(前)
先刻から降り出した雨がアスファルトを色濃くさせていた。
前を走る車、行き違う車がしぶきを飛ばす。眼前を二本のワイパーが忙しなく動き続けている。黒く細い棒たちは目的地へ向かうのを邪魔するように、行ったり来たりを繰り返している。煩わしい動きだ。まるで、今のこの状況を嘲笑っているかのようだ。
ハンドルを握る私は深く息を吐いた。それは溜息のようでもあり、決意を込めた深呼吸のようでもあった。
ふとバックミラーを覗くと、薄暗い中に耕平が寝息を立てていた。
チャイルドシートに覆われるようにして眠る耕平の姿は、安らかで平和そのものだ。
今すぐ彼の繊細な髪に指を這わせ、柔らかな頬にキスをしたくなる衝動を押さえ、私はアクセルを踏み込んだ。速度計の針が力強く振れる。
ときどき、闇に照らされたライトの光が濡れたアスファルトに反射して、目を眩ませようとしてくる。その光に目を細めながら、フロントガラスの先を睨め付けた。
こんなところで事故を起こすわけにはいかない。
気を抜いて、少しでもハンドル操作を誤れば、このスピードだ。濡れた路面にタイヤを取られかねない。スリップして横転でもしようものなら、耕平の命はどうなる。
必死に守った大切なひとり息子を、私の手で失うようなことがあってはいけない。
慎重に。
急ぐのだ。
ハンドルを握る手に汗が滲む。
視線を進行方向に向けたまま、穿いているスウェットで右の掌を拭った。
ぬるり。
拭ったはずの掌に、生温かい感触を感じた。汗を拭きとったはずが、余計にヌルヌルとしたものが掌に却ってきた。
――鬱陶しい。
苛立ちながら、右手を左肩で拭った。トレーナーは雨で少し湿っていたが、汗を拭き取るには十分だった。肩には鬱陶しいヌルヌルしたものがない。同じように左手も右肩で拭き取る。
手汗がなくなっただけだが、それだけで集中力が増したような気がした。
再び後部座席に目をやった。
耕平が起きる気配はない。
軽自動車の中という狭い空間。どっぷりと陽が落ち、行き交う車のライトや街灯だけが車内を照らすこの空間。耳を澄ませば、耕平の寝息が聞こえてくるほどの静寂――。
これまでにないほどの幸せを感じる。
保育園の送迎や買い物へ行くときも、同じようなふたりだけの時間だったというのに。
今夜はそれまで気にも留めなかったこの空間が愛おしい。
できればずっとこの時間が続いて欲しい。目的地には着かず、こうやってずっと車を走らせていたい――。
そんな叶うはずのない願いを思いながら、再び素足でアクセルを踏み込んだ。
車体を叩く雨の音と車内の静寂に耐えかね、私はラジオのボリュームを回した。
スピーカーから洋楽が聞こえてきた。なんと歌っているのか英語も分からないし、歌っているのが誰かも知らない。だけど、緩やかなバラードの旋律が心地いい。荒れていた心が少しだけ穏やかになるような気がする。耕平が起きない程度にボリュームを上げた。
メロディが思い出を呼び起こす――。
思えば前の旦那とは喧嘩ばかりしていた。それこそ出会った頃は、今流れている曲のように甘く、とろけるような時間だった。他の男など目に入らない、彼以上の男はこれから先も現れない。そう信じて疑わなかった。どれだけ愛し合っても、薄まることのない愛情なのだと思っていた。
幼稚な感情だった――と今は思う。
永遠の愛などないのだと、幼稚だった私は結婚して半年足らずで悟ることになった。
あれだけ愛おしかったはずの旦那の癖や所作が、徐々に疎ましくなり苛立ちを覚えるようになった。同じ場所にいるだけで、同じ空間にいない。お互いが別の次元に存在しているのだ。それは向こうも同じだったようで、私のちょっとした言動で腹を立て、言い争う数も多くなっていった。
もう限界だ。一緒になったのは間違いだった――その重いが大きくなっていた頃。
耕平ができた。
あれだけ険悪だったはずなのに、なぜかその日は旦那が求めてきた。酔っているのか、よほど欲求が昂ぶっていたのか。やんわりと拒否したのだが、それも叶わず私は目を瞑り、歯を食いしばり、嫌々旦那に抱かれた。
その結果。
もちろん、子どもを宿したことは嬉しかった。愛情を失った相手の子というよりも、自分のお腹の中に生命が宿っているという不思議が幸福を感じさせた。ひょっとすれば、子どもができたことで、旦那との関係も改善されるのではないかという希望も少しだけ持っていた。
結局、そんな私の小さな希望はあっけなく雲散霧消した。それどころか、耕平が産まれる頃には、旦那はほとんど家に帰らなくなり、そして。
離婚した。
耕平に一度も「パパ」と呼ばれることなく、前の旦那は私の前から姿を消した。
だが、後悔はなかった。
なんの愛着のない男をパパと呼ばせ、喧嘩ばかりの居心地の悪い家庭で子どもを育てるより、ひとりでたっぷりと愛情を注いで育てることを選んだ。それが正しい選択なのだと、確信していた。
ひとりで子どもを育てることは、体力的、金銭的にも苦しかった。半ば押し切ってした結婚だったため、親からの援助にも頼らなかった。いや、頼れなかったのだ。孫の顔を見れば喜んでくれたし、離婚すると知ったときも実家に帰ってくるように勧めてくれた。
だけれど、私はそれを受け入れなかった。
今思えば、意地を張っていたのかもしれない。耕平は誰の手も借りず、自分だけの力で育ててみせるのだと、強がっていたのかもしれない。
あのとき、素直に母親に頼っていれば――。
バラードはいつの間にかCMに切り替わり、堅苦しいアナウンサーが今日のニュースを読み上げていた。
今日も一日、良いニュースがなかったようだ。それとも現在の境遇が良くなければ、不幸なニュースばかりが耳に残ってしまうものだろうか。不幸であればあるほど、世界も不幸に見えてきてしまうものなのかもしれない。
――今日の午後二時頃、A市内にあるマンションで女子大生の遺体が発見されました。首にはロープのようなもので強く絞められた跡があり、警察は友人関係を中心に捜査を進めており――。
――今日の午後五時頃、D県内のアパートの一室で三歳になる男の子が意識を失っているという通報があり、病院に運ばれた数時間後、亡くなりました。警察の調査で、男の子の体には複数の痣があり、母親に詳しい事情を聞いています――。
私はカーステレオのボリュームを絞った。
嫌なニュースばかりだ。
誰かが死んだ。誰かが殺した。誰かが殺された――。
もうたくさんだ。
気が滅入る。
視線の隅にサービスエリアの青い看板が見えた。あと数キロ先に入口がある。
少し休もうか。
慣れない拘束の運転、しかもこの雨だ。耕平を乗せていることもあり、普段の運転よりもかなりの集中力を要している。それだけではないが、疲労で視界が霞む。母親の家まではまだ八十キロある。本来ならサービスエリアで車から降り、固まった体をほぐして小休止するべきだろう。
私は葛藤した。
一刻も早く目的地に着くべきだ。今の自分には時間がない。早く耕平を母のもとへ届けなければ。
休みたい。急がなければ。
私の頭の中で二つの選択肢がぐるぐると回る。指先でちょんとウィンカーを上げて、ハンドルを切りさえすれば少し休める。缶コーヒーでも買って一息つけば、心も休まりより安全な走行ができる。
駄目だ。
ここで座席を降りれば、さらに選択肢が増えて私は混乱する。ガラスに映った自分自身の姿を見てしまえば、現実が重くのしかかって来て正常ではいられなくなる恐れすらある。耕平のためにも早く母の元へ。
私はスピードをさらに上げて、サービスエリアをやり過ごした。
遠くなっていくサービスエリアをバックミラーで眺めながら、コーヒーだけでも買っておけばと後悔したが、もう遅い。次のサービスエリアに近付く頃には、私の環境ももっと切羽詰まっているかもしれないのだ。もう母の元まで止まることなく進まなくては。
――なぜ自分ばかりこんな目に合うのだろう。
これまでの人生、自分ではまっとうに生きてきたつもりだ。結婚こそ親の反対を押し切ったものの、これといった反抗期もなく、大きな悪事を働いたこともない。
それなのに。
耕平の父親は離婚したきり連絡もない。連絡を待っているわけではないのだが、子育てに行き詰ったときや苦しいときなど、一緒にいてくれたらと思ったことは一度や二度ではない。そんな瞬間は、あれだけ憎らしかった相手が愛おしく思えるから不思議だ。正気に戻れば、それは一瞬の気の迷いだと気がつくのだけれど。
そんな時、現れたのがあの男。
経済的な理由から男を求めたわけではない。
離婚して、耕平が三歳になった頃、母親だった自分の中から女という感情が再び芽吹いてしまった。
気の迷い――。
恋というものは、きっと自分の感情と自分を取り巻く環境に影響され、産まれてくるものなのだろう。
女手一つで子どもを育てている自分を。
育児と仕事に追われている自分を。
疲れきっている自分を女と認めてくれた男に対し、戸惑い胸を躍らせ、そして。
自分を見失ってしまった――。
戸次俊二。
ひとつ年下のあの男。
知り合ったのは一年前。友人の紹介で何度か食事をしたあと、連絡先を交換し、ふたりで会うようになった。そして三回目のデートで口づけを交わし、五度目のデートでベッドを共にした。
相手になにを求めたのか、自分でもよく分からない。
子どもを産んで離婚し、母親として必死に生きていた私の中に、女という性が目覚めてしまったのかもしれない。友人たちは心の拠り所ができてよかったと祝福してくれた。
確かに、俊二と会っているときは、耕平のことを忘れて女でいれた。母親という衣を脱ぎ捨、つらいことなどどこかへ吹き飛んでいた。
半年が過ぎるころ、家賃がもったいないということを理由に俊二は私の部屋に住むようになった。籍を入れるだとか将来どうするといったような言葉はなかったが、私たちの同棲生活は自然な流れだった。なにより、俊二が私の離婚歴を承知の上で付き合い、耕平を可愛がってくれることが一番の喜びだった。
耕平の方も彼がパパなのだと思っているものだと思っていた。
あの時までは――。
ある日曜日、急用が入った私は耕平を俊二に預けて家を出た。これまで俊二に任せたことは二三度くらいで、滅多にあることではない。そんなときは、休日でも開いている臨時の保育所に預けるようにしていたのだが、その日は俊二自ら預かると言ってくれたのだ。
私の目には耕平が俊二に懐いているものだと映っていた。俊二の方も耕平を我が子のように可愛がってくれている――そう思っていた。
それが間違いだった。
耕平を俊二に任せた日の夜のことだ。耕平をお風呂に入れようと服を脱がせたとき、ふと気付いた。
耕平のお尻の部分に赤黒い痣ができていた。最初は蒙古斑かと思ったが、よく見ると色が違う。試しに指で触ってみると、声こそ出さないが、耕平は顔をしかめた。
どうしたのと聞いたが、耕平は首を傾げるばかりで埒が明かない。自分の体に起きている異変に気付いていないのだ。
俊二になにかあったのか聞いてみたが、知らないという。
どこかでぶつけたのかと、そのときは納得したのだが、その日から崩壊は始まっていた。
俊二に懐いていると思っていた耕平の様子がどこかおかしい。
近寄ろうとしないのだ。
言葉にこそしないが、俊二が部屋の中を動くたびにその動向を目で追っているように思えた。
テレビを見ているに背後を気にするし、俊二が急に立ち上がると体をびくつかせる――ように私には見えた。
気のせいだろうと自分に言い聞かせるが、耕平の様子を観察すればするほど、その細かい反応が気になってしまう。
テレビで流れる嫌なニュースも私の不安を煽った。
シングルマザーと暮らす内縁の夫による子どもへの暴行――そして死。
まさか俊二がと、そんな馬鹿げた想像を私は笑った。大体、子どもが男に殺されるまで黙って見ている母親の気が知れない。どれだけその男を愛し、金銭的に頼りにしていたとしても、我が子が酷い目に合っているとしたら話は別だ。そんな最低な男に隷属している女なんて、同性の私からみても同情する気にもなれない。
けれど、耕平と俊二をふたりきりにすることは恐ろしく思えた。俊二があんなニュースに出てくる男のはずがないと信じたい心と、耕平の体にできたひとつの痣への疑惑が私を揺さ振った。
ブーン。
助手席に放り出していた携帯電話が揺れた。マナーモードの振動が助手席を揺さぶり、低い音を立てる。
明るくなったディスプレイ画面には母の文字。
「母さん――」
私は呟いた。と、同時に涙が溢れた。視界が涙で歪む。雨に打たれるフロントガラスと相まって、私の世界は水の中のようにおぼろげだ。
母に話したいことはたくさんあった。
ひとりですべてを背負い込んでつらかったこと。
耕平と過ごした楽しい日々。
そして――。
これから待ち受ける過酷な日々――。
電話に出ない娘に諦めたのか、屋が携帯電話は静かになった。
「もうすぐだから」
母からの着信に向けて私は呟いた。
きっと実家の方にも連絡が行っているのだろう。
娘の行方を知らないか――。
どんな気持ちでその連絡を受け取ったのか。考えれば考えるほど、涙が頬を濡らす。
きっといてもたってもいられないはずだ。これまで何度も母に謝ってきたが、これほど心から謝りたいと思ったことはない。いや、どれだけ謝っても許されることではない。こんな娘を持った不幸をどう償えばいいのか。そんな大きな不幸を抱えた娘がもうすぐやってくるなど、想像もしていないのではないのだろうか。
高速の降り口が見えてきた。国道にでれば、実家まで二十分。もうすぐだ。
もうすぐ。
耕平とも別れなければならない。
一度溢れた涙はもう止まらない。体中の水分を枯らしてしまうほどの涙が次から次へと流れて行く。
料金所の灯りが雨と涙に反射する。こんなにETCを付けておいてよかったと思ったことはない。こんな姿を料金所のおじさんに見られたら、どんな顔をされるかわからない。
高速道路を降りた安心感でひと息つくと、同時に再び携帯電話が振動した。
ディスプレイには知らない携帯の番号が表示されている。
心臓が激しく脈打つ。
電話はいつまでも鳴り止まない。助手席に響く振動が、早く出ろ早く出ろと私に脅迫しているようだ。アクセルを踏む足が震える。電話をかけてきた相手が誰かも分からないのに、私は恐怖に囚われていた。
――まだ。まだ出れないの。
いよいよそれは迫ってきている。残された時間はもうわずかだ。耕平とこうして一緒に入れる時間も、もうほとんど残されていない。
今の私には後悔しかない。
それは結婚したことでも離婚したことでもない。私の後悔はひとつ。
俊二を信じてしまったことだ。
赤の他人を信じるべきではなかった。
あの耕平にできた小さな痣。大人の私には小さなものでも、幼い耕平にとっては大きな痛みだったことだろう。あれを見つけた時点で、私は耕平を守る行動を取るべきだった。
私の直感を信じるべきだった。疑惑を疑惑で片付けるべきではなかった。
そうでなければ、あんなことをせずに済んだのに――。
今朝、私は耕平を俊二に任せて出かけてしまった。
あのお尻にできた痣を見つけてからは、できるだけ彼らをふたりきりにすることを避けてきたのだが、職場の従業員が急病で休んだから急遽出勤してくれという電話が入ったのだ。断ることも出来たのだが、店長の必死の頼みに断ることができなかった。臨時の手当てを弾むという言葉に押し負けてしまったのだ。
出掛けるとき、耕平はまだ眠っていた。俊二に緊急の仕事が入った旨を告げると、仕方なないよと、快く送り出してくれた。その俊二の柔らかな表情を見て、耕平の痣のことなどすっかりどこかへ飛んで行ってしまったのかもしれない。
――油断した私が悪い。
いつもの勤務体系なら夕方までのはずだったのだが、予定より早く切り上げていいという店長の言葉に甘えて、私は帰路に就いた。
車の座席に座り、キーを回してエンジンをかけた瞬間、私の脳裏に一抹の不安がよぎった。今思えば、虫の知らせとはあのことだったのだろうと思う。夕食の買い物をしようと思っていたのだが、私はどこにも寄らずに家へと急いだ。
いつもよりも雑に車を駐車場に停め、アパートの階段を足早に昇る。ふと部屋のある二階の廊下に差しかかったとき、妙な胸騒ぎを感じた私は歩みを緩め、ゆっくり足音を立てないように足を忍ばせた。
部屋の扉の前に立ち、バッグからキーを取り出しそっと鍵を開ける。銀色のドアノブがいつも以上にひんやりと感じた。
そっと扉を開けて目に飛び込んできた光景――。
ブーン。
再び母からの着信だ。
実家まであと十分足らず。母に外へ出てきてもらった方がいいのかもしれない。
私は視線を前に向けたまま、助手席から携帯電話を探り当て、通話ボタンを押した。
「もしもし――」
「あなた、どこにいるの」
ランニングを終えたあとのように息を切らしている。電話口からも母の焦燥感が伝わってくるようだ。
「何度も電話したのに。お父さんも心配してるわよ。それに警察――」
「母さん」
母の言葉を遮る。それ以上のことは聞きたくない。予想はしていたことだ。だから私はこうやって急いで実家に向かっているのだから。
「もうすぐ――もうすぐそっちに着くから。だから――」
心配しないで。そう言おうとしたのだが、言葉にならなかった。いまさら心配するなという方が無理な話だろう。涙声になるのを必死に堪える。
「耕ちゃんは? 耕ちゃんは無事なの?」
すでに母の方が涙声になっていた。こちらもつられて泣きそうになってしまう。アックミラーに映る耕平は、相変わらずすやすやと眠っていた。
「一緒にいる。後ろで眠ってるわ」
「よかった。無事なのね。一体なにがあったの」
耕平の無事を知って、母は心なしか落ち着いたようだ。それとも娘と一緒に動揺していてもいけない、自分だけでも毅然としなくてはという感情が働いたのか。
「私――見たの」
「見た? 見たってなにを――」