出発前夜
「えっと、今夜の予定は聞いてないんですけど。何かありますか?」
このところ夜会への参加は数回だけで、ほとんど事務所で与えられた課題を解き続けていた。なのでそろそろまた夜会の参加があるのではないかと思っていたのだけれど、明日の早朝には出発となっているので、もしかしたらもう夜会の予定はないかもしれない。
レイは、少しだけ期待を込めてそう尋ねた。
「ああ、もう今日はゆっくりしてくれていいぞ。まあ、遠征前の最後の夜だからな。しっかり休んどけよ。出発したら帰って来るまで休みなしだからな」
「はい、それじゃあ部屋に戻って本でも読む事にします」
「相変わらず真面目だなあ。そこは一杯ひっかけるところじゃないのか?」
「あ、明日二日酔いになったら困るから、お酒は飲みません!」
焦ったようにそう言って首を振るレイを見て、ルークは笑ってレイの真っ赤な赤毛を突っついた。
「まあ、そりゃあそうだな。二日酔いでラプトルに乗ったら絶対鞍上で気分が悪くなって途中でゲロって大変な事になりそうだ」
ゲラゲラと笑うルークを見て、レイが膨れて見せる。
「ルーク、他人事だと思って面白がらない!」
「言うようになったなあ。良いぞ、その調子だ」
「何がその調子だ、ですか! もう、僕で遊ばないでください!」
廊下で楽しそうに言い合う二人を、ラスティは苦笑いしながら少し離れたところで控えていて、終わるのを黙って大人しく待っていてくれたのだった。
「はあ、何だか集中出来ないや。読書やめ!」
部屋に戻って、ソファーで適当な本を読み始めたのだが、全く集中する事が出来ずに早々に読書を諦めたレイは、小さなため息を吐いてクッションに顔を埋めた。
「ブルーいる?」
『ああ、ここにいるぞ』
抱えているクッションに、不意に現れたブルーのシルフがふわりと座る。
「僕、本当に大丈夫かなあ」
『おやおや、まだそんな事を言っておるのか?』
苦笑いしたブルーの言葉に、クッションを抱えたままレイは上目遣いでブルーのシルフを見た。
「そりゃあ、頑張って色々勉強したけどさ。それって全部机の上の話だよ。実際の現場なんて見た事も聞いた事もないのに、いきなりぶっつけ本番で指揮するって、そんなの絶対無理があると思う!」
拗ねたようなその言葉に、困ったように笑ったブルーのシルフも小さくため息を吐いた。
『まあ、明日と明後日は一日ラプトルに乗って行軍つまり移動するだけだよ。明後日には遠征訓練のための場所に到着だ。そこにまず本陣となる場所が作られる』
突然始まったブルーの説明に、慌てて起き上がったレイはクッションを抱えたまま真剣な表情で聞いている。
『そこから部隊単位での行動になるな。まあそこから何をするかは、其方の直属の上司となる人物が教えてくれるだろうさ』
真剣な表情でうんうんと頷いたレイは、もう一度ため息を吐いてクッションに顔を埋めた。
「結局、行った先で具体的に何をどんなふうにするのかは、実際に行ってみないと分からないって事だね」
『まあ、そういう事だ。だから今其方がそこで悩んでいても、答えは出ぬよ』
「うう、結局そうなんだよね。考えても答えはないって分かってても、それでも考えちゃうんだよ」
もう一度ため息を吐いたレイは、勢いをつけて起き上がった。
「ちょっとだけ、天体望遠鏡を覗いてみようっと」
気分を変えるようにそう言うと、戸棚から天体望遠鏡を取り出していそいそと組み立て始めた。
もうすっかり手慣れた作業で、あっという間に組み上がったそれを窓辺へ持って行き、大きく窓を開いた。
「うわあ、大きな月が真正面に見えるね。そっか、もうすぐ満月だったね」
満月まであと数日のやや端が欠けた大きな月を、レイは天体望遠鏡を覗き込みながら微調整をして綺麗に見える位置で止めた。
「よし、完璧!」
いつもの観測ノートを取り出したレイは、窓辺に置かれている小さな机にそれを置いて、天体望遠鏡を覗き込んでは、観測ノートの開いた新しいページに細かな模様を書き写していった。
夕食の時のルークの言葉を思い出して不意にノートを書く手を止めたレイは、お茶の用意をしてくれているラスティを振り返った。
「ああそうだ。ねえラスティ、携帯用の天体盤ってどこに置いたっけ?」
いつもの戸棚に置いてあるのは、大きい方の天体盤だけだったのを見て、慌てたようにそう尋ねる。
「はい、ちゃんと荷物の中に入れておきましたからご心配なく。きっと綺麗な星空が見えますよ」
笑顔で答えてくれたラスティに、レイも笑顔になる。
「ありがとうラスティ。さすがだね!」
「はい、お任せください!」
得意気に胸を張るラスティと、レイは拳を付き合わせて笑い合った。
カナエ草のお茶を時折飲みながら一通りの観測を終え、その後はいくつかの惑星を探して眺めていたレイは、一つ深呼吸をして天体望遠鏡から顔を上げた。
「よし、じゃあもう今夜の観測は終わり!」
小さくそう呟くと、手早く天体望遠鏡を片付けて定位置に戻した。
「レイルズ様、湯をお使いになられるのなら、準備は出来ていますのでどうぞ」
「はあい、今行きます」
観測ノートもいつもの場所に戻したレイは、窓を閉めてから湯殿へ向かった。
ソファーの背の上に座っていたブルーのシルフは、手早く空のカップとビスケットの瓶を片付けるラスティをしばらくの間のんびりと眺めてから、隣に座るニコスのシルフ達を振り返った。
『明日からの遠征。我にとっても知識としては知っていても未知の部分が大きい。特に人との付き合いについては其方達が頼りだ。よろしく頼む』
『もちろんです』
『それが我らの勤めなれば』
『お助けするのは当然の事』
当然のようにそう言って笑った三人のシルフ達は、ブルーのシルフと顔を見合わせて頷き合った。
『きっと明日からの二週間は』
『主様にとっても実り多き時間となるでしょう』
『我らに出来るのはそれをわずかながらにお助けするだけ』
嬉しそうにそう言ったニコスのシルフ達は、ブルーのシルフと共にもう一度頷き合ってから、湯から上がったレイの髪を乾かすために揃って彼の元へ向かったのだった。




