無知への怯えと後悔
ブルーは混乱していた。
あの竜騎士は、今何と言った?
この森の竜に、主がいるかも知れないと言う事は、彼らとて竜の主である以上ある程度予想出来た事だろう。
知られた所で、どうと言う事はないと考えていた。どうせ彼らには、この森にも自分にも、何も手出し出来ないのだから。
しかし、その後の彼等の話は、ブルーにとって衝撃だった。
竜の側にいるだけで、人間だけがかかる病があるだと? それも、致命的な?
唯一の特効薬は、王都の白の塔でしか手に入らないのだと言う。
王都の白の塔とは、この国での医学の最高峰の研究機関だ。それは即ち、この世界最高峰という事でもある。
病の名は、竜熱症。そんな話は自分は知らない。
初めて聞く話を即座に否定した。
それなら、彼等が嘘をついていると言う事になる。そんな嘘をついて彼等に何か益があるか?
迂闊な事を言えば、確実に彼等の伴侶である竜よりも強い竜の怒りを買うと分かっているのに、まるで自分に聞かせるかの様に、事細かに病について詳しく話していた。
いや、恐らく、彼等は自分に聞かせるために言っていたのだろう。
あの人間たちを、果たして信じて良いのだろうか?
しかし、過去の余りにも酷い記憶に邪魔されて、ブルーは、どうしても人間への不信感を拭い去ることができなかった。
遠い記憶の中の彼の最初の主は、一年と経たずに原因不明の病で急死した。
余りにも短かった、主との時間を悲しむ間も無く、無遠慮に彼の元へ押しかけて来る大勢の人間達。
お前の次の主は私だ、いや俺を選べと、毎日毎日側へ来て口煩く騒ぎ立て暴れ回った。
怒りのあまり全部まとめて叩き潰してやろうとしたが、優しかった主の家族に迷惑がかかるかも知れないと考えて、ひたすら黙って我慢した。
しかし、頑として言う事を聞かない彼の事を、鎖で繋ごうとする者が現れた時、遂に彼の怒りは限界を超えた。
周り中のありとあらゆる物をなぎ倒し、そのまま人間達の元から逃げ出したのだ。
自分はただ、突然の主との別れを受け入れるための時間が欲しかっただけだったのに。こちらの気持ちを全く考えず、一方的に騒ぎ立てるだけの人間達の事を、心底醜いと思った。そして悍ましいと思った。
自分を繋ごうとした鎖を見た時、彼は人間の事を完全に見限った。
その後、全てに見切りをつけて竜の背山脈を越えようとしたが、どうしても、唯一の主の愛した、この世界を捨てる事が出来なかった。
人目を避け、彷徨って疲れ果てた頃に、この森に辿り着いた。
太古の気配を濃厚に残すこの深い森は、危険な扉が地中深くに眠る、正に最古の森だった。
しかも、その場を守っている筈の要石の役割を持っている古き者は、大掛かりな封印の術を使った事により、疲れ果てて弱り切っていた。
このままでは、悪しき者達がこの世界に出て来てしまう可能性が高い。
知ってしまった以上捨て置くことも出来ず、ブルーは此処を終の住処にする事を決めた。
古竜である彼ならば、封印の役割を果たす要石の代理ぐらいは出来る。
成り行きで決めた住処だったが、豊かな水脈を持ち、生き物や幻獣達も多く暮らすこの森は、思った以上に居心地が良かった。
深い泉の底で、ただ眠り、何度も夢を見た。
その間に、この古き森にいた精霊達を多く受け入れた。
しかし、己の力が更に増していくのを喜ぶでも無く、まるで他人事の様に感じていた。
全ての事がどうでも良かった。彼に出会った、あの日までは……。
「今日もブルーは来ないね。どうしちゃったんだろう」
寂しそうに空を見上げながら、レイがぽつりと零した。
「確かにそうですね。ギードが鉱山へ行った前の日からですから、もう五日になりますね」
薬草園で、レイと一緒に作業をしていたタキスも、空を見上げながら心配そうに言った。
毎日、あれ程せっせと通って来ていたのに、唐突に来なくなると言うのは不安を誘った。
何かあったのだろうか?
「どうでしょう。シルフに伝言を頼んでみますか?」
籠を持ったレイが笑って振り返る。
「そっか、会いに来て欲しいって言えばいいんだね」
タキスは頷いて、空中に向かって呼びかけた。
「シルフ、いますか?」
『何?何?』
『呼んだ?』
『いるよいるよ』
タキスの声に、何人ものシルフが姿を現した。
「蒼竜様に伝言をお願いします。レイが寂しがっているので、お忙しいとは思いますが、是非会いに来てやって下さいと」
いつもなら、頷いて直ぐにいなくなるシルフ達が、なんだか変だ。
困った様にお互いの顔を見て、誰が言うか譲り合っている様だ。
「ブルーに何かあったの?」
籠を足元に置いたレイが、不安げにシルフに話しかける。
「シルフ、言いなさい。蒼竜様に何があったんです?」
いつもよりも強い口調で、タキスがシルフに向かって聞いた。
『蒼竜様は泉にいる』
『でも出たくないって仰ってる』
『声は聞こえてるのに知らない振りをなさる』
『私達も寂しいの』
「それは……」
絶句して、二人は顔を見合わせた。
「どうしたの? もしかして……ブルーは病気?」
シルフ達が一斉に首を振る。
「では何故?」
タキスの問いに、シルフ達は沈黙してしまった。
「レイ、何だか変です。蒼竜様の元へ行った方が良い気がします」
「うん、僕もそう思うよ」
二人は頷いて急ぎ足で家へ戻った。
「ニコス、ちょっと良いですか」
急に戻って来た二人に、せっせと岩塩を砕いていたニコスは驚いて顔を上げた。
「どうした? 何かあったか?」
タキスが先程のシルフとのやり取りをニコスに話している間に、レイは急いで部屋へ戻って服を着替えるとリュックを持って居間へ急いだ。
無言で棚から水筒を出して、水瓶から水を汲んだ。
「レイ、私の分もお願いします」
「待て、俺も行く。レイ、俺の分も頼むよ」
ニコスもそう言って、慌てて部屋へ走っていった。
戸棚から、二人の水筒も取り出して急いで水を汲んだ。
念の為、ベルトの鞄に入れた小瓶に、のど飴を追加していっぱいまで入れる。それからビスケットの瓶を二つ、水筒と一緒にリュックに入れた。
出かける支度を終えて戻って来た二人に水筒を渡すと、急いで上の草原へ向かった。
シルフ達に頼んで、強制的に家畜達と騎竜達を集めて連れ帰り、干し草を出してやる。
タキスがベラに、レイがポリーに、ニコスがオットーに乗った。
「直ぐに戻るから、留守番を頼むね」
自分だけ置いていかれて怒るヤンを、レイが側へ行ってなだめる。
拗ねていたが、レイの腕を甘噛みすると頬擦りしてから干し草の上に座った。
「行こう、時間が惜しい」
タキス、レイ、ニコスの順に外に出て、最後のニコスが扉を閉めた。
「レイ、少し急ぎますが無理しないように。ダメだと思ったら言ってください。シルフが言葉を伝えてくれますから」
「分かった、無理はしないよ」
三頭のラプトルは、坂道を登って一気に走り始めた。
生い茂る林の中も、レイは遅れずについて来る。タキスは密かに感心していた。
本当に彼の成長は素晴らしいと思う。
蒼竜様も、彼の成長を見てあれ程喜んでいたのに、一体何があったのだろう。
正体の分からない不安が一気に膨れ上がる様で、タキスは走るラプトルの上で身震いをした。
泉の底で深い思考の中にいたブルーは、愛しい気配が近付いて来るのを感じ、どうしたら良いのか分からなくなった。
レイに会いたい、その気持ちは間違いない。
しかし、もしあの竜騎士達の言っていた事が本当に事実なら、結果として自分がレイを殺すことになる。
もしかしたら、前の主とのあまりにも早過ぎた別れも、自分が側にいた為に起こった竜熱症のせいだとしたら……どう考えても、辻褄が合いすぎる。信用出来ない筈の彼等の言っていた事が、次第に事実だと思えてきて仕方がなかった。
北の砦にいる彼等に助けを求めるべきか、それとも、自分の知識を信じて彼等が嘘をついていると思うか。ブルーにはどちらが正しい事なのか、決める事ができなかった。
三百年もの長きに渡り、自分の悲しみだけを見て森で過ごした無為の日々が、今は情けなかった。
何故自分は、知識を求める事まで止めてしまったのだろう。
考えれば考える程、思考は堂々巡りを繰り返す。
気付けば、レイと竜人二人の乗ったラプトル達は、川を渡り森の深部へ入って来ている。
もう、ここに来るまで時間が無い。
どうするべきか考えがまとまらない内に、泉の外れにある楡の木の側まで来てしまった。
ラプトルを置いてこっちへ来る。
彼は静かに目を閉じて、愛しい主人が来るのを待った。
「ブルーいるんでしょ? お願いだから出て来てよ!」
静かな泉にレイの大きな声が響く、しかし、泉は静かなままでブルーが出て来る様子は無い。
タキスとニコスも、後ろで不安そうに顔を見合わせている。
「ねえ、ブルーってば、聞こえてるんでしょ? せめて返事だけでもしてよ。それとも具合悪いの?」
長い沈黙が答えだった。
「分かった、じゃあこうするもんね!」
怒ったようにレイがそう言うと、彼はいきなりリュックを背から下ろしてタキスに渡すと服を脱ぎ始めた。驚く二人が止める間も無く、下着一枚になった彼は、一番大きな泉、つまりブルーが沈んでいる泉へ飛び込んだのだ。
呆気にとられた二人の前に大きな水しぶきが上がり、レイは泉の中へそのまま潜って行ってしまった。
「ちょっと待て! 幾ら何でも無茶が過ぎるぞ。泉の底までどれくらいあるんだと思ってるんだ」
慌てて止めようとしたニコスの声も、水の中にいるレイにはもう聞こえない。
タキスは、驚きのあまり声も無く固まっている。
不自然なほど早く、泉の波が収まり再び沈黙が落ちる。
二人は声も無く、レイが飛び込んだ泉を見つめる事しか出来なかった。




