カウリとチェルシーの心配事
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
玄関先で交わされる、どこにでもある当たり前の簡単な会話。
だが、これはカウリにとっても、それからチェルシーにとってもとても大切な時間だ。
「体調はどうだ?」
軽いキスを交わした後、一緒に居間へ戻りながら少し心配そうにそう尋ねる。
「ええ、もう大丈夫よ。心配性の旦那様」
笑って頬にキスをくれたチェルシーの顔色は、確かに一時期に比べたらかなりマシにはなっている。
酷いつわりのせいでほとんど食事を取れなかった時期には、少しでも目を離したら、朝露のようにこのまま消えてしまうんじゃあないかと本気でカウリが心配するくらいに弱っていたのだ。
ようやく安定期に入り、食欲も戻ってきたようでチェルシーも以前のように元気に笑うようになった。
広い居間に戻り、まずはチェルシーをソファーに座らせたカウリは剣ごと剣帯を外していつもの金具に引っ掛けると、上着を脱いで控えていた執事に渡した。そのままチェルシーの隣に座って少し大きくなったお腹にそっと手を当てた。
「まあ、お腹の赤ちゃんに栄養を根こそぎ持っていかれているらしいからなあ。なあおい、あまりチェルシーを困らせないでくれよな。お手柔らかに頼むぞ」
お腹の中の赤ちゃんに向かって優しく話しかけると、顔を見合わせて笑い合いもう一度ゆっくりとキスを交わした。
「結局、今月の五日になったよ」
その日夕食が終わり、食後のお茶を飲んでいた時、カウリが苦笑いしながら困ったようにぽつりとそう言った。
消えそうな小さな声の、しかも主語の無い意味不明の言葉だったが、チェルシーはもちろん聞き逃さなかったし、しっかりとその言葉の意味を理解していた。
「まあ、まあ……おめでとうございます。恐らく来月になるだろうっておっしゃっていたのに、それならばもう、もうすぐじゃあありませんか!」
今日が十の月の一日。
本当なら帰ってくる予定ではなかった彼が、わざわざ知らせを寄越してまで急遽一晩だけ帰ってきた意味を理解して、チェルシーもこれ以上ないくらいの笑顔になる。
「まあ、叙任式自体はすぐに終わるよ。槍比べは、レイルズが叙任を受ける来年の六月の予定だから、まだしばらく余裕があるよな」
誤魔化すようにそう言って、槍を構える格好をする。
チェルシーも当然元は軍人だ。叙任式の後の槍比べを裏方担当の際に実際に近くで見た事もある。
あれを本当に彼がするのかと思うと、本気で怖くなる。
それほどに、槍比べで真正面から本気でぶち当たった時の衝撃は大きいのだ。
「まあ、それに関しては恥ずかしくない程度で程々にするよ」
相変わらずの物言いに呆れたように笑い、それから真剣な顔で頷く。
「どうかご無理をなさいませんように。それならば、当日夜の祝賀会にはやはり私も参加しなければなりませんね。イデア様にお願いして、急ぎ妊婦用のドレスを借りてまいります」
今からでは、さすがに自前で妊婦用のドレスを用意するのは時間的に無理がある。
少し前に、ヴィゴの奥方であるイデア様が顔を見に来てくれた時に、もしも必要ならば用意があるのでいつでも言ってちょうだいと言われていたのを思い出したからそう言ったのだが、カウリは苦笑いして首を振った。
「ああ、それは俺もヴィゴから聞いてたけど必要無いよ。今日、会議の後にガンディに確認したんだけど、まだ無理は禁物だってさ。元々チェルシーが社交会に顔を出していたのなら祝賀会の際には参加は必須だろうけど、今回はチェルシーの参加は免除だってさ」
正直言って一番の心配事だった祝賀会への参加を、簡単に却下されて驚いて顔を上げる。
「ですが……よろしいのですか?」
「問題無いよ。だからチェルシーは安心してお腹の子供の事だけ考えていてくれれば良いよ」
戸惑いつつも頷くチェルシーに、カウリも笑顔で頷くのだった。
正直に言って、彼女をあの魔女達に紹介しなくて済んでカウリは本気で安堵していた。
もしも、祝賀会に彼女が参加する事になっていたら、イデア様やミレー夫人をはじめとした竜騎士隊に好意的なご婦人方が彼女を守ってくれるだろう。
それでもカウリは、あの魔女の巣窟のような場所に彼女を連れて行きたくはなかったのだ。
「まあ竜騎士隊の皆には、子供が産まれたら子供のお披露目と家のお披露目会を兼ねて順に招待するつもりだけどな」
その話は聞いていたので、苦笑いして頷く。
もちろんそれだって考えただけで緊張してしまう話だが、少なくとも自分の家という、いわばよく知る場所で行うのだというだけでも少しは安心も出来る。
「そうですね。よく考えたらヴィゴ様以外の竜騎士隊の方々とは、結婚前と結婚式当日に少しご挨拶をした程度ですからね。改めてしっかりとご挨拶しなければ」
やや悲壮とも取れる決意を秘めた真剣なチェルシーの様子を、カウリは苦笑いしながら見つめていた。
産まれる子が男の子であれ女の子であれ、竜騎士の子として生まれてくる以上、最低限の貴族としての教育は受けさせなければならない。
そうなると、ヴィゴの一家を始め竜騎士隊の皆の協力は必須となるだろう。
「まあ、そっちは俺に任せてくれていいよ。これも適材適所だ」
やや気負いすぎている様子の彼女の気持ちを軽くする為、出来るだけ軽い口調でそう言ってやる。
「そ、そうですね。何も出来ず申し訳ございません」
「いやいや、何を言ってるんだよ。俺には絶対に出来ない事を、今まさにチェルシーは命懸けでしてくれているんだからさ。それに全力で向かえるようにするのは、それこそ何も出来ない俺の役目だって」
本気で申し訳なさそうに謝る彼女を見て、カウリは慌ててそう言って顔の前で手を振った。
それからお互いの顔を見合わせて、同時に吹き出したのだった。
「まあ、とにかく今は自分とお腹の子供の事を第一に考えてくれればそれでいいよ」
もう一度顔を見合わせてお互いに照れたように笑い合い、それから改めて二人揃って残っていたお茶を飲んだのだった。




