◇新たな訪問者
長閑な田園の中を横切る農道を、少々くたびれた馬に跨った壮年の男が、ゆっくりと進む。
口元をへの字に結び、その上に乗っかるカイゼル髭は、ピンと空に向かって跳ね上がる。薄汚れているが、値の張りそうな衣服とマントを纏っていることから、それなりの身分ある者だと思われた。
男が手を翳して前方を眺めると、粗末な作りの小屋が建ち並ぶ村らしきものが見えてきた。
ちょうどその時、傍らの畑で農作業に勤しむ老夫婦が目に入った。
「おい、あれに見えるのは、アルト村か?」
馬上から、ぞんざいな調子で声を掛けるカイゼル髭の男。それに、老夫が上目遣いで「へぇ」と答えるものの、男は「ふん」と鼻を鳴らすのみで礼も言わずに立ち去ろうとする。しかし、すぐに馬の歩みを止めると、もう一度老夫に目を向けた。
「今年の作柄はどうだ、豊作か?」
「……豊作とまでは言わねぇですが、例年よりは多少ばかし」
男が何者だろうと首を傾げつつ答える老夫に、カイゼル髭の男は「ほう、それはそれは」と初めて顔を綻ばせた。それっきり老夫には目も向けず、馬を村へと急がせる。短鞭で容赦なく馬を叩くが、嘶きと共に急に馬が棹立ち、男はあっさりと転がり落ちた。
強かに腰を打ちつけ、男の表情が痛みに歪みこめかみには青筋が浮かぶ。
「この駄馬めがぁ!」
長閑な田園に、男の怒声が風に乗って響き渡った。
カイゼル髭の男の名前は、エグモント・ビーレル。この地域に、新たに赴任してきた徴税官だった。以前は、王都にて役人をしていたが、この地の前任者が引退した事から徴税官の地位を引き継いだのである。
元王都の役人。中央政府の官僚ともなれば、国の運営にも関わる重要な職分。徴税官といえど地方の小役人にすぎず、中央政府の官僚とは身分の上でも雲泥の差がある。それなのに何故エグモントが、この地に徴税官として赴いたかといえば、所属する派閥が争いで負けた上での事だった。
要は、体の良い左遷。いわゆる都落ちと言われるものでもあったのだ。
だが、エグモントはまだ諦めてなどいなかった。
この地で私腹を肥やし、蓄えた金銭をばら撒いて中央に返り咲く気が満々だった。この諦めの悪さ、しつこさこそがエグモントの美徳、いや悪徳ともいえるのである。
「痛ったたた、まったく……ん、あれは?」
痛めた腰を擦りながら立ち上がる拍子にふと、村の北に広がる森の中に聳える塔がエグモントの瞳の中に映る。
――あのような物、前任者からの報告にはなかったが。
その塔は、陽の光を浴びて、頂上部が微かに七色に輝いていた。
エグモントは、「ふむ……金に成るかも知れぬ」と呟く。
金の匂いに敏感な小悪党特有の下卑た笑いを顔に張り付かせ、ひとりほくそ笑むのであった。
◇
その頃、塔に引きこもる巧美は、自分の部屋でまだ眠っていた。
悪意が近付きつつあるのも露知らず、夢を見ていたのだ。
まだ若かった十五歳の頃の夢。それはちょうど、春先の中学校の卒業式での出来事だった。
「田中、巧美殿!」
スピーカーから流れるアナウンスに促され、パイプ椅子に座る巧美が席を立つ。
周囲には巧美と同じく席に座る同級生たちが居並び、その中を館内の正面に設けられたステージの上、その壇上へと静々と進むのである。
そう、これは卒業証書の授与式。誰もが経験する晴れ舞台。
しかし、巧美にとってはただの苦痛でしかない。幼い頃から人見知りの激しかった巧美には、大勢の人々から注視を浴びる行為は耐え難いものだった。壇上へと登る際の心持ちは、地獄に落とされるのにも等しい。
だから緊張のあまり――。
校長先生が差し出す証書を受け取ろうと、ようやくの思いで腕を伸ばす巧美だった。
だがその時、
「くしゅん!」
と誰かが、大きな声でくしゃみをしたのだ。
静かな館内に、その音は予想以上に響き渡り、緊張が極度に達していた巧美にも伝わると、劇的な効果をもたらした。
ビクリと、体が思ったよりも反応する。そのはずみで、巧美は大きくつまずいた。ガチガチに硬直して棒のようになった体が、前のめりにバランスを崩し、伸ばしていた手は証書を通り過ぎ校長先生の髪の毛を掴んでいた。
ずるりと滑り落ちる髪の毛。
巧美は、そのまま派手な音を鳴らして引っくり返った。
そう、校長先生はカツラだったのだ。
館内に満ちる静寂。しかしそれは数瞬だった。
誰かが「クスリ」と漏らした失笑が引き金となった。その後に起きたのは、笑いのうねり。たちまち館内は、大爆笑の渦に埋め尽くされていく。
巧美は呆然となり、校長先生の怒り心頭に発した声と皆の笑い声を聞いていたのだった。
それが切っ掛けとなって、巧美は家に引きこもったのである。せっかく合格していた公立高校にも進学せず、元々その素質があったのか、それ以来の十五年ひたすら自室に引きこもり続けた。
そして、十五年後に……。
そこで、巧美は目を覚ました。
「ふぅ……」
小さく息を吐き出し、ブルっと体を震わす。
「歳を取ると、トイレが近くなるって本当だな」
のそりと起き上がると、トイレへと駆け込む。そして、手を洗いながら自分の姿を鏡に映した。
――俺も歳を取った。
洗面所の鏡の向こうに映る姿は、少し髪が薄くなり、所々に白い物が混じる。目の下や頬は緩み垂れ下がり、どこからどう見ても、ただのおっさんである。そのまま視線を下へと落とすと、掴めば中年のエキスが滲み出てきそうな見事な三段腹が目に入った。
それでも――
「ま、いっか。とりあえず、もう一度寝るか」
嘆くでもなく普通に呟くと、ベッドにまた戻りぬくぬくとした毛布にくるまるのだった。
だらだらとした自堕落な生活こそ、巧美の日常なのである。
そう、巧美は生粋の引きこもりだったのである。