(後)
仕事を終え部屋の扉を開けた瞬間、私は絶句した。人間は大きく虚を突かれると、悲鳴も出ないようだ。
私の目の前、リビングへと続く正面の廊下に耕平がいた。リビングから漏れる微かな灯りに照らされて、薄暗い廊下に耕平はいた。
それだけでも私を絶句させるには十分だったのだが、私の見た光景はさらにひどいものだった。
耕平はおむつだけの状態。ほぼ裸に近い状態だった。しかも目隠しをされ、タオルで口を塞がれていた。さらに子ども用の椅子に座らされ、両手を後ろ手で縛られている。うなだれるように頭を垂れ、ぐったりしているのが薄明かりの中からでも見てとれた。
まるで映画に出てくるような、拉致された登場人物のように。
――耕平!
私は靴を脱ぐのも忘れて耕平のもとへ駆け寄った。急いで拘束を解いてやる。細い腕がひんやりと冷たい。長時間この状態で放置されていた証拠だ。
死――。
嫌な言葉が頭を過ぎったが、猿ぐつわを解いてやると、小さく咳をした。
――よかった。
胸を撫で下ろし、椅子から抱えて耕平を抱きしめた。冷えた体を温めるために、何度も体をさすってやった。ママ――と耕平の弱々しい声を聞いた途端、涙が溢れた。
私は怒りに任せてリビングに飛び込んだ。
ソファーに寝転んでテレビを見ていた俊二が、目をぱちくりさせて私を見た。
――なんのつもり?
――早かったんだな。おかえり。
――どういうつもりか聞いてるの。
――ああ、耕平か。言うこと聞かないからさ。ちょっとした躾だよ。
――椅子に縛りつけるのが躾? あんな小さい子どもに目隠しして口を塞ぐのが躾だって言うの?
――落ち着けって。そんな怒鳴るようなことじゃないだろ。今からちゃんと躾けておかないと、大きくなってから――・
弁解など聞きたくなかった。
これは私の責任だ。
何時間あの状態で放置されたか分からないが、耕平は恐ろしかっただろう。
一緒に暮らしている自分に大きな人間に両手両足の自由を奪われ、心細かっただろう。
きっと私のことを探したに違いない。
早く帰ってきて欲しいと願ったに違いない。
ママ、ママと叫びたかったに違いない。
きっと今夜だけではないはずだ。
こういった邪悪な行為は私のいない時間に繰り返されていたに違いない。耕平の体に出来た小さな痣がその証拠だ。この悪魔のような男は、躾という言葉で虐待という罰されるべき行いを包み隠してきたのだ。
怒りと後悔で私の思考はどこかへ飛散した。部屋の明かりもテレビの音も感じない。もちろん俊二の声も聞こえなくなった。なにか弁解めいたことを口にしていたようだが、そんなものは耳に届かない。どんな言い訳も私の耳には届かなかった。
気付くと、私はキッチンに回り包丁を握り締めていた。
思い返せば、俊二は薄笑いを浮かべていたように思う。私が刃物を持ち出したことが、悪い冗談だと思っていたのだろう。だが、彼が耕平にしたことは冗談でもなんでもない。どれだけ言い逃れを聞いたとしても、許されるわけがない。
あんな仕打ちをするような男は生きる価値もない。
そんな男を少しでも愛した自分の責任だ。耕平に恐怖を植え付けてしまったのは、私の責任だ。
この男の邪悪な行為に気付かなかったことも私の責任だ。これまでどんなひどい仕打ちをされていたのか分からないが、耕平は私になにも言ってこなかった。いや、なにか必死に伝えようと合図を送っていたのかもしれない。自分に対してひどいことをする大人とふたりきりにしないでと、言葉ではないなにかで伝えようとしていたのかもしれない。
そんな耕平の気持ちを思うと、涙が出てくる。
耕平に対する愛おしさと、自分に対する情けなさで胸が締め付けられる。
すべて私のせいだ。
――私が責任を取らなければ。
ブレーキをそっと踏む。
車体が静かに停止した。
住宅街の寂しい街灯が、静寂をさらに深くさせている気がする。実家の窓から微かに光が漏れていた。産まれ育った我が家がそこにある。しばらくは帰ってこれない我が家に想いを馳せていると、玄関の前に人影が見えた。母が立っている。
私はシートベルトを外し、運転席から後部座席へと身をよじらせた。眠っている耕平の頬へゆっくりと指を這わせる。滑らかで柔らかく、温かい肌。寝息はどんなオーケストラの演奏よりも厳かで甘美だ。
耕平の髪の一本一本を愛でようとしたとき、私ははっとした。
私の指。その一本一本が浅黒く汚れている。
夜の闇のせいではない。
俊二の――耕平をひどい目に合わせたあの男の血。
服のあちこちに、俊二の返り血が染み込んでいる。服だけではない。顔や髪、指の爪の間にまでそれらは染み込んでいる。暗闇では気付かなかった赤い塊が私を覆っていた。今になって、包丁の感触が掌に蘇って恐ろしくなってくる。
私は穢れてしまった。耕平に触れる資格など、今の私にはない。
私は同様にその報いを受けなければならない。
気付くと、母が車の横に立っていた。それを支えるように父も一緒に。こんな出来損ないの私を、愛おしそうに見つめている。話したいことがたくさんあった。喉から言葉がこみ上げてくるのを呑み込み、私は小さく頷いた。
それを察したのか父が後ろのドアを開け、父がそっと耕平を座席から抱え上げた。父の温もりを感じた耕平が少しむずかったが、目を開けることなく眠り続けている。母は両手で顔を覆い、今にも泣き崩れそうに体を震わせていた。
「――ごめんね」
耕平を抱いた父が口を一の字に結び頷いた。何度も何度も。
「――耕平をお願い」
そう言い残し、私は再びアクセルを踏んだ。これ以上ここにいると、決心が鈍りそうだ。耕平が眠っているうちに離れないと、別れられなくなってしまう。
ブーン。
携帯電話が震えた。何度もかかってきている知らない番号だ。
電話の相手の想像はついている。
私は通話ボタンを押した。
「――はい。私です」
電話の相手は諭すように私に語りかけた。
そんな説得めいた言葉は不要だ。私の決心は揺るぎない。今さら逃げ出すようなことをするはずもない。
遠く離れてしまった耕平との距離を縮めなくてはいけないのだ。逃げだせばその距離はさらに遠くなっていくだろう。悔い改めて、再びこの手で耕平を抱きしめたい。
「これから――これから近くの警察に行きます」
より激しくなった雨がフロントガラスを強く打ちつけている。
了