密かなるブルーの仕事
「ふむ、ようやくオルダムでのレイの初仕事が終わったな」
真っ暗な湖の底にいたブルーは、安堵したように小さくそう呟いてゆっくりと目を開いた。
今のブルーがいるのはいつもの西の離宮の側にある湖では無く、オルダムから見て遥か南東にある巨大なグラス湖という湖の中だ。
大河リオ川から分かれたもう一つの大河リグラス川が流れ着く先にある巨大な湖は、その昔、天馬が舞い降りて来て出来た湖だという伝説がある巨大な湖だ。
実はこれは遥かに遠い大昔、精霊王の時代よりもまだ遥か昔の遠い時代に、星の世界から巨大な隕石が落ちて来て出来た巨大な穴の跡なのだ。
そのためこの地には特殊な土壌があり、湖周辺の一部地域でのみ、土を使った染色をしている地域がある。
漆黒の花、と呼ばれるムラの無い真っ黒なそれらの生地や糸は、遠くオルダムの地へと運ばれて、貴族達の身を飾るドレスや、レースの素材となっているのだ。
竜の面会が終わったのを見届けたブルーは、密かに棲み慣れた離宮の湖から出て姿隠しの術を使い、誰にも気付かれる事無くオルダムを後にしたのだった。
目的は、この国の上空を一通り飛んで、何らかの異変の兆候がないか探る事。それから彼の目として各地に放っているシルフ達や光の精霊達から、直接話を聞いて場合によっては現場を確認して回るためだ。
レイが住む事となったこの国は、ブルーにとっても今や無くす事の出来ない大切な場所となっている。
縁は途切れたと思っていたオルダムに住む竜達は皆、ブルーの帰還を心から歓迎してくれた。愛しい主の事も、皆大歓迎してくれた。
人間など、碌でもない奴らしかいないと思い込んでいたが、少なくともこの国の竜騎士達と現在の皇王は信頼に値する人物達のようだ。
竜騎士達は皆少々癖はあるようだが、それぞれの人生を逃げる事なくしっかりと生きている。
懸命に生きる人の子がこれほどまでに愛おしいのだという事を、ブルーはここへ来て数百年振りに思い出していたのだった。
ここへ来るまでも各地を飛び回りあちこちのシルフ達から詳しい報告を聞いていたブルーは、しかしそれと同時に、オルダムの一の郭にある瑠璃の館のお披露目会のために張り切るレイの側に使いのシルフを寄越し、彼の側を片時も離れずニコスのシルフ達と共に彼の事をずっと見守ってきた。
ようやくお披露目会の全ての日程を終え、レイがぐっすりと眠ったのを確認したところだ。
「ふむ、なかなかに楽しき日々であったな。それぞれの個性が見えた数日であったわ」
面白そうに小さくそう呟き含むように笑ったブルーは、大きな欠伸を一つして尻尾を巻き込んで丸くなった。
リオ川から流れ込んだ水は、湖底のいくつかの水脈を通じてまた大地へと帰り、それらはいずれまた大河の一雫となってこの世界を巡っている。
地下の水の流れを感じる事が出来るブルーは、数日前からこの湖の中で各地につながる水脈の状態を一つずつ確認しているところでもある。
「ふむ、大地の竜達が頑張ってくれているようだな。国境向こうの乾燥しきった空虚なる気配とは雲泥の差だな」
呆れたようにそう呟いたブルーは、もう一度欠伸をしてそっと目を閉じた。
周囲では、勝手に集まって来ていたウィンディーネ達と光の精霊達が、楽しそうに手を取り合って輪になって踊り明かしていたのだった。
湖周辺では、湖底がぼんやりと光る見た事の無い怪奇現象に一時周囲の村や街では騒然となった。しかし精霊使いが、あれは光の精霊達が放つ光に間違いないとシルフ達が言っていると伝えてくれたおかげで、ひとまず騒ぎは落ち着き、それ以降は、ならば一体どうしてあんな深い湖の底で突然光の精霊達が集まっているのかと、誰も答えを知らない不毛な論争が長い間繰り広げられる事になったのだった。
翌日、夜明け前に目を覚ましたブルーは、湖底にいる魚を少しだけ捕まえて食べたあと、ゆっくりと上昇して湖の外へ出た。
当然ウィンディーネ達に命じて水を制御しているので、水飛沫の一雫もこぼす事無くまっ平な水面から姿を隠して出てきたブルーは、そのまま次の目的地を目指して一気に上空へ舞い上がったのだった。
少し離れたその場所を、早朝から船出した漁師の小舟が何艘も行き交っていたが、彼らはそんなことなどつゆ知らず、今日は波が無くて風も穏やかで良いなどと、のんびりと笑顔で話していたのだった。




