦くて辛い口の中のものを必死で飲み込んだ。
「よく飲んだな。口直しにこれを飲みなされ」
グラスに注がれたのは、ただの水に見える。しかしまた変な飲み物だったらどうしよう、そう思うと気軽に受け取れなかった。
しかし口の中は、舌が痺れるほどに苦い。
「大丈夫じゃ、これはただの水じゃよ」
「ウィンディーネ……?」
すると、グラスの縁にウィンディーネの姫が現れて、頷いて水面を叩いていなくなった。
それを見て、ようやく安心してグラスを手に取った。
ガンディは、ウィンディーネを簡単に呼んだレイを、心の中では驚きつつ黙って見つめていた。
大きく一口飲んで、もう一口飲む。グラスが空になる頃、ようやく痺れが取れた。
もう、目の前のカップに入れられたお茶を飲む気はしなかった。
躊躇うレイに、ガンディはこのお茶の意味を教える事にした。
「これは特別製のお茶でな。竜騎士達は皆、これを飲んでおる」
その言葉に驚いてガンディを見た。彼はまた、真剣な顔で自分を見つめていた。
「今回、其方が罹った竜熱症は、長年この国でも多くの死者を出す病であった。その原因である竜射線とそれに伴って特効薬が見つかり、今では死の病では無くなったが、カナエ草から作られたこのお茶と丸薬を一生飲み続けることが、唯一、病を発症させない方法なんじゃ」
「カナエ草って、苦草の事だよね……この、苦くてまずいお茶が特効薬?」
真剣な顔で頷くガンディに、レイは改めて目の前のお茶を手に取った。
香りは良い。いつも飲んでいるお茶よりも良いくらいだ。覚悟を決めて、少しだけ口に入れて一気に飲み込んだ。
「うう……やっぱり苦いよ」
情けない声でそう言うと机に突っ伏した。分かっていても、この苦味は慣れるものでは無い。
特に甘いものが好きで、まだ子供の口のレイには、これは相当な難敵だった。
「でも……これを飲まないと、ブルーといられないんだよね」
ガンディは無言で頷く。
「うん。頑張って飲みます。これって売ってるんですか?それとも、カナエ草があれば作れるものなの?」
ガンディは笑って、別のカップをもう一つレイの目の前に置いた。
「それでは今度はこれを飲んでみなされ」
これも覚悟を決めて口に入れ、ろくに味わわずに飲み込んだ。
「あれ? えっと……」
もう一口、今度はゆっくり味わって飲む。
「香りは同じなのに苦味がちょっとだけになった。これなら僕でも飲めます。ガンディ様、僕、こっちが良いです!」
残りを全部飲み干して、空になったカップを彼に見せながらレイは必死に頼んだ。あの苦いお茶は、出来る事なら飲みたくは無い。
「これならば、其方でも飲めるか?」
「はい、これなら飲めます!」
大きな声で返事をして、何度も頷いた。
ガンディは笑って頷いてくれた。
その時、湯を使って身綺麗になったタキスが浴室から戻って来た。
彼は見た事の無い、綺麗な白い服を着ている。
「師匠、服をご用意頂けたのは有難いですが、これは悪趣味なのでは?」
「どうして? よく似合ってるよ」
無邪気なレイの言葉に、タキスは笑うしかなかった。
今、彼が着ているのは、五十年前の白の塔の職員が着ていた医者用の白衣だった。
生地は新しいので、最近作られたものだろう、それを考えるとこれは明らかに師匠の仕業だ。
「それを着ている其方をもう一度見たかったんじゃよ。老い先短い年寄りの願いを無下にせんでくれ」
「誰が老い先短いんですか?そんな人物は、私の目の前にはいませんよ」
平然とタキスは言うと、空いた席に座った。彼の前にもお茶が出された。
「これはあのお茶ですね。頂きます」
当然、蜂蜜入りだと思って口に入れた。
「ゴフッ!」
咄嗟に吐き出しかけて口を塞ぐ。
レイとガンディは同時に吹き出した。
「師匠……子供みたいな事しないでください! って言うか、本当にお変わりありませんね」
手を叩き合っている二人を見て、タキスはもう笑うしかなかった。
ガンディは、仕事に関してはとても優秀だが頑固で気難しい事も多く、職員達からは恐れられていた。しかしお茶目で悪戯好きな一面があり、真面目なタキスは、いつもいい標的にされていたのだ。
「久しぶりに師匠の悪戯に引っかかりましたね。お願いですから蜂蜜入りの方をください」
水差しから水を汲みながら、タキスが呆れたように言った。
「ほれ、こっちが甘いお茶じゃ。冷たい方が良かろう」
そう言って、グラスに冷たいお茶を注いだ。
「ありがとうございます」
タキスがお茶を飲み終わると、タイミングよく、助手たちが食事を乗せたワゴンを運んで来た。
「とにかく食べよう、話はそれからじゃ」
ガンディの言葉に、机の上は、手早く片付けられてトレーに乗せられた食事が並んだ。
立ち上がって手伝おうとしたが、助手達に止められて、仕方なく席に座った。
「ほれ、どうぞお食べなされ。足りなければおかわりも有りますぞ」
頷いて、精霊王への祈りの後、食べ始めた。
パンはちょっと堅かったし、スープも味が濃かったが、どれも十分に美味しかった。
「ご馳走様でした!」
食べた事のない、赤い果汁たっぷりの果物まで食べて、レイは大満足だった。
食後に、出されたお茶も、あの苦草のお茶だった。
少し休憩の後、医師達から診察を受けて、もう大丈夫だと言ってもらった。
「大丈夫だって! これでお家に帰れるね」
振り返って嬉しそうに笑うレイに、タキスは言葉を返せなかった。
「どうしたの? タキス?」
無邪気な問いに、なんと答えたら良いのか戸惑っていると、ガンディがレイの前にしゃがんだ。
「その事じゃがな。其方に聞きたい事がある。後ほど時間をもらえるかの?」
「えっと、今じゃ駄目なの? まだ、畑仕事が沢山残ってるんだよ。早く帰らないと」
「畑仕事……」
ガンディも、この無邪気な若者に何と言ったら良いのか、言葉を探した。
「師匠、少し二人っきりにしていただけますか。レイと話をさせて下さい」
タキスの声は真剣で、レイは思わずタキスを見た。
「分かった、ゆっくり話すが良い」
立ち上がったガンディは、タキスの側へ行き、彼を抱きしめた。
「大丈夫じゃ。悪い様にはせぬ」
頷く彼の背を叩くと、一礼してガンディは部屋を出て行った。
「えっと……」
真剣な顔のタキスがレイの手を取った。引かれるままについて行き、窓辺のベッドに並んで座った。
窓の外からは、ブルーがすぐ近くでこっちを見ている。
「少し話しましょう。大事な話です」
レイの背中を撫でながら、タキスは口を開いた。
「貴方をここに預けようと思います。聞き分けてくれますか?」
「それって……」
告げられた言葉の意味が頭に入ってこない。
意味を理解した直後、レイの目から涙が溢れて膝を濡らした。
「僕、森へ帰れないの?」
「そ、そうでは有りません。ですが、貴方の為を思えばここにいるのが一番です」
「森のお家へ帰っちゃいけないの?」
涙を流しながら小さな声で言うレイを、タキスは抱きしめた。
「おい、いきなり話をそこから持っていくのは、いくらなんでも乱暴だぞ」
窓から呆れた様なブルーの声がして、レイは顔を上げた。
「タキス、ちゃんと全部話して! 隠さず、全部!」
涙は引っ込んでしまった。
抱きしめていた手を緩めると、タキスはため息を吐いた。
「すみません。私はどうにも口下手で……そうですね、ちゃんと話しましょう。その上で、貴方がどうしたいか決めましょう」
頬にキスすると、タキスは泣きそうな顔で笑った。
レイは、タキスが口を開くのを待った。




