10:笑顔と雨と、藤の花
新しい季節の始まり。
それはぼくにとって、特別な意味を持つ日でもあった。
もちろん、新しく中学生にあがるっていうのも、大きな意味だけど。
でも、それ以上に『新生活』っていうのが、かな。
ま、この辺りに関しては詳しく語る気はないかな。
ともかくぼくは中学校を前に、校門をくぐる。
なにか楽しいことがあればいいなーって思ってはいるけど。
あんまり期待し過ぎちゃえるほど、ぼくはもう子供じゃないからね。
でも、最近思ったことがある。
何気ないことに感動できることが、幸せなんだろうなーって。
今までのぼく、贅沢をしすぎていたのかも。
だから、これからはそういうニンゲンを目指そうって。
誰にでもニコニコして、優しくて、だからこそ優しくしてもらえて。
うんうん、それが一番なんだから。
そう決意してからの、新生活。
真新しい学校指定のブレザーは、贔屓目なしに言っても、ぼくには似合っちゃっていた。
キラキラと輝く太陽の下、たくさんの目がぼくに集まってくる。
うん、でも、いいかな。
その視線の質も“ぞわっ”とするようなものじゃないから。
大丈夫大丈夫。
友達たくさんできるといいなー。
そんな浮かれ気分で、下駄箱への道を歩いていると、だ。
――ぼくは一種独特な視線を感じた。
「……うん?」
この感じは、味わったことがないものだ。
刺さるとも違う、まとわりつくとも違う、包み込むような……。
新入生の流れから抜け出て、ぼくは立ち止まる。
視線は、まだ感じていた。
向こうもぼくが気づいたことを、気づいたのだろう。
先ほどよりもあからさまに、明らかにそれは、近づいてきた。
「新入生だよね?」
「……え? あ、はい」
人混みの中で浮かび上がるような、存在感を放っている。
それは黒髪のきれーなお姉さんだった。
お姉さんって言ってもただの上級生だけどね?
底知れない笑顔を浮かべた、女の子。
瞳の中に、わずかにハートマークが見えるような気がするけど、そんなわけないよね?
先輩は、ぼくより少し背が高かった。
「なにか用ー?」
「うん、そう」
しっとりとした声で彼女は、ぼくの方に手を伸ばしてきた。
なぜだかぼくはそれを払いのけようとは思わなくて、受け入れちゃった。
「襟元、裏返しになっているよ」
「あれ?」
「うん、これで大丈夫。もう直ったよ」
「わざわざ? それだけ?」
「そうだけど」
ぼくがぱちぱちと瞬きをすると、彼女はわずかに首を傾げた。
それじゃあさっきの視線の正体が、説明できないよ?
「それじゃあわたしもう行くね。これからよろしくね、下級生さん」
「うん、ありがとー」
小さく手を振る彼女に、ぼくも手を振り返す。
なんにもわからないみたいな顔をしてみたけど……。
はぁ、と思わず深い息をはき出してしまった。
直してもらった襟を触るそのとき、ぼくは手のひらに汗をかいていたことに気づいた。
校舎を見上げる。
なんだったんだろうかなあ、あの女の子。
「……すごい人がいる学校だねー」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
学校での友達は、面白いぐらいにできてしまった。
やっていたことはなにも変わりない、いつもの通りだけど。
ま、そうなるだろうな、っていうのはちょっとだけ思っていたから、平気だった。
友達がたくさんできるのは、すごくいいことだ。
ぼくが今こうしてここにいられるのも、友達のおかげだからね。
だからぼくはいつでも、誠意を持って付き合っていこうって思っている。
ぼくがみんなの話を、ニコニコしながら聞いていると、みんな喜んでくれる。
会話が切れたタイミングを見計らって、「そうなんだー、すごいねー」と相槌を打つと、また楽しそうにお喋りしてくれる。
ぼくはそういうのを聞いているのが、好きだなーって思うんだ。
ぼくを中心としてできあがった輪では、幸せな気持ちが溢れている。
いつまでもこうしていたいって思わないでもないのだけど。
でも、ぼくはキリの良いところで、その輪をあえて崩す。
体育の時間、ぼくはひっそりと体育館から抜け出した。
「ふー」
ぼくがいることによって完成されちゃうその関係は、ちょっぴり危うい。
今でも、少しずつ軋みが見えてきているのだよ。
女の子たちに、取り合いにされちゃっているからねー。
ぼくはみんなに仲良くしていてもらいたいって心から思うんだけど。
人間関係、そう簡単にはいかないものだ。
でも今度こそ、ぼくはやり切らなきゃいけない。
ぼくはぼくの周りの人たち、全員に幸せでいてほしいから。
「気持ちを伝えるのって、結構難しいからねー」
「そうかもね」
「……えっと」
ぼくの後ろにいたのは、入学式の日に会った、あの黒髪の先輩だった。
「こう見えてもぼく、結構カンの鋭い人なんだよ?」
「たぶんそうだと思ったよ。でもこう見えてもわたし、気配を消すのはけっこー得意なの」
「そうなんだー」
「えへへ」と可愛らしく微笑む先輩に、改めてぼくは自己紹介する。
すると彼女も、ぼくに自己紹介をしてくれた。
「フジイ先輩? ぼくに会いに来てくれたの?」
「そうだよ。休み時間はいっつもお友達に囲まれているもんね。だから、こうして授業中にやってきたの」
「そっかぁ。もしかしてぼく、なにか気に食わないこととかしてた? 女の子の先輩にシメられちゃったりする?」
「んー」
先輩は顎先に指を当てながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
壁際に追い詰められたぼくの顔の横に手をついた。
「あ、これ壁ドンってやつ。でも女の子にされるなんてなぁ」
「わたし、あなたと仲良くなりたいの」
「“仲良い”にも、けっこー色んな種類があるんだよねー」
「あなたの思うのとは、ちょっと違うかもしれないな」
先輩の黒い瞳が、ぼくを覗き込む。
不思議な目をしているなー、と思った。
今までたくさんの大人を見てきた自負はあるけど、その誰とも違っている目だった。
なんだか、奥底まで見られちゃっている気分だなー。
「恥ずかしいんだよ?」
「でも結構わたしも、勇気出してきたんだもの」
「目的を達成するまで帰れないって?」
「ううん、チャンスはこれからも、いくらでもあるから」
「ぼくが『やだ』って言っても?」
「あなたは言わないよ」
まぁね。
ぼくの目の前にある、先輩の唇が動く。
「あるいは、言えないのかな」
「……」
少しだけ、ドキッとした。
表情には出していないのに、でも、全部知られちゃっている気がする。
「……それってどういう」
そのときだった。
遠くから、ぼくを呼ぶ声がした。
どうやら、体育館を抜け出したぼくをわざわざ探しに来てくれたようだ。
「お友達来ちゃったね。じゃあまたね」
すると先輩は鮮やかに去ってゆく。
長い黒髪の香りが、ふわりと漂った。
慌てた様子で飛んできた友達に、ぼくは笑顔を向ける。
「探しに来てくれたのー? ありがとー」
「ねえねえ、今の藤井先輩だよね?」
「え? うん、そうだよー」
にこやかにうなずくぼくに、彼女は眉をひそめていた。
「なにかされなかった?」
「なんにも」
「そっか……。でも気をつけてね、あの先輩」
「どーかしたの?」
「良くない噂、いっぱいあるんだよ」
彼女に手を引かれながら、ぼくはその『良くない噂』をいっぱい聞いた。
曰く、男の人をとっかえひっかえ付き合っていた、と。
曰く、女の人も気に入った子をかたっぱしから手篭めにしている、と。
曰く、暴走族を素手でぶちのめした、と。
曰く、裏組織とも繋がりがあって、何人も気に入らない人を消していると、と。
曰く……曰く……。
どうやら有名人みたい。
中学生にあんな人がゴロゴロいたら、どうしようかと思ったよ。
ま、ぼくはもちろんそのすべてを鵜呑みにしたりはしないけど。
でもきっと彼女は、ぼくのことを思って言ってくれたことだ。
「わかった、気をつけるよー。わざわざ教えてくれてありがとね」
そう言うと、彼女はとても嬉しそうにうなずいてくれた。
だからこれが正解だったのだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ふー、と息をつく。
トイレの個室で、ぼくは少しだけ目を閉じた。
入学式の日から、約一ヶ月。
失敗しないように、失敗しないように。
なんだか最近、そればっかり考えている気がする。
友達はみんな良い人ばっかりだ。
ぼくにもすごく優しくしてくれる。
だから、話しかけてくれた人にはみんな楽しい気持ちになってほしいし。
ぼくにはそれが他の人より、ちょっぴり上手にできるから。
普通にしていればいいだけなのに。
でもときどき、その普通がわからなくなってきちゃう。
まだまだ修行が足りないなあ。
そんな風に目を閉じていると、上からこつんとなにかが降ってきた。
うん……?
トイレの床に落ちたそれは、メモ紙だった。
綺麗に四つ折りに折りたたまれているそれを見ただけで、ピンと来た。
たぶんこれ、あの先輩だ。
宛名も差出人の名前もないけど、なんとなくわかっちゃった。
『――放課後、図書準備室で待っています』
その一文を見て、ぼくはどうしてもそこに行かなければならないと思った。
大好きなお友達たちの誘いを断るのは、心苦しかったけど。
でも先約がいるっていうことで、どうにかして、ぼくは抜け出した。
図書準備室に待っていたのは、疑う必要もなく。
黒髪のあの、フジイ先輩だった。
「来てくれると思っていたよ」
「ぼくも、待っていると思っていたから」
先輩は静かに自分の髪を撫でていた。
初めて見たときに感じた、その底知れぬ雰囲気は、噂のいくつかが真実であることをぼくに教えているようだった。
なんだろ、これって怖いもの見たさ?
ううん、ぼくも先輩のことを知りたいって思っちゃっているのかも。
「先輩は、どうしてぼくと仲良くなりたいの?」
「……わたしはね」
「うん」
「今、人とは関わらないようにして、生きているの」
「うん」
「本当はこうしてあなたに話しかけるのも、わたし自身よくないことだと思っているんだけど、でも、どうしても仲良くなりたかったの」
「うん、どうして?」
「……」
先輩は目を伏せた。
その唇は、わずかに震えていた。
「だって」
「だって?」
その瞬間、先輩は顔をあげた。
頬が真っ赤に染まっていた。
「すごい! もう! かわいいんだもん!」
「……ふぇ?」
「ちょうかわいい! 初めて見たときからすごい! かわいかった! かわいかったの! やばい、だいすき! 一目惚れ! きゅんきゅんしちゃうの!」
「え? え?」
あ、なんか呆気に取られちゃった。
先輩の周囲にハートが散布されているような気がする。
その瞳は、うるうると潤んでいた。
「だってもう! やばいの! 抑えきれなかったの! わたしもうたまらないの! 可愛いんだもん! 人気者になるのも当然だよね! だってすごいかわいいんだもん!」
「ぼ、ぼく、そこまでじゃあないよ?」
「ううん! かわいい! かわいすぎ! だってその所作とか! 人間力とか! とんでもないの! たまらん! わたしと付き合ってください! 友達から始めてくださいお願いします大好き!」
「え、えーっと……」
なんだろうこの先輩……。
ぼくは目を丸くしちゃっていた。
こんなに自分の本能に忠実に生きている人、見たことない。
興奮しすぎだよ?
そのパワーに押され、ぼくはちょっとだけ後退りする。
「お願いします! 付き合ってください! 大好きなの! 超ラブラブ愛している! わたしあなたに会うために生まれてきたのかも! ラブアンドピース! ちゅーしたい! ちゅー! ていうか付き合ってくださいまじで! 付き合ってくれなきゃもうやだー!」
この学校で誰かに告白されるのは、初めてのことだった。
ぼくは誰に告白されても、断る気でいたんだけど。
でも、そのときのぼくは、先輩の勢いに押され、思わずうなずいてしまった。
「う、うん、いいけど」
「ほんとに!? ほんとにほんとに!? いいの!? やったー! もうだめだよー! いいよって言ったんだからねー! わーいわーい! 大好き!」
「でもぼく、先輩のことなんにも知らないよ。先輩だってぼくのこと」
「いいの! これから知っていけばいいの! えへへー! よろしくねー! えへへー! 大好き!」
先輩に抱きつかれて、ぼくは思わず身を固くする。
色々と、色々なことを思い出しそうになって。
でも先輩が、そっとささやく。
「大好き。絶対に、絶対に幸せにしてみせるからね」
「……う、うん」
「――力ずくでも」
「…………なにをする気なのかな」
それがぼくと先輩の、突拍子もない出会いだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「そんなことも、あったねー」
「先輩は当時からぶっ飛んでいたにゃあ」
「えー、嬉しいなあ」
「褒めてないない」
久しぶりに見た先輩は、にへらと笑いながら髪を撫でていた。
たまたま外で会って、そのまま一緒に喫茶店にやってきたのだ。
先輩はコーヒーカップを置いて、穏やかに微笑む。
「でも、あなたは変わったよね」
「そうかな?」
「うん、きっと良いことがいっぱいあったんだと思うよ」
「先輩がそう言うなら、きっとそうなんだろうねー」
受け入れて、ぼくも笑顔を見せる。
中学に入って、それから先輩と少しだけ、付き合って。
翌年先輩が卒業して、ぼくは学校に残されて。
ううん、それからも色々なことがあった。
でもたぶん、楽しいことばっかりだった。
「ぼくが変わったのは、先輩のおかげかにゃあ」
「え、なにか言った?」
「ううん、なんでもー」
なにも考えていないようで、その実際、本当になにも考えていない先輩はきょとんとして。
それからすぐに笑顔を見せた。
「じゃあショウコちゃん、次はわたしが未来の乙女ゲーに閉じ込められたときの話をする? えへへ、十二万回ぐらい死んだんだよー、すごいでしょー」
「えと……。それは長くなりそうだから、また今度がいいかにゃあ……」