"侍女"
校長室を辞した後、教官室での挨拶をどうにかこなしたイリヤは寮へとやってきた。
暇そうにしていた寮長に声をかけて部屋の鍵を受け取り、部屋の位置を聞く。
校長室とは違って迷う心配はなさそうだったので、一人自室へと向かった。
学生寮は、食堂や自習室、娯楽室などがある主棟と学年ごとに別れた居室がある三棟の学生棟、そして従者や召使などが寝起きする別棟から成り立っているらしい。
(従者の為だけに一棟あるって凄いなあ。やっぱり貴族の子どもが通う学校は違うな)
貴族の子弟は自分で身の回りの世話などしないものらしく、実家から従者を連れてきているらしい。彼らや、学校が雇用している召使たちのための居住スペースが用意されているのだ。
もっとも、設立間もないベルロ=スヴェトリア家には未だ家臣も領地も存在しない。従って、イリヤは自分の世話をしてくれる従者を持っていなかった。
(まあ、身の回りのことくらい自分で出来るか問題ないけど)
だてに元庶民ではない。三年前に父を亡くして以来一人暮らしを続けていたし、それ以前も家事全般はイリヤの担当だったので炊事洗濯には自信があった。
はやいうちに洗濯場とかゴミを出す場所とか聞いておかなくちゃな、などと所帯じみたことを考えながら初年生棟"ブローニャ"の廊下を歩く。まだ授業時間らしく人の気配はない。
イリヤの部屋は最上階である五階の一番奥左手だった。これなら迷いようがない。
部屋の前まで来てみると、黒みがかった木の扉に金属製のプレートがついていた。そこに彫られているのは、当然"イリヤ・セルゲン・ベルロ=スヴェトリア"の文字だ。
ご丁寧に、その上には星を抱いた竜の意匠のベルロ=スヴェトリア家の紋章――トーマ卿の家臣で絵心がある者が適当にでっちあげたものである――を刻んだ板まであった。
間違いなく自分の部屋である事を確認し、鍵を差し込む。
かちり、という音がして鍵が回る。
取っ手を握ったイリヤは、妙に硬い手応えに違和感を覚えた。
(あれ?)
鍵がかかっている。違う、今、鍵を開けたつもりでかけてしまったのだ。
(なんだ、鍵は空いてたのか。荷物は部屋に持っていくって言ってたのに、不用心だなあ)
そう思いながらもう一度鍵を回し、扉を開けた。
「あれ?」
部屋の中には先客がいた。
黒い侍女服に、純白のエプロン。
年のころはイリヤと同じか一つ二つ上だろうか。身長はイリヤよりやや低いくらい。やや短めの黒髪が落ち着いた印象だが、表情にどこか悪戯っぽい雰囲気がある美少女だった。
イリヤと目が合うと、少女はにっこりとほほ笑んで深々と頭を下げる。
「お待ちしておりました。スヴェトリア伯爵閣下。わたくし、伯爵閣下のお世話をつとめさせて頂くことになりました、ニーナ・ワレンシコワと申します。なにぶん未熟者ですので行き届かないところも多々あるかとは存じますが、よろしくお引き回しのほどおねぎゃみっ」
よどみない自己紹介を突然中断させた少女は、うずくまってぷるぷると震えている。
どうやら、舌を噛んだらしい。
―――ねえねえイリヤ、おねぎゃみっってどういういみ?
―――……どういう意味だろうね、スヴェー。
「えっと、つまりきみは学校が手配してくれた僕の侍女ってこと?」
「はい、イリヤ様。よろしくお願いいたします」
ニーナが笑みを浮かべるが、目じりには微かに涙が残っていた。
悶絶してしまった彼女が復活し、イリヤの質問に答えられるようになるまで十分近い時間がかかった。
しゃべると傷口が痛むのか、ときおり笑顔をひきつらせながら説明してくれたところによると、彼女はもともと学校に雇われていた雑用侍女の一人だったらしい。召使一人持たない新興貴族が編入してくるにあたって、暫定的にイリヤ付きを命じられたとのことだ。
このまま彼女を正式に雇用するのもよし、あるいは自分でどこかから適当な従者を探してくるもよし、ということになっているそうだ。
「召使なんて持たないっていう選択肢はないのかな……」
「従者を置かず、どうやって身の回りの御用をすますおつもりなのです?」
ニーナは冗談だと受け取ったようだ。
貴族の子弟が従者の一人ももたないど、彼女の常識からすればありえない事だった。
「どうって、そりゃ自分で」
やればいい。というイリヤの言葉を聞いて、ニーナの顔が曇っていった。
せっかく乾きかけていた涙をふたたび浮かべ、イリヤに詰め寄ってくる。
潤んだ瞳でイリヤを見上げてきた。
「そのようなお戯れを申されるなど……もしかしてわたくしめがご不満なのでしょうか?」
「いや、べつにそういう訳じゃ」
「そうですよね……満足にご挨拶もできない侍女など。ああ、やっと雑役侍女から昇格できたと思ったのに。故郷の両親への仕送りを増やせると思っていたのに。ごめんなさい、お父様お母様。ニーナは折角の機会をふいにしてしまいました。妹のアーニャと弟のミーシャ、至らないお姉ちゃんでごめんね。せっかくいい学校に通えるって喜んでいたのにね。妹や弟も私のように一生下働きで終わるのだろうか。それもこれも私が駄目なせい。なにもかも私が悪いのです。お父さんとお母さんを恨んではだめよ。恨むならお姉ちゃんを恨みなさい」
怒涛の長台詞だった。挨拶の途中で舌を噛んだ女とはとても思えない。
イリヤの弁解にも耳を貸すそぶりはなく、よよよ、と泣き崩れる。
「わ、わかった。わかったから。ニーナにお願いするよ」
目の前で美少女に泣かれてしまった十五歳の少年に、それ以外の何が言えようか。
とにかく泣きやませたい一心で、思わず彼女を雇うことを承知してしまった。
ぴたり、とニーナの動きが止まる。
「……ほんとうですか?」
泣きはらした目で見上げてくる。
上目遣いに、妙な色気が漂っていた。
「う、うん」
なぜか直視してはいけない気がして、目をそらしながら頷く。
それを見たニーナの顔に、ぱあっと笑顔が広がっていった。
「ありがとうございますイリヤ様!ニーナ・ワレンシコワ、このご恩は一生忘れません。身命を賭してお仕えさせて頂きます!」
今度はうれし泣きでもしそうな勢いでイリヤの手を両手で握ってぶんぶんと上下させてきた。
ニーナの手は、ひんやりとして心地よかった。
「わ、わかったから。とにかくよろしく」
気恥ずかしくなって振りほどいたイリヤに、ニーナはこれまでで一番の笑顔を向けてくる。
「それではイリヤ様、まずはお給金の話なのですが」
「え?」
帝国貴族ベルロ=スヴェトリア家は、創設十週目にして初の家臣を得た。
ニーナ・ワレンシコワ、十七歳。イリヤの編入で出来たたった一枠の昇格枠を、100人近い候補者の中から勝ちとった猛者だった。