精霊王と女神オフィーリアの神殿
翌朝、すっかり元気になったレイは、珍しくシルフ達に起こされる前に目を覚ました。
窓辺に座っていたシルフが、嬉しそうに起きたレイの肩に座った。
『おはよう』
『おはよう』
「おはよう、今朝は起こされる前に起きれたよ」
キスしてくるシルフ達にキスを返して、レイは大きく伸びをした。
「お、おはよう。そろそろ起こそうかと思ってたのに、自分で起きたな」
身支度を整えたニコスが、湯の入った桶を手にして洗面所から出て来た。
「おはようございます。今日も朝市に行くんでしょ?」
ベッドから降りながら尋ねると、桶を足元に置いたニコスは、湿布薬の入った籠を手にレイのベッドの側に来た。
「着替える前に、もう一度湿布を貼り替えておくよ」
しかし、頷いて服を脱いだレイを見て、ニコスは眉を顰めた。
「……昨日より痣が大きくなってる。痛みは?」
確かに、言われてみると、湿布薬の外にまで内出血がはみ出している。
「えっと、ちょっとは痛いけど……動けない程じゃ無いよ。棒術の訓練を始めた時の方がずっと痛かったよ」
それを聞いたニコスは、少し笑って首を振った。
「あれは筋肉痛だから、内出血の痛みとは全然違うぞ。ああ、やっぱり少し熱を持ってるな」
湿布薬を剥がして、湯で絞った手拭き布で患部を拭き取り、手を当てて心配そうに言った。
「大丈夫だよ。でも、確かに凄い勢いで蹴られたから、内出血は、かなり……してると思う」
「今更だけど、一体どう言う状況でこんなに酷く蹴られたんだ?」
青あざを見ながら真顔のニコスの問いに、レイは昨日の状況を思い出しながら話した。
「えっと、少し離れた屋台の所で、男の人達が喧嘩を始めたみたいで、騒ぎになったの。それで、多分刃物を……僕は見てないんだけど、あの男の人が言ってた。刃物を出した人がいて、警備隊に取り押されられたんだって。それで、刃物を見た人達が、一斉にこっちに逃げて来て……」
「突き飛ばされたのか?」
無言で頷くレイを見て、ニコスは大きなため息を吐いた。
「それは……逆に、この程度の痣で済んで良かったよ。下手をしたら踏み殺されてるぞ」
誤魔化すように笑うレイを見て、ニコスはもう一度大きなため息を吐いた。
「今日は、絶対に勝手な事はしない事! 良いな」
「はい、良い子でいます!」
両手を上げて、降参のポーズを取りながら顔を見合わせて少し笑った。
「とにかく、痛みがあるなら言ってくれ。ここなら薬屋だってある。何なら痛み止めを買うから」
「タキスの作ってくれるお薬の方が効くと思うけど……」
レイの呟きに、ニコスも頷く。
「そりゃあ、俺だってそう思うよ。だけど、今必要なら、とりあえずは買わないとな」
「……ごめんなさい」
まるで自分が悪い事をしたかのように謝るレイを、ニコスは笑って抱きしめた。
「謝らなくていい。 確かに、勝手な行動は褒められたもんじゃ無いけど、それだって、迷子の女の子の為にやったんだろ。レイのおかげで、女の子はお母さんに会えた。その後は、まあ……事故みたいなもんだ。レイは悪く無いよ」
額に一つキスをして、手を離した。
「さあ、朝ごはんを食べたら朝市に出かけるぞ。部屋にはもう戻らないから、忘れ物の無いようにな」
慌てて、脱いだ寝間着を畳み足元に置いてあった包みの中に入れた。
部屋を見回し、忘れ物が無い事を確認してからリュックを背負った。
「はい、これで大丈夫……だよね?」
ニコスは笑って、もう一度部屋を見た。
「よし、忘れ物は無いな。それじゃあ行こうか」
ニコスについて居間へ行くと、身支度を整えたギードが待っていた。
「おはようさん。よく眠れたか?」
「おはようございます。うん、良く眠れたよ」
笑うレイの頭を撫でながら、ギードもレイの怪我を気にしていた。
「怪我の具合はどうじゃ? 痛みは無いか?」
「だ、い、じょ、う、ぶ!」
笑ってギードに抱きついた。
「そうか、痛みがあるようなら必ず言うんじゃぞ」
そう言って、レイを抱き上げた。
「自分で歩けるよ?」
しかし、ギードはレイを抱いたまま階段を降り、食堂へ向かった。
「おはようございます。あちらの席をどうぞ」
クルトが元気に出迎えてくれて、早速席へ案内してくれた。
「お皿をどうぞ。それではごゆっくり」
店内は、今日も大盛況だ。
「さてと、レイ、ワシの分も皿を持ってくれ」
そう言うと、レイを軽々と肩に乗せて料理の並んだコーナーへ向かった。
隣には、ニコスがぴったりと付き、手分けして三人分の食事を次々に取って行った。
「そうか、子供さんはこの人混みだと近寄れなかったのか。すまなかったなレイ。昨日はちゃんと食べられたのか?」
それに気付いたバルナルが、申し訳なさそうに話しかけて来た。
「大丈夫だったよ。昨日もギードが肩車してくれたの」
肩の上から両手に山盛りのお皿を持ったレイが、そう言って笑うと、バルナルは笑って頷きまた忙しそうに奥へ走って行った。
「相変わらず、大盛況じゃな」
次々と入ってくる人を見て、ギードは席に着いた。
「それでは、頂くとしよう」
早々に食事を済ませた三人は、バルナルに声を掛けて、ポリーを連れて朝市に出掛けた。
既に朝から大勢の人が出ている。
「レイ、危ないからポリーに乗ってろ」
ニコスがレイを抱き上げて、ポリーの背に乗せた。
「大丈夫なのに」
「何か欲しいものがあれば、言ってくれたら降ろしてやるぞ」
隣で、ギードも笑っている。
「でも、上からなら何があるか良く見えるや」
文句を言った割には、楽しそうにあちこち見ながら笑っている。
何軒かの店で追加の買い物をして、ポリーの籠に詰めていく。
「さてと、こんなものかな? レイは何か欲しいものは無いか?」
ちょっと考えて、首を振った。
「欲しかった飴は昨日買えたし、特に無いよ」
その後は、革靴の専門店へ行きそれぞれに新しい靴を買った。レイは、二足も買ってもらった。
「それからこれは、タキスの分だな」
ニコスがそう言ってもう一足頼み、全部まとめてお金を払った。
「ありがとう。新しい靴、すごく嬉しい」
麻の袋に入れてもらった靴を抱きしめてお礼を言った。実は、今履いている靴は、かなり小さくなって少し足が痛かったので、レイは嬉しくてたまらなかった。
「小さな子に、かなり大きな靴を買ったから、店員は不思議そうにしてたけどな」
笑いをこらえながらニコスが言い、ギードも笑いながら頷いた。
「今のレイのサイズで買ったら、誰も履けぬからな」
「そうだよね。ニコスのより、少し大きめ!」
三人は顔を見合わせて笑った。
「それでは、旧市街の精霊王の神殿へ行きましょう」
三人は人混みを抜けて、旧市街へ向かった。
「こっちは、あまり人がいないね」
広い道路は、ゆったりとしていて人もまばらだ。
「午後からは、観光客も増えるんだろうが、まずは皆、特設会場の花の鳥を見に行ってるんだろ」
ニコスがそう言って笑う。
「夜の旧市街もすごく綺麗だったけど、太陽の光の下で見るのも綺麗だね」
レイはポリーの背に乗って、辺りを見回してご機嫌だ。
「あちこちに花が沢山飾ってあるね」
レイの視線の先には、柵に絡まった蔓薔薇が満開の花を咲かせている。
特に旧市街は、門や石像、窓辺など至る所に花があふれていた。
「旧市街は、金持ちが住んでるからな。花祭りの期間中だけじゃなくて、普段から、花を沢山咲かせている家が多いんだよ。まあ、特にこの花祭りの期間中は、頑張ってるみたいだけどな」
「そうなの。お庭にわざわざ見るためだけの花を咲かせるなんてすごいね」
レイにとっては、花と言っても薬草や野菜など、役に立つものが基本だ。野の花は美しいと思うが、わざわざ庭に見るためだけの花を植えるのは、すごく贅沢な事に思えた。
「街の中は、森と違って緑が少ないからな」
何軒かの綺麗な庭を見ながら、精霊王の神殿に到着した。
石造りの巨大な建物が、圧倒的な迫力で聳え立っていた。
壁には隙間無くつる草模様が彫り込まれ、至る所に魔除けの妖魔の石像がその姿を見せていた。
巨大な扉は、今は全開の状態で止められている。
「まずは、精霊王にご挨拶しましょう」
ニコスが、ポリーの背からレイを抱いて降ろし、入り口でポリーを預けて木札を貰う。
「あ、ここも精霊が番をしてくれるんだね」
レイが嬉しそうに笑うと、ポリーの背の上でシルフが飛び跳ねていた。
「よろしくね」
シルフに手を振って神殿の中に入った。
壁に何百もの蝋燭が灯され、反対側の南側の壁一面は、巨大な色硝子を幾何学模様にはめ込んだ、見事な細工窓が、朝の光で輝いていた。
まずは蝋燭を買い、妖魔の石像が吐く炎で火を灯す。壁の燭台の空いたところに蝋燭を差し込むと、三人は見事な細工の精霊王の石像の前で、手を組んで祈りを捧げた。
母さんとエイベルは、もう輪廻の輪に戻ったのだろうか? 村長や村の皆も、ちゃんと精霊王の所に辿り着けたのだろうか?
思い出したら不意に涙がこぼれそうになって、慌ててレイは欠伸をするふりをした。
「おや、眠いか?」
ニコスが、それを見て心配そうに言ったので、レイは涙を誤魔化して拭きながら笑ってみせた。
「だって、今朝も早かったもん」
「帰りは、何なら荷馬車の隙間で寝てても良いぞ」
「それより、僕トケラの頭に乗せてもらおうかな。あそこなら寝られそう」
「落っこちるのが関の山じゃからやめておけ」
ギードの声に、三人はこっそり笑いを堪えるのに必死だった。
「ほら、張り紙がしてある。東側のオフィーリアの神殿で、花の鳥の細工物作りをやってるそうだぞ」
ニコスが指差す壁には、手書きの文字で、案内が丁寧に書かれてあった。
「随時受付だって。折角だから行ってみよう」
一旦外に出て、巨大な敷地内の別の建物に向かった。
まずはそこでも蝋燭を買い、鳥の石像が吐く炎で火を灯した。
「綺麗な方だね」
見上げた女神オフィーリアの石像は、優しげな笑顔でやや下を向いている。これは、大切な子供を見ているためだと言われていた。
「母さんに……似てる」
思わず呟いた自分の声に驚き、もう一度見上げる。
目があった瞬間、涙が滲んで前が見えなくなった。
突然泣き出したレイに、二人は驚いて背中や頭を撫でてくれたが、レイの涙は止まらない。
「どうなさいましたか?」
その時、神殿の巫女の一人が、泣いているレイに気付き側に来てくれた。
「母さん、とね、母さんと、そっくりな、の」
しゃくりあげながら、なんとかそう言ってまた泣き出してしまう。
「申し訳ありません。この子は去年の秋に母を亡くしたばかりなんです。どうやらオフィーリアの石像に母の面影を見たらしく……お騒がせして申し訳ありません。すぐにお暇しますので」
そう言ってレイを抱き上げて出ようとしたが、巫女は首を振り、その手を止めた。
「女神オフィーリアは、全ての子の母であり、全ての母の痛みと悲しみを受け止めます。きっと、お母上も、ここに一緒におられますよ」
そう言って、巫女はにっこり笑うと、泣いているレイを抱きしめてくれた。
懐かしい、柔らかな女性の手に抱かれ、レイは涙を堪えられなかった。
レイの涙が止まるまで、その巫女はずっとレイを抱きしめてその背を撫で続けてくれた。




