怖い事と怖くない事
「ありがとうね。スマイリーは本当に頼りになるわ」
ゆっくりと歩くガンディに抱かれたまま休憩室へ向かう廊下で、ニーカは小さな声で自分の頬にキスを贈る愛しい竜の使いのシルフにそう話しかけた。
その声に笑顔になったスマイリーの使いのシルフは、ふわりと浮き上がって今度はニーカのその小さな鼻の先にキスを贈り、そのまま胸元に潜り込んで眠る振りを始めた。
そんなスマイリーの使いのシルフを愛おし気に撫でてキスを返したニーカは、意外に逞しいガンディの腕にもたれ掛かり、同じように静かに目を閉じた。
いつの間にか、ずっと続いていた身体の震えは収まっていた。
男達が怒鳴り合い、視界に入れば邪魔だと言って理不尽に殴られるのが日常茶飯事だったタガルノでの生活は、今でも時折不意に思い出されて彼女の体を縛る。
大抵はすぐに落ち着く為に周りは気付いていないが、今でも彼女は、不意に伸びてくる見知らぬ男性の大きな手や、怒ったように怒鳴る大声が怖い。
クロサイトは当然その事に気がついていて、彼女の周りでそういった諍いが極力起こらないように常に周りには気を付けている。
例えば参拝者達の間で喧嘩が起こりそうな時には、無理矢理どちらかを転ばせたり荷物を倒したりして喧嘩を中断させたり、或いはすぐ側で蝋燭を倒したりして気を反らせたりもしているのだ。
そんな事を日々繰り返しているうちに、使いのシルフの扱いは上達し、シルフを通じてでも少しくらいなら術を届けられるようにさえなった。
まだ出来る事は、先程のように一瞬だけ誰かを叩いたり、癒しの術で痛みを少しだけ和らげたり、眠るニーカにそよ風を送る程度だけれどそれでも充分だった。
「僕は何があってもニーカを守るよ。だって……あの日、僕は誓ったんだもの」
庭の真ん中に座るブルーの隣で丸くなっているニーカの愛しい小さな竜は、ごく小さな声でそう呟く。
当然それが聞こえていたブルーとルチルは、愛おし気にスマイリーを見て黙ったまま静かに喉を鳴らし始めた。
初めての戦場にニーカと共に飛び立ったあの、彼らにとっては文字通り運命の日となったあの日。
自分の背から地面に叩き落とされて倒れ、死んだように動かない彼女を見た時、スマイリーは恐怖に体が竦むと言うのを初めて体験したのだ。
目の前が真っ暗になり、自分がこのまま消えてしまいそうなほどの不安と恐怖。
もう二度とあんな思いはしたくはない。そして、自分の背に乗せる彼女に怪我をさせるような事もしない。
しかし、何があろうとも絶対に守ると誓ったのに、去年の花祭りの時にもほんの少し目を離した隙に、危うく彼女を失うところだった。
あれ以来、スマイリーはブルーや他の竜達から必死になってありとあらゆる事を教わり続けた。
どんなに下らないと思えるような事でも、もしかしたらいつか、何かの役に立つ時が来るかもしれない。
そう思って、どんな些細な事も疎かにしなかった。
スマイリーが背負っているものを理解している他の竜達も、彼に知識を与えるのを躊躇する事は無かった。
それどころか、まだ幼い彼女が成人するまでのわずかな間に与えられる限り与えるつもりで、それぞれの竜達もブルーの行っているスマイリーへの教育に、一致団結して協力していたのだった。
スマイリーを賢く、そして逞しく成長させる事の本当の意味を竜達は理解していたからだ。
一方、自分達のせいでニーカを怯えさせてしまったレイ達三人は、何となくしょんぼりとしたまま黙って、ニーカを抱いたガンディと、そのすぐ後ろを歩くクラウディアとジャスミンの後ろを少し離れて歩いていた。
誰からともなく、三人の口から重いため息が漏れる。
「……怖がらせちゃったな」
「悪い事したよ、つい熱くなって頭に血が昇ってた」
「後でもう一度謝らないと」
小さな声でそう言い、互いの顔を見て困ったように肩を竦めた。
しかし、そんな内緒話も静まり返った廊下では存外よく響いてしまい、ガンディの腕の中で目を開いたニーカは、少し体を起こして後ろを歩く彼らを覗き込むように見て、笑顔で手を振った。
「こっちこそ、せっかくお話ししてたのに気を悪くさせてしまってごめんなさいね。ちょっとびっくりしただけだから気にしないでね。もう大丈夫よ。あなた達は興奮すると大声になるのね。もう怖くないから次からは遠慮なく大声で討論して頂戴な」
明らかに無理しているであろうその言葉に、三人揃っていつもレイがしているように眉を寄せる。
それを振り返って見ていたガンディとニーカがまず揃って吹き出し、ニーカの言葉に振り返っていたクラウディアとジャスミンもほぼ同時に吹き出した。
「そ、其方達、なんと言う顔をしておるか。同調するにも程があるぞ」
座り込んで笑っているクラウディアとジャスミンを見て、互いの顔を見たレイ達三人も笑い出す。
何事かと廊下に出て来た執事が見たのは、廊下で全員揃ってしゃがみ込んだり壁にもたれかかったりして、笑い転げている姿だった。
「おお、これは美味しそうだな。では頂くとしようか」
部屋に入ったガンディの声に、後ろから覗き込んだレイも歓声を上げた。
そこには、以前の勉強会のように、好きな料理が好きなだけ取れるように、様々な料理がお皿に乗せられて並んでいる光景だった。
しかも、その一つ一つがとても豪華で、訓練所の食堂とは全く違っていた。
いつも厳しい事を言う執事をレイが満面の笑みで振り返る。
「まあ、お勉強にも休憩は必要でしょうからね。本日の昼はお休みといたしましょう。どうぞごゆっくりお過ごしください。ただし、夕食からはまたしっかり学んでいただきます」
笑顔でそう言って一礼すると、執事は少し離れた壁際に置かれた衝立の後ろへ下がって行った。
これでもう、レイ達以外は調理台の前で肉を焼いてくれている見覚えのある料理人だけになる。
「あ、ルディ。またお世話になります!」
最初に気が付いたレイが、そう言いながら笑顔でお皿を手に駆け寄る。マークとキムも慌ててお皿を手にしてその後に続く。
「ルディさん、またお世話になります。うわあ、美味しそう!」
「ルディさん、またお世話になります。ああ、駄目だ。選べないよこれ」
レイに続いてマークとキムも笑顔で料理人に挨拶をする。
「私のような者の名まで覚えていてくださりとても嬉しいです。どうぞ、お好きなだけお召し上がりください」
揃って元気な返事をした三人は、また揃って同時に振り返った。
「ほら、何してるの。おいでよ。ルディさんが焼いてくれるお肉、すっごく美味しいんだから!」
その言葉に、まずニーカが大喜びでガンディの腕から下ろして貰って駆け寄り、クラウディアとジャスミンも、手を取り合って走って行った。
そのまま笑顔で肉の争奪戦となり、時折歓声を上げながらお行儀悪く好きなものを好きなだけ取り合い、顔を見合わせては笑い合っていたのだった。
ターシャ夫人とロッシェ僧侶に目配せしたガンディは小さく頷き合う。
それから一つ深呼吸をしてお皿を手にした。
「儂の分も残してくれよ」
そう言いながら、ガンディも笑顔で争奪戦に参戦したのだった。




