憲兵の帽子・1
黒い楕円形の帽子。ランフォーリャの住人ならば誰もが知っている。
それは、この街を守る憲兵の証であった。
全身を黒に統一された恰好の頂上を飾るそれは、群衆の中でも目立ち、人々に安心と僅かばかりの不安をもたらす存在だ。
彼らは、街を全四十二の区に分けて守っていた。
街の中央、宮殿の付近にある六つの分区を除けば、それぞれが派出署を持っていた。
その第二十一区。その派出署があるのは、街の北にある第二旧市壁門であった。
街は大きく三つに分かれていた、街の中央部分の『旧市街』、街を覆う市壁の外に広がる『壁外市街』。そして旧市街より外側で、市壁の中にある『新市街』。
旧市街と新市街の境目とされているのが、かつて、この街を囲んでいた旧市壁跡である。
街の発展により、さらに大きな現在の市壁が出来た為に取り壊されたが、その一部は、今も記念に残されていた。残された旧市壁の大半は、門の部分であった。
五つ残る旧市壁門の一つ。第一旧市壁。
その門の外側。つまりは新市街側の門の部分は半円形の広場となっていた。南北を通る街の主要な道の通り道であり、広場に面する店は常に繁盛していた。それ以外にも、屋台や手押し車を引いた歩き売りの人々。
四ノ月。
春という季節のせいか。温かい陽気の中、広場は前よりも活気に溢れていた。
その広場の角に、第二十一区の憲兵派出署があった。
中はそう広くはない。扉を入れば、ガラス窓で広場が見渡せるようになっている仕事場があり、椅子とテーブルが置いてあった。
そして、扉を抜けた奥は憲兵達の休憩所となっており、そのさらに奥に、捕まえた人たちを入れる為の小さな房があった。
この二十一区に所属する憲兵は計十五名。彼らが交代制で二十四時間、この二十一区を守っていた。時刻は昼。二人が見周りを行っており、もう一人は食事を取りに出かけていた。
今、派出署にいるのは一人だけだ。
その男、ドナト・エイリールは歳は三十を二つ過ぎたところ。力強い眼光に高い背丈で、髪は短く切りそろえてある。彼は、憲兵として必要なもの。つまりは他人を威圧するような厳格さと適度な清潔感を持ち合わせていた。
胸元に輝くバッジは、彼がこの第二十一区の区間長であることを現していた。
見た目の通り生真面目な性格をしていた。
律儀にも、室内での書類仕事であっても、帽子をかぶったまま。
無口な彼は、尊敬され、恐れられてもいた。
彼は精霊の術によって動いている石像に過ぎないと噂する者もいる。だから感情がなく、笑う事もないのだと。
最も、それは憲兵に対する嫌悪を持つ者によって、過剰に語られている面もある。
ドナトにも当然、感情はあった。ただ、それを表に出すのが苦手なのだ。
扉の上につけたベルが鳴り、来客を知らせる。ドナトは手を止め、顔を上げた。
そこにいたのは、一人の少女だった。クリーム色のシャツに赤いチョッキを身にまとい、やわらかなスカートがドアからの隙間風で揺れている。琥珀のような茶色い髪の靡かせ、頭にはスカーフを巻き、脇には白い花を刺していた。
その少女、クロエ・マイルマウトは、ドナトの姿を見て華やかな笑みを浮かべた。
「こんにちは、ドナトさん」
ドナトは彼女に、会釈で返した。余所余所しいとも思える態度でも、クロエは気にする様子を見せなかった。彼女は手に持っていた包みを持ち上げる。
「ここでお昼ご飯、食べていい?」
「ああ」
感情を出さないドナトとは逆に、クロエは無邪気な笑みを浮かべながら、椅子に座る。包みを開き、白いパンにチーズ、春の野菜を挟んだ昼食を取り出した。
ドナトは、休憩室に行き、自分の机に置いてあった袋を持ってくる。中から、自分の昼食であるパンと、瓶に入ったコーヒーを取り出した。それらは、近くの店で買ってきたものだ。二つの木のカップを取り出すと、瓶の中身を注いで、片方をクロエの前に差し出す。
「ありがとう、ドナトさん」
ドナトも彼女の向かいに座りながら、窓の外に目を向ける。うす曇りの向こう、ちょうどこの事務所の正面に、花の屋台があった。そこが、クロエの働く花屋であった。
彼女の実家は貴族の家にも出入りしている庭師だった。その仕事の一つとして、植木や花々の販売をこの広場で行っていた。
屋台では今、彼女の元で働く中年の太った女性、パラヤが一人店番をしている。そのパラヤは、立ち止まった客に声を掛けているところだった。
ドナトがいる時、クロエは憲兵派出署で食事をとるのが日課になっていた。
始まりは遙か前、まだドナトは一介の憲兵に過ぎなかった頃だ。
その日、ドナトは定時の区内の見回りを終え、派出署に戻る途中であった。派出署のある、壁門前の広場が見えたとき、ふと、路地から小さな悲鳴のようなものがドナトの耳に届いた。 空耳かもと思うほどの微かな声だが、ドナトは聞き逃さなかった。ある路地を覗くと、薄汚れた恰好の男が、少女の口を覆いながら、引きずるようにしている後姿が見えた。
呼び止めると、男が振り返る。ドナトの姿を見て、男は少女を投げ捨てるように離すと、そのまま走って逃げてしまった。
当時は、周辺を巻き込んだ大きな戦争が終戦したばかり。
戦争の混乱が残っており、治安が最も悪化していた時期であった。
ドナトは犯人を追おうとしたが、泣いている少女を放っておくことが出来なかった。
結局追うのを諦め、少女に近づく。
見るとその少女に見覚えがあった。最近、広場の花屋が連れていた子だった。
その少女が、クロエ・マイルマウトであった。結局、彼女を抱き抱え派出署に戻り、同僚に状況を説明した。
花屋の女性――当時から手伝いをしていたパラヤだ――呼んで説明すると、彼女は驚きドナトに感謝を述べた。
それから、パラヤは事情を話した。この頃、クロエの実家は今よりも余裕はなく、母親も病気で倒れていた。彼女の世話を見ようにも、父は仕事があり、余裕がないため花売りの仕事を辞めるわけにもいかない。新しい人物を雇う事も難しい。
そこで、提案をしたのは、当時の区長であった。
「ならば貴方が広場で仕事をする間、我々がこの子を預かりましょうか」
そして、その世話役を、連れてきたドナトが任される事になったのだ。あのような事があったせいか、他の大人を怖がってしまうからだ。
幸いに、クロエの母は間もなく具合も良くなり、父の仕事も軌道に乗ってきた為、それは直ぐに終わることになった。
だが、そうなってからもクロエは、花を売りに来たパラヤと共に広場に現れては、この派出署によく顔を出した。
そして少し大きくなってからは、花売りを手伝う傍ら、ここにやってくるのだった。
「そう言えば、リグ・エリは元気かな?」
どこなくワザとらしい響きを持たせたクロエに答え、ドナトは自らの精霊を体現させた。机の足もとに、黄色く輝く犬が姿を現した。それが、ドナトの黄の精霊、リグ・エリだ。
現れた精霊に、クロエは笑みを綻ばせる。食べかけのサンドイッチを包みの上に置くと、椅子に座ったまま屈み、リグ・エリを撫でまわした。リグ・エリもまんざらでないようで、嬉しそうに尻尾を振っている。
いつもの光景だが、ドナトにすれば関心出来るものではない。
「クロエ。いつも言っているが、精霊を撫でたりしない方がいい。危険な事なんだぞ」
「あら、どうして?」
「精霊は力の集合体だ。もし、君が触っている時に姿を崩せば、精霊の内に抑えられていた力が君に襲いかかるんだぞ」
「でも、今までそんな目に遭ったことはないけど?」
「それは、私がそんな事をさせないからだ」
「つまり貴方がこの子の手綱を握っている、ご主人さまという事でしょ?」
「そうだ」
「なら、やっぱり安全じゃない」
彼女は頬をリグ・エリの横顔にすり合わせながら、ドナトを見上げてくる。確かに、基本的に精霊は、契約者である精霊師に従う。そもそもが、精霊とは契約者の意志と同調して初めて、この世界で力を発揮し、体現することができるのだ。
精霊が勝手に姿を消すことはまずないし、リグ・エリ自体、クロエに懐いていた。
それでも、万が一が。というのがドナトの考えだ。
「だが、何があるか分からないんだ。気をつけるに越したことはないだろ?」
「ドナトさんは心配し過ぎだよ。ねぇ」
彼女はリグ・エリの顔を包むように持ちながら、同意を求める。そんなクロエにリグ・ エリは、自分が意見を言う事ではない。とばかりに首を傾げるのみだった。




