初登校
移動とあいさつ回りの疲労を感じたイリヤは、昨夜のゼノビアとの食事の後すぐにベッドに入った。
部屋に備え付けられてあったベッドは恐ろしく寝やすく、あっという間に寝入ってしまった。
少し前からぼんやりと目が醒めかけているが、中々起きる気にはならなかった。
寝やすいベッドって言うのは起き辛いベッドでもあるんだなぁ、などと寝ぼけたことを考えながら覚醒と睡眠との間をいったりきたりしていたイリヤの至福の時に、割り込んできた声があった。
「……様、イリヤ様。おきてくださいませ」
「う~ん、スヴェー、悪いけど、もう少しだけ寝させて」
「わたしはスヴェトリア様ではございません。イリヤ様、あまり遅くなると遅刻されてしまいますよ」
その声に、顔をしかめて片目だけ開ける。
イリヤの寝ぼけた視界に飛び込んできたのは、黒髪の美少女の顔だった。
「わぁっ!?」
一気に目が冴えた。
「おはようございます。イリヤ様」
ベッドから跳ね起きたイリヤに、彼の侍女、ニーナ・ワレンシコワは微笑みかけた。
「びっくりしたよ。まさかおこしに来てくれるなんて思ってなかったからさ」
洗面台で顔を洗って(驚くべきことにこの部屋には洗面台の他風呂やトイレまで付属していた。謎の扉の片方がそれであった)眠気を飛ばしたイリヤが、顔を拭きながら言った。
「本当は昨夜の内にご予定を伺った上で参るつもりだったのですが、お休みのようでしたので」
ベッドを整えていたニーナが振り返りながら応える。
「昨日は早めに寝ちゃったからね。あ、ありがとう」
後半は制服を渡してくれたことに対する礼だ。
着替えよう、として手がとまる。
目の前にはにこやかな笑みを浮かべるニーナがいる。
「……ええと、着替えたいんだけれど」
「はい。あ、お手伝いしたほうがよいでしょうか?」
「いらないよ!いくら貴族でもそこまでやらないでしょ!?」
「そういった方々もいらっしゃるようですが……」
「とにかくっ、自分で着替えるから!あっちいっててよ!」
「はあ……」
ご命令とあらば、とニーナは洗面室兼浴室へと入っていった。
こころもち残念そうだったの気のせいだと思いたい。
「ふう」
ニーナを追い払ったイリヤは制服を一通り身につけた。軍服に準じたデザインなので、典雅な見た目とは裏腹に機能的な服である。
「あとはこれか」
ベッドの上におかれたそれに目を落とす。
軍刀である。
イリヤは本日付で士官候補生の身分となる為、佩刀を許されるのだ。
腰に革製のベルトを通し、軍刀を金具に固定する。
一応はこれで、士官候補生の完成だ。
(似合わないなぁ)
姿見に映った自分の姿を見て、心の中でそうつぶやく。彼の柔和な顔立ちには、確かに、いかにも強そうなこの姿は似合っているとは言い難かった。
―――イリヤ、かっこいいね!
彼の竜はまた別の感想を持ったようだが。
―――そうかな……あんまり似合ってないんじゃないかな。
―――かっこいいよ!きのうのちっさいこよりもずっとかっこいいっ。
自信なさげなイリヤとは裏腹に、スヴェトリアは満足げだ。
―――ちっちゃいこ?……ああ、ゼノビアのこと。でも、ゼノビアにカッコよさで勝ってもなぁ……
彼女はかっこいいのではなく可愛いのだ。
いや、だからといって可愛さで勝負する気はないが。
―――いいの!イリヤはあのこよりだんぜんすごいってことだから!
―――そ、そう?
まあ、褒められて悪い気はしない。
スヴェトリアはイリヤのことならなんでも肯定的に見るようなところがあるが、それでも称賛は称賛だ。
気を良くしたイリヤは、スヴェトリアに求められるままに様々なポーズをとる。
「……なにをされているのですか?」
いつの間にか戻ってきたニーナに、呆れた顔で見られてしまった。
自分の主人は実はナルシストなのではないかという深刻な疑惑を抱いたニーナの誤解をなんとかはらしたイリヤは、一人で朝食を済まし(ゼノビアは朝食は自室で取る主義らしい)、学舎にある教室に向かった。
竜騎士学校では、座学の授業は一学年五つの小隊に分かれている。
イリヤが割り振られたのは第五組だった。ちなみに、ゼノビアは一組とのことである。
また迷ったら困ると思い早めに出たのだが、幸いまっすぐ辿りつけたので、イリヤがついた時には教室には誰もいなかった。
(ちょっとはやく来すぎちゃったかな。まあ、遅刻するよりはいっか)
階段状になった教室の、後ろから二番目の列のやや窓際よりに座る。一番後ろや窓際は誰かの指定席になっているかもしれない。かと言って最前列や真ん中は悪目立ちしそうで嫌だった。
こういうところはイリヤは小市民であった。
しばらくしてちらほらと生徒が現れ始めた。
イリヤに気付いた生徒は一様にぎょっとし、仲間内でひそひそと会話をしている。イリヤの方を伺ってくるものもいたが、彼に話しかけてくるものはいなかった。
(うーん、やっぱりこういう扱いか。仲良くなれそうな人いるかなあ)
こういう扱いは予想はしていたので、それほどショックではない。
だが、ゼノビアという知己を得ていなければ、これほど平静ではいられなかっただろう。
(友達が一人いるのといないのじゃ全然違うからなぁ。ゼノビアと友達になれて本当によかった)
心中で小柄な友人への感謝を新たにしていたイリヤに突然、
「ねえ、そこ、授業が始まるまでにはどいてくれるよね?」
棘のある声がかけられた。
驚いて、声の方を振りむく。驚きの半分は、声をかけられると思っていなかったため。
残りの半分は、その声に聞き覚えがあったからだ。
「その席はいつも僕が使ってることを知ってて……っ」
振り向いた先には、記憶よりほんのすこし大人びた顔があった。
癖のついた金髪を肩まで伸ばした髪型は変わらない。
いつも尊大そうな表情を浮かべていた瞳に、今は驚愕の色を昇らせている。
「ボリス坊ちゃん……」
イリヤの故郷、エストラ。
その領主の嫡男、ボリス・セーヴィチ・ベルロ=ノルサントだった。




