諍いと誤解と大きな誤り
大きく息を吸って泉に飛び込んだレイは、夢中で底に向かって潜っていった。
ブルーの気配が濃厚に感じられる。
彼は、明らかに自分の事を見ている。それなのに返事をしてくれない事が、たまらなく悲しかった。
次第に、真っ青に透き通り明るかった水中が、暗くなってきた。
もう、息を止めているのも限界に近い。
『ブルー! お願いだから答えてよ!』
心の中でブルーに向かって叫びながら、必死に水をかいた。
頭がくらくらする。目の前が霞み、体に力が入らない。
不意に口を開けた瞬間、大量の水が襲いかかってきた。鼻や口に水が入ってきて止められない。
泡が口から次々にこぼれて離れていく。
呆然と成す術も無く、遠ざかる泡を見つめていた。
きっと来てくれる筈だと信じていたブルーは、どこにもいない。
絶望感が、彼の身体を満たしていく。
『ブルーは僕の事、もういらなくなったの……か、な……』
心の中で思った言葉は、水に溶けて消えてしまった。
レイはもう、泳ぐ事が出来なかった。それどころか、身体が痺れたように重く、全く動く事が出来ない。
意識が遠くなり、ゆっくりと脱力したまま沈んでいく。
その時、水の精霊の姫達が、一気に周り中に現れて、彼の身体を、作り出した大きな泡で包み込んだ。
何人もが泡の中に飛び込むように入り、レイの口元や鼻先に何度も何度もキスをした。
するとレイの鼻や口から大量の水が溢れて出てきた。しかし、レイは目を覚まさない。
完全に意識を失って脱力したままの彼の身体を包んだ気泡は、水面にゆっくりと上昇していった。
静かだった水面に、突然浮き上がった大きな泡は、弾ける事なく、そのままゆっくりと、タキス達のいる場所まで進んで来た。
「レイ!」
「おい、しっかりしろ!」
慌てて二人が駆け寄るのを待っていたかのように、泡がパチンと弾けた。
びしょ濡れだったはずの身体はもうすっかり乾いている。
しかし、抱き起こして何度名前を呼んでも、全く反応が無い。
「姫、これはどういう事ですか!」
怒りに震えるタキスが、傍にいた水の精霊の姫達を問い詰める。
彼女達は困ったように、何度も首を振った。
『蒼竜様は知らぬ振りをなさっている』
『でも人間は水の中では息が出来ないから助けたの』
『叱られるかもしれないどうしよう』
『でも坊やが死ぬのは嫌嫌嫌』
『それは絶対に嫌なの』
『大好きだもの』
『大好きだもの』
『どうしてどうして』
彼女達に涙腺があるなら、今頃は涙の海が出来ていただろう。
そう思わせるほどの悲痛な泣き声は、辺り中に響き渡っていた。
しかし、泉から蒼竜が出てくる気配は無い。
意識の無い彼を抱きしめたまま、怒りの余り震える声でタキスは叫んだ。
「どういう事だ!蒼竜よ! お前の主である彼を見殺しにするつもりか!」
最早、敬語すら使わない。
その時不意に突風が吹き、タキスの周りにシルフ達が次々と現れ始めた。
レイを抱いたまま立ち上がったタキスの周りを、竜巻のように風が渦巻いて吹き荒れている。
「タキス、落ち着け」
慌てたニコスが竜巻の中に飛び込んで、後ろからタキスを羽交い締めにする。
「お願いだから落ち着け。幾ら何でも蒼竜様に喧嘩を売るのは自殺行為だ」
そう言って、無理矢理タキスを引き倒して押さえ込み、右手で喉元を押さえた。抵抗しようとしたタキスの意識が一瞬だけ落ちる。
唐突に風が止み、固まっていたシルフ達がばらけた。何人かのシルフが慌てたようにレイの側に来て、頭や胸に立って何度もキスをした。
力の抜けた瞬間に、タキスの腕からレイの身体とリュックを取り返したニコスは、辺りを見回して濡れていない後ろの草地に走り、そこにレイを横たえた。
「ここって……お母上が亡くなられてた場所じゃ無いか」
気付いて顔をしかめたが、他に濡れていない場所はない。
ため息を吐いて振り返ると、意識を取り戻したタキスは、砂地に起き上がって泉を睨みつけていた。
タキスがまた何かする前に、ニコスが大声で叫ぶ。
「タキス、レイを見てやってくれ。姫達が水を取り除いてくれたが、まだ意識が戻らない」
タキスの肩が震えて、一瞬の躊躇の後、立ち上がった。
「……分かりました」
すれ違うタキスの肩を軽く叩いて、ニコスは泉の側まで近寄って行った。
「蒼竜様、何かあったかは知りませぬが、これは余りのなさりようかと。何か気に入らぬ事があるなら仰って下さい」
泉に動きは無い。
ニコスには、蒼竜の考えている事が分からなかった。この数日で一体何があったと言うのだろう。
しかし、レイの為にもこのままにしておく訳にはいかない。
意を決して顔を上げると、大声で泉に向かってもう一度話しかけた。
「このまま、何も言わずにだんまりを決め込むおつもりか。いや、またしても、泉に引きこもられるおつもりか」
全く反応のない蒼竜に、見切りをつけてタキスを振り返った。タキスに抱き起こされ服を着せられたレイが、ぼんやりと目を開けている。
「レイ! 気が付いたか」
急いで側へ駆け寄った。
目を覚ましたレイは、呆然と周りを見回し、タキスとニコスの顔を見た。
「ねえ、ブルーは? 出て来てくれた?」
二人は顔を見合わせて無言で首を振った。
「そんな……」
泣きそうな顔で立ち上がると、よろめきながらもう一度泉に走って行く。
慌てて二人も後を追った。
泉にもう一度飛び込もうとするレイの腕を掴み、何とか止めることに成功した。
「離して! ブルー! ねえ、聞こえてるんでしょ!」
悲痛なレイの声が響く。
砂地に膝をついたレイは、涙を零しながら呟いた。
「ブルーは……ブルーはもう、僕の事、要らなくなっちゃったの? それとも、僕の事……嫌いになっちゃった?」
その瞬間、泉が爆発した。
辺り一面に水しぶきが降りかかり、後ろにいた二人までびしょ濡れになった。
「そ、それは違う。それは違うぞ!」
妙に覇気の無い蒼竜が、小さく畳んだ翼を震わせてレイの言葉を否定する。
「やっと出て来てくれた」
心底嬉しそうな声でそう言うと、目を赤くしたレイが側へと走り寄る。
その時、蒼竜は信じられない事をした。
駆け寄って来るレイを見て、後ろに下がったのだ。
「何で下がるんだよ!」
ムッとしてレイが文句を言うと、焦ったようにブルーが首を振った。
「……我に近寄らぬ方がいい」
「どうして。何かの病気なの?」
「いや、そうではないが」
「だったら何で! ブルーったら、本当に一体どうしちゃったんだよ!」
「いや……あまりに我らは頻繁に会いすぎていたようで……」
「何で、それのどこがいけないんだよ!」
「いや、何と言うか、そのもう少し節度を持って……」
「何だよそれ、遠慮無くいつでも会えるって言ったじゃないか」
きゃんきゃんとまくし立てるレイと、しどろもどろにそれに答える蒼竜の姿を呆然と見ていたタキスは、その光景に妙な既視感を感じていた。
「これ……何処かで全く同じ会話を聞いた事がある……」
無意識に脳内の記憶を探して、見つけた瞬間、膝から崩れ落ちた。
「お、おい。いきなりどうした」
同じ様に呆然と二人のやりとりを見ていたニコスが、慌てて支えてくれる。
「ニコス、私、私……」
「お、おう、一体何事だ?」
タキスは、二人を顎で示して、心底情けない声でこう言った。
「あれと全く同じ会話を、私は昔、付き合い始めたばかりのアンブローシアとした事がありますよ。ちなみに、私の役は蒼竜様の方でしたけどね」
無言で振り返ったニコスも、しばらくしてぼそりと呟いた。
「うん、あれは紛う事無き……痴話喧嘩だな」
「そうですね。痴話喧嘩以外の何物にも聞こえませんね。怒った私が馬鹿みたいです」
二人は顔を見合わせると、同時にため息を吐いて肩をすくめた。
「帰ろう、ポリーだけ置いておけばいいさ」
「そうですね。レイも、もう一人でも帰れますよね。姫、シルフ、私とニコスの服と体についた水を取ってください」
タキスがそう言うと、二人に向かって一気に風が吹いて、あっと言う間にびしょ濡れだった二人の服や髪が乾いた。
「ありがとうございます」
もう一度顔を見合わすと、そのまま帰ろうと振り返る。
「おい、そこの竜人二人、頼むから帰るな!」
後ろから、本気で焦った蒼竜の声が聞こえた。
「帰るなら、レイも連れて帰ってくれ。頼む」
「そう言っておられますけど、レイ、貴方はどうしますか?」
仕方なく振り返って、レイに答えの分かりきった質問をする。
「帰らない。ブルーがちゃんとしてくれるまで、僕はここを動かないもんね」
どうやら本気で怒ったらしいレイが、その場に座り込んだ。
「レイ、頼むから怒らないでくれ。其方にそんな目で見られるのは悲しすぎる」
思わず、レイの体に頬ずりしてしまった。
その瞬間、レイの機嫌は一気に上昇する。
「ブルー大好きだよ!」
大きな頭に抱きつくと、何度も大きな額にキスをした。
目を閉じた蒼竜が、ゆっくりと低い音で喉を鳴らし始める。
『駄目かもしれないのに、やはり主から離れる事など出来ぬ。こんなにも愛おしい彼を、手放すことなど出来ぬ』
心の中でそう呟くと、ブルーは決めた。
人間は嘘つきだ。こんなにも元気な彼が病気な訳が無い。あの竜騎士達は恐らく、自分に心理戦を仕掛けてきたのだろう。迂闊に彼らの前に姿を見せれば、どんな呪をかけられていたか知れない。
危ないところだった。
もう、絶対にあの人間どもを近寄らせるものか。
その時のブルーは、泣いて縋ってくれたレイの存在がただ嬉しくて、冷静に、正しい判断を下す事が出来なかった。




