歴史の勉強会
宿屋に戻った三人は、ゆっくり湯を使ってから、居間で寝る前に一杯やっていた。
もちろんレイの前には、柑橘のジュースが置かれている。
「明日にはもう帰っちゃうんだね。あっという間だったな」
レイが、ちょっと残念そうにそう言うと、二人は苦笑いしながら飲んでいた手を止めた。
「俺は今日は長く感じたぞ。特に昼間ね」
「確かに。何を買っておったかすっかり忘れて、店まで確認しに行ったわい」
二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。
「今日は本当に、一時はどうなるかと思ったよな」
「全くだ。誰かさんがいなくなったと聞いた時には、こっちの心臓が止まるかと思ったぞ」
「ご、ごめんなさい。あんなに大事になるなんて思わなかったんだもん」
「まあ、無事で何よりだよ。怪我したところは本当に痛まないのか?」
先程、湯を使う時に確認したら、レイの背中と脇腹、それに太もものところに大きな青痣が出来ていたのだ。恐らく群衆に踏まれた時に付いたものだろう。
それを見たニコスが、慌ててバルナルに頼んで湿布薬を譲ってもらい、手当てしたのだ。
「家に戻ったら、タキスにもう一度診てもらえよ」
「大丈夫だって。脇腹はちょっと痛いけど、本当に大した事ないよ」
「せっかく、竜人の子供で覚えられてるけど、ここまで体力差があるなら、次回は元の姿で来ても良いかもな」
「確かに、冒険者かレンジャー希望の若者だと言えば、我々が連れていても恐らく誰も疑問に思わないだろう」
「この姿も気に入ってるけど、確かに体力的には辛いかも」
二人に言ってはいないが、あの逃げて来る群衆の中に放り出された時、実は本気で死を覚悟したのだ。誰もレイの事は目に入っていなかった。そこらの石ころと大差ないような扱いだったのだ。
「そうなると、竜人の子供は……郷に帰りました。かな?」
二人は飲みながら、楽しそうに話をしている。
「そう言えば気になっとったんだが、レイを探しておった時、シルフ達がレイを見つけられなかったのはどう言うわけだ?」
「ああ、恐らくアルカディアの民と一緒に居たからでしょう。彼らなら、正直今の俺達より、精霊魔法使いとしては上だからね」
「そうか、追跡隠しを使っておられたら、確かに見つけられんな」
納得している二人を見て、レイが手を挙げた。
「質問! 今、聞いたことのない言葉が出て来ました。追跡隠しって何?」
二人は顔を見合わせて、ニコスがちょっと考えてから答えてくれた。
「まず、シルフを使った追跡って術の技があってな、今日のレイみたいに、居なくなった仲間の誰かを探してもらったり、物を探してもらったりする技なんだけど、当然優劣がある」
「優劣? 技に優劣があるの?」
「そうだ、要するに術を使う者の力量だと思えば良い。力の強いものが使えば、多くのシルフで一斉に探せるから、当然見つかる確率も高くなる。逆に初心者や力の弱い者だと失敗する事の方が多くなる。ここまでは分かるな?」
頷くレイを見て、一口グラスの酒を飲んでからニコスは説明を続けた。
「今回、いなくなったレイを探してもらうのに、俺はシルフにレイの追跡を頼んだ。当然彼女達は探してくれた。普通なら失敗する事なんて無いような程度の頼み事だ。レイの足で動ける範囲なんて限られてる。仮に誘拐されたとしても、この街から出ているとは思えない位の時間だったしな」
「それなのに、レイを見つけられなかったから、俺達は本気で焦ったんじゃ」
ギードも、思い出したのか苦い顔をしてまた一口グラスの酒を飲んだ。
「今回は、レイを見つけてくれたあの男が、逆に俺達を探してくれて、それで見つかった訳だけどな」
「恐らく、あの男達は日常的に、その追跡を遮る技である追跡隠しを使っておるのだろう」
「つまり、俺が使った追跡よりも、彼らの使った追跡隠しの方が上だったって事。だから、俺が頼んだ追跡ではレイを見つけられなかった」
悔しそうに両手を上げて負けのポーズを取り、ニコスが苦笑いした。
「あのお兄さん、そんなにすごい遣い手だったんだね。そっか、あの水筒の一件だけでも、すごいって言ってたもんね」
不思議そうにしているギードに、レイは男が水筒の蓋に水の精霊を入れて、常に水筒が満杯になるようにして使っていた話をした。
それを聞いたギードは驚きのあまり言葉も無かった。
「アルカディアの民には、いろんな噂がつきまとってるけど、実際、彼らは皆、相当高位の精霊使いだよ」
「さっきも聞いたけど、そのアルカディアの民って何? 僕初めて聞いたよ」
レイの質問に二人は無言になり、また一口酒を飲んだ。
「この話をすると、はっきり言って歴史の授業からになるぞ」
不思議そうにしているレイを見て、ニコスはまた考えて、かなり簡単な説明をしてくれた。
「もう百年以上前の話になるんだけどな、東のタガルノとの国境の所に、アルカーシュって名の小さな共和国があったんだ」
「共和国?」
「そう、王様のいない国だよ」
「えっと、王様がいないと、誰が国を動かすの? 一番偉い人は誰になるの?」
レイの当然の質問に、ニコスは頷いた。
「その国では、住んでいる人皆で国の事を決めるんだ」
「……どうやって?」
全く意味が分からない。
「議会制と言ってね、その国の人の中から選ばれた何人かの議員が相談して王様の代わりに国を動かすんだ。まあ、小国だったからこそ出来た事なんだろうけどね」
初めて聞く話に、レイは興味津々だ。
「その国は、細工物の技術を持ったドワーフが大勢おった。それに高位の精霊使いも大勢いたと言われておる。しかし、小国の悲劇だな、ある時タガルノに攻められ、国は滅ぼされてしまった。協力関係にあったこの国からも救援要請を受けて兵が出撃したと聞くが、竜騎士隊でも間に合わなかったそうだ。急襲をかけられて、議員をほとんど殺された事で、救援要請を出すのが遅かったのが原因だと言われておる」
ギードの説明にレイは悲鳴をあげた。
「酷い! そんな事って……」
「酷いが実際にあった話じゃ。議員は壊滅、国民の多くは捕らえられたが、タガルノに従わずに殺された者も多かったと聞いておる。ファンラーゼンに逃げて来た者も多くいたぞ。保護されてこの国で生き延びた者も多かったはずじゃ」
「それ以前から、アルカーシュとこの国とは交流があって、もうお亡くなりになったけど、今の王妃様のお婆様はアルカーシュから嫁いでこられた方だよ」
ニコスの説明に、どれ程この国と仲が良く、小国とはいえ国交があったのかがよく分かった。
「そして、そのどちらにも入らなかった者達、つまり国を出たまま放浪者になった者達が一定数いてね、彼らがアルカディアの民になった訳だ」
「アルカディアの民は、順わぬ民とも呼ばれる。王制に従わず、国に入る事を拒み、自由に生きる事を選んだ者達じゃ」
「不思議な事に、当時の者はもう生きてはいない筈なのに、アルカディアの民は常に一定数がいる。いなくなることがないんだ。だから、不老不死者なんてあだ名が付いてる」
「まあ実際には、いつの時代にもいる、縛られる事を嫌う自由を愛する者が、アルカディアの民を名乗っているのだろうがな。冒険者ギルドに属さない、野良の冒険者のような者だ」
レイには、今のギードの説明が一番よく分かった気がする。
「彼らは皆、国に属さない代わりに何処にでも現れる。それ故に貴族達の間では、観察者とか傍観者なんて名でも呼ばれてる」
「実際に、密偵まがいの事をしておるとの噂もあるぞ」
「傭兵としても優秀だから、タガルノでは高給で雇ってるなんて噂も聞くな」
「自分の国を滅ぼした国なのに?」
思わず言ってしまったが、どう考えても自分なら絶対に許せないと思う。
「そこは確かに不思議な所だよな。俺が父上から子供の頃に聞いた話では、アルカディアの民となった者達は、元々自由民としてアルカーシュに保護されていた別の民族だという説が有力だったとか。まあ、国に縛られる事を拒んだ人達だからな、逆に言えば、自国に対する意識も低いのかもしれない」
酒を飲み干したニコスが、肩をすくめて笑った。
「寂しくないのかな……帰るお家が無いって」
ぽつりと呟いたレイの言葉に、二人は思わずレイを抱きしめた。
「それは彼らに聞いてみないと分かりませんね。家に帰る事が苦痛な人もいますから」
「どうして? お家に帰るのが苦痛?」
その一言で、レイが今まで貧しくとも、どれ程愛され大事にされて来たかが分かる。
無言で首を振ると、もう一度レイの小さな体を抱きしめた。
「さあ、もうすっかり遅くなってしまいましたね。今日はここまでにしましょう」
「そうだな、明日も朝市に行くんだろう? その後はどうするんじゃ? もう、それ程買い物は無かろう」
「旧市街の端にある、精霊王の神殿に行ってみましょう。それから、ご老人が言っていた花の鳥を作る体験が出来るところを探してみましょう」
ニコスの提案に、ギードも頷いた。
「そうじゃな。せっかく花祭りの期間中に来ておるんだから、一度くらいは精霊王の神殿にご挨拶に行くべきじゃな」
「そうですよ。せっかくですから、レイの健康と無事を願って、女神オフィーリアにもお祈りを捧げて来ましょう」
母親でもある女神オフィーリアは、子供を守護する神としても有名である。
「では、明日の予定はこれで決まりだな」
机の上を片付けながら、明日の相談を終えた二人は、おやすみの挨拶をして、それぞれの部屋に戻って行った。
レイも自分の分を片付けると、ニコスについて部屋へ戻った。
昨夜はよく見なかったが、部屋には前回と同じ金属製の簡易ベッドが追加で置かれていた。
「それじゃあ、僕も休むね」
寝巻きに手早く着替えて、ベッドに潜り込んだレイの額にキスをして、ニコスが笑った。
「おやすみなさい、明日も貴方に蒼竜様の守りがありますように」
嬉しそうに笑ったレイが、ニコスの頬にキスを返す。
「おやすみなさい、明日もニコスにもブルーの守りがありますように」
笑ったニコスが、もう一度レイの頬にキスをして、薄い毛布を掛けてくれた。
レイも笑って安心して目を閉じた。




