10 祖父の威厳
「悠星」
「はい」
「お前は兄らに比べると、ちと精神が弱いところがあるの。精神鍛練は重要だぞ」
「……はい」
桂木家の母屋ではなく、本堂の中に悠星はいた。蝋燭とわずかに差す外からの光のみが照らす室内は暗く、空気はピンと張りつめている。清浄な空間。邪気など入り込む余地もない。そんな、まるで穢れを一切寄せ付けないとでもいうようなこの空間が、悠星は苦手だった。寺を継ぐのが自分でなくてよかったと心の底から思う。
そんな悠星に背を向けたまま、説教じみた言葉を投げ掛けているのが、他でもないこの寺の現住職であり、祖父の桂木 照善である。
三学期制をとっている悠星の中学は今日、一学期の終業式だった。すぐに遊びに行くつもりでダッシュで帰ってきた悠星を待ち構えていたのが、珍しく母屋にいた照善だった。そのまま「悠星、ちょっとこちらに来なさい」と言われて有無を言わさず連行されたのだ。普段ほとんど立ち入ることのない、この本堂に。
法衣のままの照善は貫禄と、言い知れない迫力がある。禿頭は磨かれた玉のごとくピカピカで、とても七十を越えているとは思えないほど姿勢もよく、肌にも張りがある。上背もありがたいもいいので、正座した姿は後ろから見ると黒い小山のようだ。そんな体躯のなせる技なのか、僧の常で口調は柔らかだが、逆らうことは許されないような、妙な強制力があるのだ。よって促されるまま、静静と本堂までやって来た。
しかし、説教が長く続くことはないことも悠星は知っている。生まれてこのかた、この一見厳しそうに見える祖父からこっぴどく叱られたことは一度もない。現に今も悠星に向き直った照善の表情は穏やかだ。きれいな禿頭を撫でながら言葉を継ぐ照善は、ただの孫に甘い好好爺である。
「まぁ、そうは言うても悠星は悠星じゃ。何かと兄らと比べられるだろうが、そんなことは気にせんでええ。お前にはお前の過程があるんじゃろ」
悠星にとって、家族の中で一番の理解者はこの照善だった。あまり普段ゆっくり話すことはないが、こうして顔を合わせれば母や兄たちとは違った目で悠星を見てくれる。それは少しむず痒いくらい嬉しいことだった。その威厳に当てられて言葉少なになってしまうものの、はにかんで小さくうなずく。
「明日から夏休みじゃろ。何か入り用のものがあれば言うてええぞ」
「あぁ、うん、ありがと。今は大丈夫」
「そうか。まぁ、また必要になれば言いなさい」
「うん」
重ね重ね、孫には甘い照善であった。
照善が厳しいのはひとえに己自身に対してであった。住職として檀家の法事や葬式に駆け回る一方、自己の修行や鍛練も怠らない。僧というのは案外体力のいる職業である。人が倒れても自分は倒れてはいられないので、体力づくりは常に心がけている。おかげで、というか、そこまでする必要があるのかと疑いたくなるくらい、照善は僧とは思えないような筋骨隆々の肉体をもつ。法衣の上からではあまりわからないが、それでも肩の線などでその肉付きが透けて見える。
悠星にとって照善は、見た目は怖いが気のいい祖父である。たまにあるさっきのような呼び出しはちょっと面倒だったりむず痒かったりするが、疎んじる気持ちはない。
一日のほとんどを本堂で過ごす祖父を残して母屋に戻ると、今度は母の暢子と鉢合わせた。普段はパートに行っている暢子だが、どうやら今日は休みらしい。
「あら、悠星。おかえり」
「ただいま」
ただ、ちょっと様子がおかしい。なんとなく上の空で、いつものような小言が飛んでこない。ダイニングの椅子に座って、一点を見つめたままぼうっとしている。テーブルの上に何かの書類がばらけて置かれている。
「どうかしたの?」
「ん?どうもしないわよ。制服着替えちゃいなさい」
「はーい……?」
やはりいつもの母だったか、と思ったが、やはり何か変だ。何がどう変なのかは説明しがたいが、強いて言えば元気がない。悠星を急き立てる普段の母は、自分もきびきび動く。こんな風にぼうっとしているのは稀だった。
ーー具合でも悪いのかな。
その身を案じながらも、とりあえず自分のことをするため部屋に引っ込んだ。母の手元に置かれた書類が何のものなのか、そのときにはまだ知らなかった。




