ベルロ=スヴェトリア家のお家事情
用意がいいことに、ニーナは正式な書式の雇用契約書を準備していた。
珍しいことに彼女は読み書きが出来るらしい。なんでも、三代前までは亜竜との契約を継承する零細騎士の家柄だったからとのことだった。
現在平民身分なのは三代前の当主が不慮の事故で竜を死なせてしまい、貴族籍を剥奪されてしまったからだそうだ。
ちなみにイリヤも読み書きは出来た。トーマ卿の元での詰め込み教育の成果ではなく、幼いころから両親に習った成果だった。イリヤの家は帝家御料林の森番を代々務めており、半期に一度の報告書を書くためには文字を解する必要があったからだ。
「それではここに署名をお願いします。はい。これで後は窓口に提出するだけです。校舎に帝国政府の出張所が入っていますから、わたしが後ほど持って行きましょう。おそらく一月ほどで受理されると思います」
なぜそんなに時間がかかるかというと、この契約で、ニーナの身分が変わってしまうからである。現在のニーナは帝国に直接支配される"国民"だが、ベルロ=スヴェトリア家と契約を結んだことにより"臣民"という身分になる。臣民に対しては建前上皇帝その人であろうと干渉することができない。
ゆえにおいそれと身分の変更はできないのだが、創設まもない貴族家の場合はかなり条件が緩いらしい。そうでもしないと一から家臣団を造るなど不可能だからだ。
「わたしがベルロ=スヴェトリア家の臣民第一号ですか。大変名誉なことです。その立場に恥じないよう努力いたします」
ニーナはさっきまで泣いていたのが嘘のようにニコニコとしているが、その笑顔の何割かはたった今交わした契約書の月給欄に由来している気がしてならない。
イリヤの金銭感覚的にはずいぶんと高い気がするが、貴族に使える侍女の給金の相場などしらないので何ともいえなかった。
そもそもイリヤの故郷と帝国中心部のこのあたりでは物価がぜんぜん違うので、イリヤの金銭感覚などあてにならないのだ。
領地に封じられるまでの暫定措置として貰っている年金の額は、ニーナを千人雇ってもまだ余る程なのでなんとかなるだろう。
―――ねえねえイリヤ、このおもしろいおねえちゃんとおともだちになったの?
しばらくおとなしくしていたスヴェトリアが声をかけてきた。
―――うん、そうだよ。おともだちとはちょっと違うけどね。
この幼い竜に雇用関係という概念を理解させるのは難しそうなので曖昧に誤魔化す。イリヤの感覚としてもそれが一番近かった。
(「友達を雇う」って言うと凄い微妙な感じになっちゃうけど)
―――それじゃあ、スヴェーがよろしくねっていってるっていって。
どうやらスヴェトリアはニーナを気に入ったらしい。「おもしろいおねえちゃん」という評価が気になるが、これから顔を合わせるたびにスヴェトリアの機嫌が悪くなるよりは断然マシだった。
それに、唯一の家臣に一家の象徴である竜を紹介しておく必要もあるだろう。
スヴェトリアの希望通り、ニーナに言葉を伝えることにした。
「ニーナ、スヴェー……僕の竜が君によろしくって言ってるよ」
その言葉にニーナはぽかんとした表情をつくった。竜がよろしくといっている、という言葉の意味が呑み込めなかったのだろう。
説明を加えた方がいいかな、と思ったが、イリヤが口を開く前に意味を悟ったようだ。
「それは、もったいないお言葉を賜りまして、感激です。わたしも精一杯お仕えしますので、よろしくお願いします」
イリヤに向かって深々と頭を下げた。スヴェトリアが存在するのはイリヤの心象世界の中なので間違ってはいないが、なんだか妙な気分だった。
―――えへへ、なんかおとなになったみたい。
スヴェトリアはご機嫌なようなので、ニーナの行動は間違いではなかったようだ。
たっぷりと時間をかけて礼をした後顔を上げたニーナは、感心したように呟いた。
「それにしても、スヴェトリア様はお話ができるんですね。いえ、イリヤ様は伯爵閣下なのですから当然ですが、考えてもみなかったので少し驚きました」
「ああ、普段見かける竜はほとんど亜竜だもんね」
人語を解することが出来る竜は"小竜"より上の竜格に属するものだけである。それより下の"矮竜""亜竜"はそれ程知性は高くなく、言葉を話すことはできない。そして一般人の目に留まる竜と言えば亜竜が大半で、たまに緊急連絡用の"矮竜"が飛んでいるのを遠目に見るくらいだった。そういった人々にとっては「竜がしゃべる」というのは知識として知ってはいても感覚的には判り辛いのだろう。
竜格と爵位は連動するので、伯爵であるイリヤの竜が小竜である事も自明であるとはいえ、ニーナがとっさに理解できなかったのは仕方がないことだった。
ちなみに、亜竜が騎士、矮竜が男爵から子爵、正竜が侯爵、大竜が公爵、"龍"が大公となる。なお、龍は大公と契約を交わしている個体が"王龍"、皇帝の龍であるベルラントが"帝龍"と呼び分けられるが、これは大公と皇帝を同格にする訳にはいかないという人間側の都合であって、実際に差がある訳ではない。
「けど、竜騎士学校なんだから小竜以上の竜と契約している人もいるでしょ?」
「いえ。この学校に入学される方々はほとんど家督を受け継いでおられませんので、家に伝わる最上位の竜、いわゆる"伝家の竜"とは契約されておりません。二番目以降の竜でも小竜以上というような大家はさすがにそれ程多くはないので、生徒方の大半は亜竜か矮竜の契約者のはずです」
入学する為の年齢は定められていないので家を継いでから学校に入ってもいいのだが、卒業しなければ皇帝軍の士官として認められない為、成人して竜と契約すると同時に入学する者が大半だった。
小竜以上の竜と契約を結んでいる学生は三学年合わせても20人に満たないらしい。
「そうなんだ。てっきりここなら高位竜なんて珍しくないとおもってたよ」
「ええ。ですから、伯爵であるイリヤ様と小竜であるスヴェトリア様はこの学校でもかなり貴重な存在なのですよ」
「うーん、そんな自覚はないんだけどなぁ。あ、あと、スヴェトリアが小竜ってのはまだ確定じゃないんだ」
「そうなのですか?」
今度はニーナが意外そうな声を出す番だった。
「うん。まだ生まれたばかりだから判別ができないんだって。とりあえず言葉がしゃべれるから小竜以上だろうって事で小竜扱いだけど、正式な判定にはまだ時間がかかるみたいなんだ」
翼をもたず、飛べない亜竜や翼をもっていても人語を解せない矮竜はともかく、小竜以上の区別は難しい。吐息を吐けない竜が小竜、吐息を吐くことは出来るが魔法を使えない竜が正竜、両方出来るのが大竜という定義なのだが、いずれも生まれたばかりでは判別し難いのだ。
だいたいは親竜と同じ竜格になることが多いのだが、スヴェトリアの親は彼女が生まれる前に死んでしまっている。実のところスヴェトリアは自分が属する氏族すら知らなかったので、"ベルロ"の氏族姓も暫定的なものだったりする。
「ということはイリヤ様も今後侯爵位や、場合によっては公爵位にまで昇られる可能性がある、と……」
「うん、まあ、可能性だけだけどね」
イリヤの言葉を聞くと、ニーナは突然向こうを向いてしまった。なぜか肩を震わせている。また泣き出したのか、と思ったが、そんな様子ではない。むしろ、何か笑いをこらえているような……
"予想以上の優良物件"とか"やはりわたしの判断は間違っていなかった"とかいう声が聞こえてくる気がするが、イリヤは幻聴だと思いたかった。
―――やっぱりこのおねえちゃんおもしろいね。
「……」
スヴェトリアの無邪気な評価に、しかしどうしても同意できないイリヤだった。