17 香織の家庭事情
「ただいま」
「Oh,おかえり」
夏休み中の補習授業も今日で終わりだ。やっとこの蒸し暑い中でも着ることを強制されていた制服という代物からも解放される。夏服とはいえ、ごわごわした厚手の生地は汗を逃がしてくれず、ただでさえ湿気の多い気候に参っている香織にはダメージを与えるものでしかない。なぜこんな気候に合わない服をいちいち着なければならないのか。しかも日本ではこれに似た衣装を着たアイドルが席巻していて、無理矢理コスプレをさせられているような気がして嫌になる。
よって香織にとって「忌むべきもの」である制服をリビングでポイポイと脱いでいく。それを見咎めた母が、針仕事の手を止めて香織に言う。
「着替えなら部屋でしなさい、香織」
キャミソールとボクサーパンツだけになった香織は、ちょっと悲しげな目でその母を見る。
「……ねぇ、ママ。ママはCathyって呼んでよ。私の本当の名前を」
「あら、香織だってあなたの本当の名前よ」
そう言うと今度はその母が物憂げな顔をする。本当は母にこんな顔をさせたくはない。だから今までは言い出せなかった。母は続ける。
「ママはね、あなたが一日でも早くこちらの生活に馴染むことが大事だと思ってるのよ。だから家の中でも日本語を使う。こちらに来る前にもいろいろ勉強したけれど、今もずっと勉強よ。香織が大変なのはわかってる。できるだけ助けてあげたいと思ってるわ」
母がこういう人なのは香織もよくわかっている。香織が両親をパパ、ママと呼ぶようになったのは、この母の助言による。この呼び方であれば日本にも浸透しつつあるので、浮かずに済むだろうという配慮からだった。その細かな配慮はひとえに、香織にも早く日本の生活に魅力を感じてほしいという願いからだ。
香織の父が日本人だからというだけではなく、母は本当に日本が好きだった。今も手元で縫っているのはちりめんの巾着袋だ。夏祭りに着ていく浴衣に合わせて手作りしているのだ。その姿はとても楽しそうで、母は日本に来れて嬉しいのだなぁと思う。
じゃあ、自分はどうか。母のように楽しむ余裕は、正直ない。不安ばかりが膨らんでくる。できることなら、自分が育ったあの懐かしい生家に帰りたい。
「Oh,my dear.What's up? 」
まるで小さい子どもにするように頭から抱き込まれる。いつの間にか香織は泣いていた。そんなつもりはなかったのに。
「まぁ、あなたちょっとhomesickになってるのかしらね。そんなに不安になることが、何かあったの?」
母に言われて、そうかもしれないと思った。最近ことさら故郷が恋しい。
「ママ……」
涙が引いてきた頃合いで、香織は母に話した。
「私たち、またどこかへ引っ越ししなきゃならなくなるかもしれない」
「うん?大丈夫よ。パパのお仕事はしばらく今のところだから」
「ううん、そうじゃなくて」
うまく説明できないことをもどかしく思いながら、つっかえつつ続ける。
「噂、らしいんだけどね、この辺りって、再開発計画?の場所みたいで、みんな出ていかなきゃいけなくなるかもって。そしたらみんな、バラバラになっちゃうかもって……」
「それが心配だったのね」
渋い顔のまま話し終えた香織に対し、母はなぜかほっとしたように微笑んでいる。
「ママ?」
「ふふ。つまり今のここから離れたくないのね。こちらでもいい友達ができたみたいね」
「うん。だからね」
香織がちゃんと人間関係を築けていることに安心したような母に、問題はそこではないと訴えようとするが、母に留められる。
「No problem.心配ないわ。パパだってついてるんだから」
「……うん、そうだね」
基本的に楽観的な母にはこれ以上言っても伝わらないだろうと、香織はなかば諦めの境地だった。しかしそれが深刻に考えすぎる香織にとってはその楽観が救いになることもまた事実だった。




