憲兵の帽子・6
それからも、クロエはドナトの世話に何度か訪れた。だが、具合が良くなり、一人で不自由がなくなったため、クロエにはもう来なくて良いと伝えた。
彼女は何か言いたげだったが、結局、ドナトの言葉に従った。
その日以来、彼女と会う事はなかった。
日常生活に不備は無くなったが、足が完全に治癒するには、ドナトが考えるよりも遅かった。結局、完全に治る前に憲兵の仕事に戻ることにした。今はドナトの同期であった区間長補佐が、二十一区の区間長に繰り上げされていた。
新たな補佐も補充されており、ドナトに居場所はなかった。
仕事の折半を申し出たのは、マーテーだった。
彼は、ドナトの事件の一件以降、戒心したようで、ぴたりと酒を辞めたという。
実際に、それ以降マーテーから酒の匂いを感じることはなく、勤務態度は、かつて区間長であった時と同じようだった。
結局、ドナトは臨時の区間長補佐となった。その後の事は、ころ合いを見て決めることになった。
約二か月ぶりに、ドナトはこの広場に戻ってきた。季節はすでに冬。時折吹き荒れる木枯らしが、体に突き刺さる。
この季節になると、広場の姿はまた変わっていた。花屋の屋台を見る事もない。
仕事についたものの、こう寒いと無理をする事は出来なかった。当然、見周りなども行えず、やることと言えば、日報を書いたり、他の雑用をこなすことだった。
体もだいぶ慣れてくると、夜勤を頼まれる事もあった。
その日も、ドナトは夜勤を行っていた。
比較的温暖な地方だが、雪が降る事もある。その夜も、うっすらと雪がちらついてた。
静まり返った室内、暖炉の中で薪が弾ける音だけが響いた。
ふと、窓の外みると、暗闇の中ゆっくりとした足取りでやってくる人影が見えた。
マーテーだ。ドナトは扉を開けに行く。
凍える寒さと空気と共に、マーテーを室内に出迎える。
「マーテーさん、一体どうしたんですか。今日は非番では」
「そんな事は分かってるさ。ただ、酒を飲まなくなってからな。寝付けない日があるのさ」
確かにマーテーは酒気を帯びてはいなかった。はっきりとした口調でマーテーは言う。
「それより、温かいコーヒーでも貰っていいかな?」
ドナトは暖炉で沸かしていたヤカンのお湯で、コーヒーを二杯作った。
暖炉前の椅子に陣取ったマーテーに渡すと、傍らの椅子に自らも腰掛けた。
「うう、全く。温かいコーヒーってのは精霊の御恵みだね。我が身から、酒を抜き去った神に」
そう言ってマーテーは杯を持ち上げる。
ドナトもそれに合わせた。
「しかしこう寒い日に出歩くと、若いころを思い出すな。あの頃は、憲兵の仕組みも今みたいなものじゃなくてな。うんざりするような長い勤務。食事の時間もない。派出署もなかったから、こうして休むことも許されなかった。一年でどれくらいの人間が辞めたと思う?」
答えは知っていた。マーテーに何度も聞いた話だったからだ。ただ、その事は口に出さず、ドナトは肩をすくめるだけ。
「この二十一区だけで、二十人だ。同期で残った奴はいないし、先輩でも残ったのは一人だけ。その人も結局、後で辞めちまったがね。それほどキツイ仕事だった。全く、今の奴らは幸せだよ」
呟いたマーテーの傍らで、ドナトはコーヒーを口につける。マーテーは今度は、暖炉の火に目を向けていた。緩やかに燃える火は、人の心を落ち着かせた。
「だが、幸せかもしれないが、意地になってしがみつくほど、いい仕事とも思えないがね」
ドナトはマーテーの顔を見る。彼も暖炉ではなく、ドナトに目を向けていた。
「今日の昼に、たまたまクロエと会ってね。君の様子を聞かれたよ。奇妙に思ってね。それで理由を聞いたんだ。素気なかったが、怒っているようにも見えたよ」
「そうですか」
ドナトはコーヒーを傾ける。
マーテーは、静かに続けた。
「なあ、ドナト。確かにこの仕事に熱心な人間はいる。天職って奴だね。だが、君はそういう輩とは違うだろ。そこまで、この仕事に拘る理由はないんじゃないか」
ドナトはコーヒーに目を落とす。暖炉の火が黒い水面に反射していた。
マーテーはコーヒーを飲む事もせず、ドナトに目を向けていた。
暖炉の中で火が弾ける。
「ここしか、ありません。私には」
ドナトはゆっくりとコーヒーを傾けた。目の前では、変わらず暖炉の火が燃えている。
マーテーは深く椅子に座り、小さく息をついた。
「私は、そうは思わないよ」
ドナトは、マーテーを見る。彼は、入ってきたばかりのドナトに向けていた、あのほがらかな笑みを浮かべていた。
「さて、そろそろ御暇しようかなコーヒーをありがとう」
カップをドナトに渡してくる。コーヒーは殆ど減っていなかった。
ドナトも立ちあがると、空いた椅子にカップを置き、マーテーを見送ろうとする。
しかし、ドアの前で突然マーテーは体制を崩し、膝をついた。
慌てて助けようとしたドナトの手に遠慮しながら自らの足で立ちあがる。
「全く、酒を飲んでないのに。どうしちまったんだか」
冗談のように笑ったマーテーが、ドナトが見た最後の姿だった。




