戸惑いと避難
最後には会場中の大合唱を貰い、拍手に送られて笑顔で舞台から下がったレイは、駆け寄ってきた執事から冷たくしたカナエ草のお茶を差し出された。
「お疲れ様でした。冷たいカナエ草のお茶をご用意してありますので、どうぞ」
「えっと……」
確かに喉は乾いているが、ワインは駄目だと言われたがお茶なら飲んでも良いのだろうか?
戸惑いつつもグラスを受け取ってしまい、どうしたらいいのか分からなくなってそこで手が止まる。
『大丈夫だよ』
『それは安全だから飲んでも良いよ』
まるでレイの戸惑いがわかっているかのように、笑顔のニコスのシルフが現れてそう教えてくれる。安心したレイは、一つ深呼吸をしてからお茶を一気に飲み干した。
「はあ、美味しい。もう一杯頂けますか」
頑張って歌ったので、喉はカラカラだ。
よく冷えたカナエ草のお茶を飲むと乾きがいっそう感じられてしまい、レイは笑顔で空になったグラスを差し出す。
笑顔で頷いた執事が、受け取ったグラスにピッチャーからカナエ草のお茶を注いでくれた。
改めてそれを受け取ろうとした時、突然会場から大きな声が聞こえてレイは飛び上がった。
しかしすぐ後ろにいた別の執事が、舞台から下げた椅子を予備の椅子の上に積み上げた時の音と重なった為、その叫ぶ声が何を言ったのかまでは咄嗟に聞き取れなかった。
しかし、最後の単なるお節介ぞ。と言う言葉だけはかろうじて聞こえて、思わず顔を上げる。
あれは、明らかに聞き覚えのある女性の声だ。
一瞬誰か分からなかったが、少し考えてラフカ夫人だと気付く。
「えっと、今のって……」
夜会の場で、あのような大声を上げるなんて普通ではない。もしかしたら誰かと喧嘩をしているのかもしれないと思い、受け取ったお茶の入ったグラスを側にあったワゴンに置いて会場に戻ろうとした。
「レイルズ様。今はお戻りにならぬ方がよろしいかと」
しかし先程の執事が、いきなりレイの前に腕を差し出して彼の体を止める。明らかに、彼は何があったのか分かっている様子だ。
「何があったんですか?」
しかし、執事は答えない。黙って首を振るだけなのを見てレイは彼から聞き出すのを諦めた。
静まりかえった会場が心配になり、衝立の向こうを見ようと背伸びをした時、またいきなり悲鳴のような叫び声が聞こえた。
「私は悪くない! 私は! 私は! 私は、悪く、ない!」
本気で気が触れたのではないかと心配になるくらいの金切声に、我慢出来ずに執事の腕を押さえて会場へ飛び出す。
直後に戸惑うような騒めきが起こり、何人かの執事が慌てたように会場の端に駆け出していくのが見えて、レイも駆けつけようと足を向けた。
「行ってはなりません」
突然、ミレー夫人と仲の良いバーナルド伯爵夫人であるイプリー夫人がレイの目の前に立ちはだかり、胸元に扇を持った腕を差し出して彼を止めた。
「ですが……」
戸惑いつつも足を止めて、自分のすぐ目の前に立つイプリー夫人を見下ろす。
「行ってはなりません。彼女から話は聞いておりますので、ここは我らにお任せを」
一瞬、彼女が誰の事をさすのか分からず戸惑う。
「えっと、もしかしてミレー夫人から、ですか?」
小さく頷くイプリー夫人に、レイは困ったように眉を寄せる。
「あの、一体何が起こっているんですか? 僕、何が何だか全然分からないんですけど」
その素直な質問に、イプリー夫人は何と答えようか困ってしまった。
レイルズがこの状況を理解していないであろう事は予想出来たが、さすがにこの場で簡単に説明出来るような内容ではない。
とにかく彼をここから出て行かせるのが最優先だと判断したイプリー夫人は、執事に命じて別室を用意させていたので、まずはレイを会場から連れ出す事にした。
「後ほど詳しい説明をさせていただきますので、今はとにかくこちらへお越しください。会場へ戻ってはなりません」
真顔でそう言われて、レイは質問したいのをグッと堪えてイプリー夫人の言葉に頷いたのだった。
レイにしてみれば、いつもは自分の事を思いっきり蔑むような目で見るラフカ夫人をはじめとした血統主義の人達が、今日は何故だか妙に優しかったり厳しくも正しい事を言ってくれたりした。
そのいつもとあまりにも違う様子に、何か彼女達の心境に変化があったのかと不思議に思っていたが、それを確認する間も無く大勢から曲の演奏を頼まれてしまった。
とにかくその場ではカードを書いておいてくれるようにお願いして、最初のダンスを踊れば、相手をつとめてくれたローザベルの様子もおかしく、レイは彼女のドレスにワインをこぼしてしまった。
しかも、彼女とニコスのシルフが揃って会場ではワインを飲むなと言う。挙句に、彼女から離れないでとニコスのシルフに頼まれる始末だ。
舞台に上がる際にはミレー夫人が来てくれて彼女を預ける事が出来たが、その肝心の彼女達が会場の中に見当たらない。
もう何が何だかさっぱり分からず、レイは戸惑う事しか出来なかった。
苦笑いして自分を見上げているイプリー夫人にもう一度尋ねようとした時、騒めいていた会場から担架に乗せられたラフカ夫人が運ばれて行くのが見えて駆けつけようとした。
しかし、真顔のイプリー夫人に今度は腕を掴んで止められ、結局そのまま運ばれて行くラフカ夫人を見送ってから会場を後にした。
「こちらでお待ちください」
執事の案内でイプリー夫人に伴われて別室に到着したレイは、素直に置かれていたソファーに座る。
向かい合わせに置かれた大きめのソファーと、その間に低めのテーブルが置かれているだけの部屋で、足元には華やかな絨毯が敷かれている。ここは恐らく個人的な歓談用の部屋と思われた。イプリー夫人はすぐには座らず、部屋にいた執事に顔を寄せて小さな声で何か話をしている。
別の執事がすぐに出て来てお茶の用意をしてくれるのを、レイは黙って座ったまま大人しく見つめていた。
聞きたい事は山のようにあるが、何から聞けばいいのか分からず困っていると、部屋をノックする音が聞こえて飛び上がった。
すぐに執事が対応してくれ、扉が開かれる。
「ルーク! それにゲルハルト公爵閣下。ええ、一体どうしたんですか?」
なんの連絡も無く、いきなり部屋に入って来た二人を見たレイの叫ぶ声に、真顔だった二人はほぼ同時に大きなため息を吐いたのだった。




