お疲れ様と様々な思い
「今日はお疲れでしたね。まだお休みになりませんか? では、何か御用がありましたらいつでも遠慮なく声を掛けてくださいね」
祝賀会を終えて部屋に戻ったレイは、軽く湯を使って部屋着に着替えると、まだ休むには早いからと言って天体望遠鏡を準備して窓辺に持って行った。それから、いつも窓辺に用意してくれてある小さな机と椅子を引き寄せて座った。机の上には万年筆も用意されている。
それを見たラスティは、手早くお茶の用意をしてからそう言って控えの部屋に下がっていった。
レイは星を見始めるとすぐに夢中になってしまうので、呼びかけの声にほとんど反応しなくなるからだ。
「はあい」
半ば上の空で返事をしたレイは、手慣れた様子で天体望遠鏡を組み立てて机の上に置いた観測ノートを開くと、今日の日付や時間を記入してから、せっせと天体望遠鏡を覗いては月の様子や今日の星の位置を観測ノートに記入し始めた。
初めのうちは興味津々で集まって来ていたシルフ達も、全く喋りもせずに天体望遠鏡を覗いては黙々とノートに記入しているだけのレイの様子に早々に飽きてしまい、好き勝手にそこらを飛び回ったり、レイの髪を引っ張ったりして遊び始めるのもいつもの事だった。
「ふう、これくらいかな」
レイがようやく天体望遠鏡から顔を上げてそう呟いたのは、観測を初めてから、一刻以上が経過してからの事だった。開いたページには、今日の月の詳しい模様や星の位置が綺麗に描かれている。
『お疲れさん。湯を使ってそのままだろう? 喉が渇いているだろうから、水かお茶でも飲んでおきなさい』
天体望遠鏡の胴体部分に座って、観測ノートを書くレイをずっと黙って眺めていたブルーのシルフが、笑いながらそう言って背後のテーブルを指差す。
「うん、確かにちょっと喉が渇いたね。ああ、用意してくれてたんだ」
振り返って机の上に用意されたまま冷えてしまっているお茶の入ったカップに気が付き、嬉しそうにそう言って立ち上がると足早に机に向かった。
「ええとハチミツは……入れてくれてるね」
カップの前に置かれた椅子に座り、すっかり冷えてしまっているが気にせず少しだけ口をつけて、蜂蜜入りである事を確認してからレイは一気にお茶を飲み干した。
「ふう、美味しい」
小さなため息と共にそう呟き、置いてくれてあったビスケットの瓶の蓋を開けて一枚だけ取り出して食べ始めた。
しかし、一枚食べ終えたところで無言になったレイだったが、別のカップにももう一杯分用意してくれているのに気付いて嬉しそうな笑顔になる。ちょっと口の中の水分が全部ビスケットに持って行かれてしまい、もう一杯お茶が欲しかったのだ。
レイがビスケットを食べるであろう事を見越してもう一杯分用意してくれてるあたり、ラスティの気配りさ加減がよくわかる。
「お世話になってばかりだね」
少し照れたみたいに笑顔でそう呟き、もう一杯のお茶は少しゆっくりいただく。
「カウリ、格好良かったね」
半分ほどになったカップを机の上に置き、うっとりと目を閉じながら今日の叙任式の事を思い出してそう呟く。
『本人はもう疲れ切って熟睡しているぞ』
空になったカップの縁に座ったブルーのシルフが、面白がるように笑いながら教えてくれる。
「あはは、さすがのカウリもそりゃあ今日は疲れただろうね。ずっと緊張のし通しだったろうしね」
笑いながらそう言い、背もたれにもたれかかって天井を見上げてため息を吐く。
「半年後には、僕もあれをするんだよ。本当に大丈夫かなあ。自信無いや」
そう呟いて、もう一度大きなため息を吐いて目を閉じる。
しばらくそのまま黙っていたが、不意に身震いしてまたため息を吐く。
「実際の戦場って……どんな風なんだろうね……」
目を閉じたままごく小さな声でそう呟き、両手で顔を覆った。
「父さん……」
脳裏に浮かぶのは、光の精霊達が見せてくれたアルカーシュでの惨劇の場面だ。
あの凄惨な場面は、しかし一切の匂いが無かったのだ。
音や声は聞こえたし、おそらくは精霊が見た場面をそのまま見ていたのであろうあれらには、あったはずの血の匂いも炎の焦げる匂いもなかった。
もしかしたら、精霊達には匂いを感じる事そのものが出来ないのかもしれないし、単に過去見ではそこまでの再現は不可能だったのかは分からない。だが、匂いが一切無かった事で、あれらの凄惨さがある種の壮絶なまでの美しさを伴っていた事にも、レイは気が付いていた。
全ての始まりとなった、あの夜の突然の襲撃に伴う記憶には、母の血の匂いと汗の匂い。森の濃密な、質量さえ伴っているかのような重い夜の気配。足元の草に付いた夜の雫の冷たさに至るまで、レイははっきりと覚えている。
「匂いが有るか無いかで、こんなにも現実味が違うんだね」
そう呟き、小さく唾を飲み込んでもう一度身震いすると、顔を覆っていた手を離して起き上がる。
『レイ……大丈夫か?』
心配そうなブルーの声に、顔を上げたレイは小さく頷いた。
「うん、大丈夫だよ。ねえ、タキス達は何をしてる? もう休んじゃったかな?」
出来れば、今日のカウリの事は報告しておきたい。
気分を変えるように明るい声でそう言ったレイに、ブルーのシルフも笑顔になる。
『居間で揃っているよ。では呼んでやる故しばし待ちなさい』
当然のようにそう言った直後に、いつものように何人ものシルフ達が並んで目の前に現れるのをレイは笑顔で見つめていたのだった。




