幕間:ゼノビアの誤解
イリヤと別れた後ゼノビアは自室に戻る為廊下を歩いていた。
その表情はいつも通りどこかぼうっとしたものだ。しかし彼女付きの侍女ミーラが見れば「何か良いことがありましたか?」と声をかけただろう。
とうぜん、彼女の心の内に棲む竜もまた、彼女の上機嫌を感じ取っていた。
―――ずいぶん頼りなさそうな雄であったな。
ゼノビアの契約竜"絶龍"ポグロムが険のある口調でイリヤを評する。上機嫌な相方とは逆に機嫌が悪そうだ。否、相方の機嫌がいいから、機嫌が悪いと言った方がいいだろうか。
ゼノビアを生まれた時から見てきたこの"龍"は、彼女に対して父親のような感情を抱いていた。
―――ポグロムは小さい仔をいじめててかっこ悪かった。
相方のこういう態度には慣れっこなゼノビアはすぐさま逆襲する。
―――いや、あれはだな。いかに仔竜であろうと竜同士、お互いの格付けはしっかりしておかねばいかんのだ。
―――野蛮。
ポグロムのいい訳もにべもなく切り捨てる。
とはいえ本気で非難している訳ではない。ポグロムをからかって楽しんでいるのだ。ゼノビアは口数が少なくぶっきらぼうだと思われがちだが、案外話し好きだった。
―――……あの雄のどこが気に入ったのだ?
―――別に気に入った訳じゃない。けど……。
―――けど、なんだ?
―――イリヤは、わたしの名前を聞いても気にしなかった。
―――………。
ゼノビア・ルキーニシュナ・ポグロ=ポグロム。
この名は帝国において大きな意味を持つ。正確には、ポグロ=ポグロムという姓が。
ドラゴニア帝国において姓を持つのは貴族だけである。そしてその姓は二つの部分に分かれる。一つは氏族姓。ゼノビアの場合は"ポグロ"に当る部分だ。そしてもう一つが竜名。ゼノビアの場合は"ポグロム"である。
後者は読んで字のごとく、契約した竜の名をそのまま姓として用いているものである。複数の竜と契約する大貴族の場合、その中で一番格が高い竜の名を称する。また、竜と契約はしているが一家を立てて独立していない貴族――概ね大貴族の家族や親族――が家長の竜名を用いる慣習もあるが、貴族としての正式な名乗りは自ら契約している竜の名である。その為、親子であっても正式な姓が異なる場合がある。
では、氏族姓とは何か。これは人間の氏族を名乗っているのではない。契約した竜が属する氏族の名なのだ。
帝国勃興期に人族と契約を結んだ五頭の"龍"。"龍"とは竜の氏族を率いる族長に対する尊称である。彼らは自らの氏族に属する竜にも人と契約するよう命じた。この方針に反発し氏族を離れ"はぐれ竜"となったものもいたが、多くの竜が族長に従った。
"白帝龍"ベルラントは初代皇帝アレクサンドルと契約し、その他の"龍"は後の大公家の祖となる有力者と契約した。そして、それぞれの眷族を契約者の一族や配下と契約せしめた。
つまり、帝国貴族が契約する竜は五つの氏族のどれかに属していた。その所属を示すのが、氏族姓であった。
"白帝龍"ベルラントのベルロ氏族。
"破山龍"ジルラドのジルロ氏族。
"星辰龍"ヴェーズメイのヴェゾ氏族。
"海嘯龍"オストモーレのオスト氏族。
"蒼穹龍"ネベサスのネバ氏族。
帝国の貴族はすべていずれかに属し、その氏族の長たる"龍"と契約した皇帝あるいは大公に服属する。これこそが帝国の貴族制の根幹であった。
その例外が、六つ目の氏族姓"ポグロ"を冠するポグロム家の存在である。
帝国歴203年。一人の少女が一頭のはぐれ竜と契約を交わした。珍しいことではあるが、帝国史において絶無であった訳ではない。そういった場合その竜は元の氏族へ復帰し、契約者は貴族として取り立てられその竜の氏族姓と竜名を名乗ることになる。
しかし、この契約が特異だった点は、契約を結んだ竜が一つの氏族の長たる"龍"だったことだ。
"絶龍"ポグロム。
眷族をもたず、たった一頭でひとつの氏族を称することを他の龍から認められた竜族の異端者。"龍大陸"ドラゴンラント各地を放浪していた孤独な龍がなぜかドラゴニアに現れ一介の少女と契約を結んでしまったのだ(一説には「「人と契約を結ぶなど竜族の恥。ベルラント討つべし」と唱えてドラゴニアへ攻め入ったものの、その地で最初に出会った少女にほだされて契約を結んだ」といわれているが、ポグロム大公家はこの説を公式に否定している)。
当時の帝国政府は大いに悩んだが、結局ベルラントの助言を受け、少女に五つ目の大公家を興させた。
以降300年。ポグロ=ポグロム家は一切の与党を持たない奇妙な大公家として存続している。
そういった歴史的経緯の為にポグロ=ポグロム家の人間は帝国の貴族社会で浮いた存在となっていた。
なにしろ他の貴族と違って同氏族の仲間というものが存在しない。大公と言ってもポグロム一頭を養えばいい為、貴族の平均より少し大きい、という程度の領地しかもっていない。人と土地を持っていないということは権力が少ないということであり、従って権力闘争の場でもあまり重視されない。
一方で家格はしっかり大公であるから、似たような立場の零細貴族は敬遠して付き合ってくれない。
そんな、ポグロ=ポグロム家の立場は、貴族社会の縮図である竜騎士学校でゼノビアに丸ごと降りかかってきた。
入学早々、同級生たちは顔見知り同士でグループを形成していた。貴族社会は狭い。大抵の同級生は、入学前からの知己を持っているようだった。大物貴族の子どもは取り巻きたちに囲まれ、そうでない者たちも親同士の付き合いがある相手と行動を共にしていた。
一人でいるゼノビアに声をかけてきた者たちもいた。だが、彼らは皆、ゼノビアの名を聞くととってつけたような挨拶を残して去っていった。
「あの」ポグロム大公家の人間というのは、貴族社会においてはみ出し者として扱われている、とゼノビアが知ったのは、この時が初めてだった。実家にいたころは他の貴族と付き合いがほとんどなかった為、そのことに気づく機会がなかったのだ。
また、彼女にはもう一つ敬遠される理由があった。もっともこれも彼女がポグロム家の人間であることに関係していたが。
竜騎士学校に入学してきた生徒たちは皆、竜との契約を済まし貴族社会において成人として扱われる者であるが、その大半が家督を継ぐ前の被扶養者たちである。彼らはたとえ大貴族の嫡子であっても、一門の象徴たる「名字の竜」と契約していない。たいていはその竜の眷族である格の低い竜と契約し、貴族としての第一歩を踏み出すのだ。
だが、ポグロム家の場合は「名字の龍」であるポグロムに眷族が存在しない。にも関わらずゼノビアが入学しているということはすなわち、彼女が"絶龍"ポグロムの契約者であることを意味した。
それなりの貴族の子弟でも矮竜やせいぜい小竜、大半の生徒が亜竜としか契約していない。そんな中、最高位の"龍"との契約を持つゼノビアは明らかに異質な存在だった。
入学して二カ月、ゼノビアは結局、一人の知己を得ることも出来なかった。
―――わたしとあんな風に話してくれたのはイリヤが初めて。
故郷では大公家の嫡子という立場だった彼女には同年代の友人はいなかった。幼いころから共に育った侍女のミーラとは心の中を打ち明けられる関係だが、やはり主君と家臣と言う立場の差は超えられない。
彼女は、竜騎士学校での出会いに少しだけ期待していたのだ。初めて対等に付き合える友人が出来るのではないか、と。
そんな彼女の期待は無残に打ち破られた。イリヤと出会うまでは。
―――し、しかし、あの雄はお前が何者かも知らず身の程をわきまえていないだけやもしれんぞ。
―――そんな人いる訳ない。
ポグロムの強引な理屈にゼノビアは呆れたような言葉を返す。
自分でいうのもなんだが、ポグロ=ポグロムの姓は皇帝の次に有名である。よほどの田舎者でもない限り、聞いたことがないなどということはまずあり得ない。
万が一ポグロムの名に覚えが無くとも、氏族姓と竜名が同じという一事でゼノビアが大公家の人間である事はすぐにわかる筈である。最低でも、自分が大公に連なる者と知っていてあれだけ普通に接してくれた。
それだけでゼノビアは嬉しかった。
ところで、15歳にして"龍"と契約を交わしたゼノビア・ルキーニシュナ・ポグロ=ポグロムは、それでもやはり箱入りのお嬢様であった。
だから彼女は、帝国にはドがつくような田舎があることを知ってはいても想像したことはないし、そこに住む人々が、領主の他にはせいぜい帝族のことくらいしか知らないのが普通であるなどとは思ってもみなかった。