◇引きこもり賢者
緑豊かな山々の裾野に広がる田園。春の穏やかな日差しが降り注ぎ、爽やかな風が吹き抜け作物の葉を揺らしていく。このゼノアス王国内では、どこにでもあるありふれた農村の風景。見ているだけで欠伸が出そうな、安穏とした景色が広がる。
そんな長閑な農村の畑では、数人の村人達が作物の手入れを行っていた。
その中のひとり、初老の農夫が屈めていた体を伸ばし、腰を軽くトントンと叩く。
「ふぅ……さすがに歳かのぉ……少々腰に堪えるわい。ばぁさん、少し休憩しようかのぉ」
農夫は額の汗を拭うと、夫婦なのか、傍らで同じく農作業を行う初老の女性に声を掛けていた。
「……そうさねぇ」
老婦は農作業で俯けていた顔を上げると、陽の光を浴びて眩しそうに目を細め朗らかに笑って答えた。老夫婦は二人して笑顔を見せ合い、近くの盛り土の上に腰を下ろし、ほっと一息ついた。その様子を、他の村人も手を休めにこやかに眺める。
なんとも牧歌的で長閑な風景。
だが――
老夫婦が休息する場所の近く――草木が生い茂る藪の中から、村人達を注視する怪しい瞳が数十。それは人間とは思えぬ邪悪な赤い輝きを宿す瞳。人の背丈の半分ほどの短躯に、毛髪ひとつ無い緑色した皮膚はぬらぬらとひかっている。そこに隠れていたのは、額から禍々(まがまが)しい捻じれた角を生やす小鬼達。その数は軽く三十を超えていた。
「グギャギャギャアァァァァ!」
耳を劈くような叫び声を上げ一匹が飛び出すと、他の小鬼達も一斉に草むらから飛び出した。
途端に、農作業を行う村人達から悲鳴があがる。
「ゴ、ゴブリン(小鬼)だあぁぁぁぁ!」
鋭い牙が生える歯ぐきを剥き出し、ゴブリン(小鬼)たちは手に持つ棍棒を振り回して村人たちに襲い掛かったのだ。中には、どこから持ってきたのか、錆の浮いた長剣を振り回すゴブリン(小鬼)までもいた。
ゴブリン(小鬼)は、大人の背丈の半分ほどしかない身体。この世界において、個体として見た場合はそれほど脅威となる魔獣ではない。しかし、その繁殖力は高く、野山に営巣をつくると爆発的に数を増やし群れを為す。一匹見つければ数十匹はいると言われるほどなのだ。しかも、その性質は凶暴であり、ある程度の知能を有することから、得物を手に持ち他の生き物に襲い掛かることでも知られていた。
農村部の収穫期においては農作物が狙われるため、もっとも警戒すべき厄介な魔獣の一種でもあった。が、ここ数年、村の周辺ではその姿を見掛けた事もなく、村人たちにも油断が生じ備えを怠っていたのである。
だから、突如現れたゴブリンの群れに、農作業中の村人たちは慌てふためき逃げ惑う。たちまち、畑の中にいた村人たちは阿鼻叫喚に包まれた。
「ひいぃぃぃ、お爺さん」
「ばあさん…………」
畑の傍らで休憩していた老夫婦も、驚きと恐怖で身を竦め動けないでいた。
そんな肩を抱き合う老夫婦にも、数匹のゴブリンが棍棒を振りかざし襲いかかった。
が、その時――
――バシュウゥゥゥゥン!
畑に響き渡る風斬り音。その音と同時に、ゴブリンの頭が熟れた果実のように弾けて飛び散った。
しかもそれは、老夫婦の前に飛び出したゴブリン(小鬼)だけではなかった。その一匹を皮切りに、次々に風斬り音と共に倒れるゴブリンたち。数瞬後には、どろりとした濃緑色の体液を撒き散らし、全てのゴブリの頭部が吹き飛ばされ畑に転がっていた。
「ひぃぃぃ……」
突然に生じた周囲の酷い有様。老夫婦も悲鳴と共に、ぶるぶると小刻みに体を震わせる。だが、すぐに何かに気付いたのか、まだ震える両の手のひらを合わせて、北に向かって深々と頭を下げる。それは、他の村人達も同じであった。
そして、皆が同じ言葉を繰り返す。
「賢者様、ありがとうございます」と。
中には、感激のあまり涙を流す者さえいるほどであった。
彼らには分かっていたのだ。今、ゴブリンの群れを、誰が殲滅したのかを。
村人達、皆が揃って頭を下げる先。この農村から北の方角には、霊峰アムルタ山脈の中腹から裾野にかけて、鬱蒼と生い茂る広大な森が広がっている。そして、森の中央には、雲に届けとばかりに天高くそびえる塔が建つ。
周辺に点在する村々の人たちから、その森は『アムルタの森』と呼ばれていた。アムルタとは、古代語で『聖なる』という意味を表す。その『聖なる』の名を冠する森の中央に建つ塔は、村人達からは『賢者の塔』と呼ばれ敬われていたのである。
◇
「うひょおぉぉぉぉぉ! 見たか、俺様の力を!」
巧美が、得意げに鼻の頭をひくひくと動かす。
いい歳をしたおっさんだ。それが、奇声を発して子供のように、跳びはねはしゃぐ姿は少々見苦しい。
ここは村人たちが、『アムルタの森』と呼んでいた大森林の中央にそびえる塔の屋上。周囲には高さが1メートルほどの腰壁が囲み、薄く透き通り七色に輝く半円のドームに覆われていた。その中央には数メートルに及ぶ長大な銃身を備える、巨大な魔力変換型光子銃『ミョルニルⅣ型』が、椅子付き可動台座と共に設置されていた。
ご大層な名前だが、巧美が製作して適当に名付けた魔銃。
巧美は中二病を発症して、未だ完治していないおっさんでもある。
鼻歌混じりで、ルンルンとスキップする巧美が、ハッとした様子で振り返った。
背後に気配を感じたからだ。
巧美の視線の先にいたのは、長い黒髪をツインテールに結ぶ端正な顔立ちの美少女。濃紺のワンピースの上に、フリル付きの白いエプロンを身にまとう。いわゆる、メイド服と呼ばれるものだった。ご丁寧に、フリル付きの白いカチューシャまで頭の上に乗っかっていた。いかにもといったメイド姿。そして、人形のように無表情のまま、感情の込もらない冷たい口調で言葉を投げかける。
「ご主人さま、情けない姿はお止め下さい」
「い、いや、違うんだ。こ、これは村に魔物が……」
「賢者が言い訳ですか? 見苦しいですよ」
「いや、だ、だから……」
「お仕置きが、お望みですか?」
メイド女性の手にはどこから取り出したのか、いつのまにか真っ黒な鞭が握られていた。その鞭が床を叩き、パシンと甲高い音を鳴らす。
「ひ、ひいぃぃ、優子さん止めてえぇ!」
巧美の言葉に、眉ひとつ動かさない優子と呼ばれたメイド女性。氷のように冷たい眼差しを巧美に向けた。無表情な顔には、ガラス玉のような瞳がキラリと光る。
それもそのはずで、優子さんと呼んでいたメイド女性も、巧美が製作した自動人形なのだ。
鞭を振り回し、パシン、パシンと音を鳴らして迫る優子に、何故か巧美の表情はどこか嬉しげにさえ見える。
もう一度、言おう。
巧美はいい歳をしたおっさんである。
中二病で、変態なおっさんでもある。
以前いた世界。日本で暮らしていた15歳の春から引きこもり15年。
出会った女神に異世界に飛ばされてからも、塔に引きこもって15年。
合わせて30年、筋金入りの引きこもりのおっさんである。