31 香織、目撃する
その日、香織は厭なものを見た。
夏休みが終わり、またあの暑苦しい制服を着て高校へ行って、今はその帰りだ。今日は始業式だったので、部活もない香織は絶賛気温上昇中の昼日中に、一人帰路についていた。
最近何かとつるむことが多かっためぐみは、やれ文化祭の準備だの、大会に向けての作品制作だので忙しく、今日も部活に顔を出している。いつも香織に合わせてくれるので、書道部がこんなに多忙な部活だとは知らなかった。夏休み前はけっこう一緒に帰っていたが、これからはちょっと遠慮しようと思う。めぐみが好きでやっている部活の邪魔をするのは忍びない。かといって香織自身が書道部に編入するつもりもない。めぐみにはひどく残念がられるが、性に合わないのだから仕方がない。
香織は気だるそうに額から流れてくる汗を拭う。この気候ではとてもまだ「秋」という感じはしない。空は濃い青をしていて、そこに浮かぶのは入道雲だ。日本贔屓の母によれば「日本は四季があって素敵」なのだそうだが、香織は半分疑っている。そんなものは写真の中にしか存在しないのではないか。少なくとも香織がこちらに来てから過ごしやすいと思った気候は今のところ無い。
自宅までの最後の通りに差し掛かったとき、奥の路地から何かが転がり出てきた。それは通りの中央辺りで止まった。はじめ、香織はそれはボールか何かだと思った。しかしその影がのそ……と起き上がったので、香織は思わず足を止めた。それは小さな子供だった。この距離ではよく見えないが、おそらくまだ小学校に上がる前の。
立ち上がった子供は、次の瞬間飛び出てきた路地の方へ勢いよく走っていった。そしてまた間を置かずに転がり出てくる。次は道の端まで転がった。
「……?」
これは一体何だろう。あの子は一体何をしているのだろう。
香織がそこから目を離せずに立ち尽くしていると、同じ路地から誰かが出てきた。スーツを着た大人の男。その男はまっすぐその子供の元に歩いていき、まだ転がったままのその子を、足蹴にした。
「!?」
男は容赦ない様子でその子の腹辺りを何度も蹴る。子供はさらに転がって塀に背をぶつけている。
尋常な状況ではない。頭の隅では子供を助けなければ、と思っているが、足が動かない。恐怖が先にたってそこから一歩も進むことができない。
その内に男は子供に向かってしゃがみこみ、何事かを小声で話している。途中で何か呻くような声が聞こえてくる。しばらくそうしていた後、男は通りの奥へと歩き去っていった。
男の影が見えなくなって、ようやく香織は動くことができた。先程とは違って子供が立ち上がる気配はない。近づいてみてその子が男の子であることがわかった。その子はお腹を抱えるようにして泣いていた。
「ぐ、うぅ……」
「君、大丈夫?」
しゃがんで男の子の顔を覗く。大声をあげて泣いていてもおかしくないほど幼いその子は、歯を食いしばってほとんど声を出していない。よほど苦しいのだろうか、と香織は心配になった。救急車を呼んだほうがいいだろうか。
「おねえちゃん、だれ」
逡巡していると、男の子はかすれる声で訊いてきた。
「私は、香織。この近くに住んでるの。君は?おうちはどこ?立てる?」
まだ鼻をぐずぐずさせながらも、泣き止んだその子は体を起こそうとしながら応える。
「ぼくは、だいき。おうちは、あっち」
塀に背を預けて座るのがやっとという様子で、だいきと名乗ったその子は家の方を指さした。どうやら飛び出てきた路地の奥の方のようだ。
「お腹痛いの?さっき大人の人に蹴られてたでしょ」
「みてたの?」
「見てたというか、見かけたの」
香織は助けられなかった負い目から気まずげに応える。しかしだいきは責める様子もなく、まだ苦しそうにしながらぽつりと言った。
「あいつ、きらいだ」
「そうだよね。あんなことして酷いよね。恐かったね」
見ていた香織でも恐かったのだ。実際にその暴力を受けていただいきの恐怖など想像に余りある。だが当のだいきは首を横に振る。
「そうじゃなくて、あいつがくるとおかあさんがかなしそうにするんだ」
「じゃあ、あいつは君の家に来たってこと?」
香織が訊くと、だいきはうなずいた。なんだか訳がわからない。だいきの家に用事があった大人の男が、なぜだいきをあんな風に足蹴にしていたのか。
「ねえ、その男って何しにだいきの家に来たかわかる?あいつは一体誰なのか知ってる?」
なぜそんなことを訊かれたのかわからないというように、だいきはきょとんとした。だが香織が真剣だったからか、うーんと考えながら応えた。
「おかあさんは、まだらのさんってよんでた。えぇっと、なんていってたっけ?たくちかいはつ……わすれちゃった」
まだらの。その名前には聞き覚えがあった。この辺りの再開発計画について説明してまわっているという営業マンが確かそんな名前だった。
じゃあ、さっきの男が。
香織は無意識のうちにその男が去っていった方を睨み付けていた。




