15 悠星の考えごと
「ねぇ、お母さん」
その日の夕方、悠星はパートから帰ってきて夕飯の仕度をしている母、暢子に話しかけた。
「何、どうしたの。あ、悠星。あんたちゃんと夏休みの宿題やってるでしょうね」
「やってるよ」
いきなり小言が飛んできた。いつもの母だ。ちょっとげんなりしたようにため息をつきながら、心のどこかではほっとしていた。悠星に小言を言うことも忘れているなどいつもの母ではない。暢子の指摘通り、宿題などまだ開いてもいない。
食卓の椅子に後ろ向きに座り、暢子の背に向けて話しかける。
「今日おじさんのとこに行ってたんだけど、おじさんがお母さんに聞きたいことあるらしいよ」
「え、おじさんって、大場さんのところ?あんた本当になついてるわねぇ。でも、え、お母さんに?珍しいわねぇ、何かしら」
手は動かしたままぶつぶつ呟いている。悠星が「おじさん」と言っただけで俊也のことだと通じたのは、いつもそう呼びならしているからだ。
あまりにうんうんと考え込んでいるので補足をした。
「なんか、再開発計画のことで訊きたいみたいだよ」
ガシャーン、と盛大な音を立てて何かがシンクの中に落下した。
「うえっ、え、お母さん、大丈夫?」
びっくりして変な声を上げた悠星は、慌てて椅子からおりて暢子の手元を覗きこむ。落ちたのは包丁だったので再びぎょっとした。なぜか固まっている暢子をこちらに向かせてどこか切っていないかくまなくチェックする。
「よかった、傷ない。……お母さん、包丁落としたら危ないよ」
安堵したものの、まだ心臓が跳ねている。普段からちょっとおっとりしているというか、抜けているところがある暢子だが、さすがに包丁を取り落とすところは初めて見た。もしどこかにかすったり、刺さったりしていたら……と考えるとゾッとして、今になって冷や汗が浮いた。
「あんた、なんでそんなこと知ってるの?」
「へ?そんなことって何?今お母さんが目の前で包丁落としたんじゃん……?」
ちょっと怒りたい気分で暢子を睨んだのだが、一瞬でその気分は霧散してしまった。暢子に、表情がなかったからだ。
様子がおかしい。
いつもなら、「悠星にだけは言われたくないわ」とか何かしら反論してくるのに、そしてそのまま親子喧嘩のようになって最後には悠星の方が悪いところを指摘されてこちらから謝ることになるのに、今の暢子はまるで魂が抜けてしまったかのようだ。それは包丁を落としたところを見たことよりもずっと恐ろしいことのように思えた。
「そうじゃなくて、再開発計画のこと。なんで知ってるの?」
言葉の出ない悠星に、暢子は再び訊いてくる。どうやら暢子は悠星が再開発計画という言葉を出したことに疑問を持っているようだ。
「あー、おじさんのとこにその説明する人が来て、で、その後おれもおじさんから訊かれたから。お前んちにも話がいってるはずだろって」
「……そう」
悠星が応えると、暢子は目をそらして何か考えこむような素振りをした。そのぼんやりした様子のまま元の作業に戻ろうとするので、悠星が慌てて止める。
「待って、ストップ。そんなんで包丁持たないで。続きおれがやるから。また落としたら大変だし」
暢子の体の前に割り込んで暢子の手から包丁を奪う。そうすると隣から不満げな声が聞こえてきた。
「失礼ね。悠星がやるくらいならお母さんがやった方が安全よ。手切るんじゃないかって気が気じゃないし」
「うん、普段はね。でも今日はだめ。ケガするのお母さんの方だから。今日一日包丁触るの禁止。あ、あと火も。ほら、おれが使ってた椅子に座ってて、そこから指示して。次何すればいいの?」
「もう、言い出したら聞かないんだから」
ぶつぶつ言いながらも、暢子は仕方ないというように椅子に座った。それで悠星は暢子が途中までしていたじゃがいもの皮むきを始めた。手つきは覚束ないが、授業で調理実習もあるのだ。一通りのことはできなくもない。
暢子にあれやこれやと指示されながら、野菜を切ったり湯を沸かしたりと作業を進めていく。その間、悠星はずっと考えていた。
ついさっき、いつもの母に戻ったと安心したばかりなのに、また母の様子が変わってしまった。そしてその原因は、自分が言った言葉だった。それは全くの予想外だった。
再開発計画という言葉を聞いたときの暢子の反応。あの無表情。止まった手。一体再開発計画とは何なのか。今思えば、俊也も随分渋い顔をしていた。さっきはただ訪ねて来たあの男が気に食わなかったとかそんな理由だと思っていたが(それは悠星自身が感じた印象だった。張り付いたような営業スマイルが気色悪かったのだ)今となってはその計画の方に起因していると見た方がよさそうだ。大人たちの反応を見る限り、それは決して良いことではないのだろう。何が起きているのか。あるいは何が起きようとしているのか。
胸の奥がざわざわと騒ぎ出すのを、悠星はどうすることもできなかった。




